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認識によって想像も理性も限定されている件-不可知論的逃避、アプリオリを超えて

適当な言葉が思いつかないからたぶん一番合っていると思われている認識というものを私は使うのだが

認識をどう定義するかわからないがいわゆるこれだと認める意識ということである

なので認識は何か発想の最初の段階で働く作用であるある種出発点のようになっている前提を作り上げる際に必要な作用ということができる

ー私と認識の関わり合い

この認識がいかに発生するのかということには
規則があるのは明らかなのだが
その規則の大まかな形しか私達は意識できないようである

そんなことを大学院で研究していて
現代はいわゆる実存主義的な認識を前提としている世界だと言えることがわかったのだが

実際のところ人間の歴史ではそればかりではなかったので
過去の様々な認識の前提を
現代人はもっと参考にしていいのではないかとそう考えた

まあ研究していたのはもう昔の話で今は引退!?している
のだが今もその認識源泉の形が何であるのかは考え続けている

ここでは私の健忘録でもあり認識というものが一般的に
まだ浸透していないこともあるので
その認識ということについて考察していき

たぶんこれはそう読まれることがない
余りショッキングでない地味なネタなので
私のブログに関心もった人が
基本的に人の存在の何かをさらに深く考えたり
発見していただければと…

何か現代をいきる実存という現実に少しでも加えられることが
できたら幸いである

※私はマガジンはカテゴリーわけ程度に考えているのだがこのマガジンはそうしたネタでの論文調エッセイになっている まあ妙な言葉でいうならロジセイ(路地性)

ソクラテスがいっていた見えていないけれど知っているという認識の仕組みとは

哲学的に人が知を探求する場合そのルールが論理とか理性とかだけになると考えがちなのだがソクラテスはそれだけで全てとは考えていなかった

それがイデア論ではある
つまりイデアとはその全体は未だ認識できない状態だがそれでも人は知っていてときより指す光で人はその部分を理解することができると
そう彼は説いていた

分からないのにわかっているというのはどうも胡散臭い匂いがする説明だがそれは2000年以上も前のソクラテスの表現だったからそうであるので現代では似たような言葉も思いつく

それは量子論的な宇宙論である

アインシュタインが注目されるまでにはもう相対性理論は発表されていた 
つまりメディアに取り上げられるということで何か真実がそこにあると考えるのは早計だ
メディアは聴衆が理解できることしか提供しない
そもそも物理学的な本当の発見や意味を我々は知ることはできない 

もちろん論という段階の場合科学では仮説でしかなく
それが本当かどうかは確かめられていないケースも多い

この場合は考えとしては確かに適当だが
一体それが何を意味するのかということについては
諸説が渦巻いてしまうほど混乱している

これは一例として挙げたので
いいたいことは別にあって
現代風にソクラテスの考えを焼き直してみると

人が世界とか現実を理解する根拠(実存)は
部分的であってイデアという理想や絶対善を
すべて理解することが今はできていない

しかし不可知なままではもちろんなくて
人が経験やらインスピレーションやビジョンなどのもので
違った認識形態を獲得したら
また世界とか現実というものが新しくなる
そうやって人はイデアに近づいていく

まあそんな具合になるのだろう


認識がいかに成立するかの考えでの歴史的な対立

この世界を構築する根拠は認識されることで起こると
言えるのだが

歴史的に大きな流れの一つは
いわゆる実存主義的な考えで
ある種の前提を用いる場合認識は人が把握できると考える立場だ

ある種傲慢な態度のようにも思えるが
実際のところそうせざる負えないほど
人は認識を自分で操れないという構造もあるようだ
認識は自動的に生じてしまう機能であって
人の生命を操作できないのといっしょで
精神的もしくは理性的な次元で人は認識を
どうこうはできない構造として持ってしまっている

それである種仕方なくといったら語弊があるが

近代において人は
我思うゆえに我ありとデカルトが言った言葉をかみしめるようになる

しかしデカルトの意図は最初の言葉にもあるように

我思うゆえに我ありから哲学を始めるのがいいだろう

といったのであってそもそも単純にそう規定するのが全てだとは
思っていなかったように思える

これは個人的な意見になるが
仕方なくそうするしかないと思うのは自然かなとそう思うのだが
しかし現代人はこの認識の扱いの仕方に慣れすぎてしまって
デカルトの本意は忘れ去られてしまった

よくある二番煎じ、尾ひれがついてしまったという状態で
デカルトが求めていた立場の核心をとらえて
その先をみようとすることをすることはない

一般化というのは多くの人に支持されるということで
その場合はしょられる部分が多い
核心的部分もその例にもれない

これはある意味不可知論的な認識への反抗やら逃避みたいなものかもしれない

実は知られていないが彼の有名な言葉で彼は書を初めて神の存在証明をしているのである 
我思うゆえに我ありの彼の発想は無神論的ではないのだ
人間が全て捉えられるという点を強調したから
無神論的な立場に陥りやすい傾向を彼は生み出したとはいえるが…


デカルトの思いがどうであれしかしながら
それだけで哲学を構築は
ソクラテス以来人はしてきていなくて
認識に対して違う立場を考える人も多かった

というのもそもそもソクラテスは
我思うゆえに我ありとは言っていないからだ

開祖というべき人物の考えであるイデア論を
そのまま放置するほど人も愚かではないのである

じゃあその近代的な違う立場がなんであるのかといえば

それはカントという人が考えていた
アプリオリという概念が当たる

アプリオリというのは人が考える以前から存在していたもので
人の考えではその解釈しか見出せない
そういうものがあるということだが

これはある意味ソクラテスのイデアと
それを人が認識する方法を詳しくいったこととも言える

アプリオリ的な概念はどういうのがあるかというと
例えばそれは時間である

人が考える以前つまり我思う以前から
時間という概念は存在していたと
そうカントはいって

そういうものはたくさんあり
それらをアプリオリ的なものといっていたのだ

確かにそれも正しいように思えるが
しかし認識できないものを想定してわからないのに
それを考えることに意味が持てないのも事実なので

このカント的な考えは
実存主義的な現代の中ではあまり採用されていない
もちろん全く忘れ去られているわけではないのだが

こうして認識はこう成立するという考えに
二つの大きな流れがあることがわかるのだが

実際のところそれはあることへの立場を中心として
分かれた考えであり

どちらも正しいと思えるところがあるのだあることへの立場が
まるで違うために矛盾もしくは対立しているのが現状だ

それを人が消化しきれないでいるといったところか

※あることついてはまた触れていきます
いいねが多かったら続きを書きます

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