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どうも、私数弱浪です。私も京医、行きたかったなあ。

はじめに

これは私が中学受験で進学校に落ち、自称進コンプレックスを爆発させながら鉄緑会で6年間勉強した大学受験奮闘記である。

高校を中退し、京医に落ち、後期で奈良県立医に受かった人間の合格体験記兼不合格体験記(?)を1人でも多くの人が楽しんでくれたら幸いに思う。

注意)ほぼ自分語りとポエムなので、受験生に向けて役立つ章はクリスマス模試及び共テの1部、これから受験勉強を頑張るあなたへ のみである。忙しい各位は、その章のみを閲覧すると良いと思う。






炸裂!中学受験コンプレックス

洛南高附属に落ちた。模試の判定はずっと悪かったし、受かるわけないなあと思いつつ受験したので涙は出なかった。全力で頑張れなかった後悔が残ったまま、滑り止めの某女子校に入学した。偏差値は洛南と10以上違った。入学式の日に来た制服はとてもみすぼらしく見え、全く希望をもてず不貞腐れた顔で校門をくぐった。第1志望でこの中学に入った、と言うクラスメイトをとても仲間とは思えなかった。自分はこんな場所にいるべき人間じゃない、みたいな気持ちだけが心に重く残っていた。

私は思った。大学受験では絶対洛南の女子に負けたくない。絶対に人から褒めそやされる大学に行く……。洛南へのコンプレックスは私を鉄緑会の入塾テストへ向かわせた。親にも懇願し、なんとか中1から鉄緑会に通い始めたのだ。

挫折、ダス・マンへの堕落

そんなこんなで鉄に入り、中学受験成功者に囲まれながらスタートを決めた所まではよかった。問題は2週目の数学の日だった。宿題が多すぎる。間違いなく一日で終わらない。今までの人生で、大した努力をせず、地元の塾で1番の成績を取り続けていた人間には衝撃が大きすぎた。結局宿題は終わらず、2週目にして早々鉄をサボった。
ここから、鉄で友達とバンドリをしたり、授業中手紙回しをしたり、という鉄緑生あるまじき生活が始まる。

この時の私は本当に今が楽しければいいや😎!的マインドであり、ハイデガー的に言えば気晴らしに夢中になり堕落していたのである。当時の成績は、校内模試で英語の偏差値が55、数学が40(?!)で、到底京大など目指せないものだった。勉強をそれなりにし始めたのは中3後半くらい。本当に愚か。

絶望の東大模試(中3)


恩師との出会いにTwitterを添えて

どれだけサボっていてもとりあえず授業に出て適当に宿題をやれば中高ではそこそこの成績が取れるのが鉄緑のいいところである。自称進学校ではほとんどトップ3の中に入っていたし、学校では怖いもの知らずにイキり散らかしていた。

高1で私は恩師、および✝️仲間たち✝️と出会った。恩師とは、当時英語を担当してくださったN先生である。彼は京大の医学科に通っており、笑顔がとても可愛らしく、物腰の柔らかな方だった。
人格だけでなく英語の指導者としても素晴らしく、授業のたびに配られるプリントには本題で少しだけ触れられただけのような単語にも相性の良し悪しをまとめたリストが作られている上、英作の添削もとても丁寧だった。また、彼は私に「英作のセンスあるよ!」と常に褒めてくれた。彼に褒められたくて頑張る生活が幕を開けたのである。


N先生からサプライズしていただいた写真。
入試後もおはなしさせていただいてます。

努力の甲斐あり、高一後期は人生初のA帯に上がることが出来た。数学も順調に成績が伸びた。高1初期は京大の工業化学科を目指していたが、医学への興味が再燃し、京府医もいいなあ、とか考えていた気がする。高一の時の成績は多分一番良かったように思う。全統記述で全科目偏差値70、進研模試だと偏差値は総合で87?とか。これはバズった。模試で獲るいいね、気持ちよすぎる。あるめかっとからフォロバを貰って無茶苦茶嬉しかった記憶がある。ここからTwitterにのめりこみ、鉄緑生を始めとしたFFとの会話が楽しみの一つとなった。
深夜にめらくんやらうあー、ずんきゃめ(当時のFF)とスペースで永遠に喋り倒したり、駿台模試を待ったりしたのは陰キャなりにとても楽しかった思い出だ。

高1進研模試 かなり嬉しかった🥰

死に至る模試、クリスマス模試

閑話休題、鉄緑生の1大イベントといえばクリスマス模試である。ここまで永遠に自分語りしかせず全く役に立つことを言ってないので、流石にちょっとはいいことを言うつもりで書こう。
まずは結果から。

クリスマス模試

英語は高一A3以外はずっとBだったので、ここでA1に上がったのは大逆転だなあ、と我ながら思う。数学はむちゃくちゃ頑張ったのに出来なかった……。
志望校は、4科目のうち2科目でAに入れるか、1科目でA1が取れたら京医を目指そう、と思っていた。やはり京都大学への憧れが強く、諦めきれない気持ちが残っていたのだ。英語と化学でAにはいる算段だったのだが、英語が爆伸びしたことで、後者で京大の医学部を目指すことになったのである。


英語の勉強法→英語は確認シリーズの例文、英文法、鉄壁など出る範囲が決まってるものはできるだけ完璧にした。これは最低限すべきこと、みんなが取れる場所をとる、という点で重要だったと思う。
リスニングはとにかく隙間時間は必ず聞いていた。電車の中、通学で歩いてる時、あとは勉強したくない時とかも罪悪感を減らすために聞くといいと思う。要約や条件英作文は、過去問を解いて先生に添削していただいた。また、過去問は複数セット集めて解き、時間配分を予め考えるといいと思う。
私は和訳が苦手だったので、和訳を最後にまわし、条件英作に時間を割いた。要約は先に済ませるのが王道だし安定する気がする。
Twitterで先輩FFに媚びを売りまくり、過去問を奪取するのはおすすめ。とにかく先輩とも仲良くなろう。

他の科目は例題とくとか、まあ当たり前のことは当たり前にこなした。敗因を言うならば脳死で解放暗記をしてる感じになってしまったことだと思う。とにかく先生にこまめに質問なり相談なりにいくのがいいのではないでしょうか……。

そんなこんなで絶望と喜びが混ざり合わさりながら、受験期に突入する。

限界状況〜暗黒の受験期編〜


高3。私はここで大コケした。まずただでさえ好きでなかった学校と受験勉強への考えが合わず、適応障害を発症。内職すると先生がブチ切れて出ていく、挙句「お前は受験に落ちる」という旨のことを言われる始末。まじであり得ないと思い通信制へ転入。ここまでが高3春から夏で、当然その間はまともに勉強に打ち込めていなかったと思う。冠模試の判定は京大本レを除けば全部1番下。このまま行くと絶対落ちる、という成績を取り続けていた。
得意だった英語だけは出来た。夏実戦では、数学が55/200、英語が101/150で、面談の時先生が頭を抱えていたのを覚えている。この時点で私は理科を重点的にしており、数学にあまり真剣に取り組めていなかった。苦手科目は夏までにちゃんとしておくべきなのである。


夏の京大実戦。理転ではない(?!)

秋からは少しずつ勉強時間が増えてきた。このまま行くと浪人だということは目に見えてわかった。数学は全然ダメだったので、高2の時に使った参考書や、夏までの復習を重点的にしていた。理科も名問の森を2〜3周して、鉄緑の先生にほぼ毎週質問に行っていた。物理の復テはほぼほぼ平均を割っていたので、丁寧に答えてくださった先生には感謝しかない。
それでもやはり、京医は厳しかった。秋冠も両方一番下の判定だった。京大オープンはCまであと19点だった。伸びたもののやはり実力不足のまま、現役ブーストを信じて共テ対策に入った。

共テ直前期から当日まで

12月から共テ対策を始めた。その時点での共テ模試は78%くらいだった気がする。英語は得意だったので放置して、理科、数学、古典、倫政を中心にやっていた。ただ、秋冠で心が折れ、平均して1日6時間くらいしかできていなかったと思う。志望校はずっと揺れていて、京医から下げて京府医か神医を受けようか常に考えていた。それでも諦めきれず、秋冠の後は先生とできる限り面談をした。とりあえず、2次もやらないといけない、という危機感だけはあったので、鉄緑のある12月下旬までは1:1くらいで2次と共テをしていた気がする。ここまではかなりダラダラしていた。鉄緑が終わって、大晦日からはさすがに火がついて勉強した。毎日駿台の自習室に行って夜まで10時間近く過去問やパック演習と復習に割いた。勉強に飽きた時は適当に倫政を見てリフレッシュするといいなと思う(好きな科目はやるの楽しい!)青パック、桃パック、緑パックを解いて、どれも大体80%強くらいだった。直前期の駿台の共テプレは英語が200、総合が750くらい。英語は5日前から詰め込んだ。
そうしてついに迎えた当日である。
1日目。母に送ってもらい、門の前でハグして会場へ。まずは倫政。直前の演習では90はほぼ割ってなかったし、大体倫理か政経は満点だったので100取るつもりで受けた。手を進めて、マニアックすぎる仏教問題にぶち当たる。わからない。政経も地理要素の強い分野や現社から出題された問が分からず、ぼんやりとした手応えで終わった。
国語は単語の意味問題がむちゃくちゃむずくてパニックになった記憶がある。極論採点するまでは満点なので、とりあえず気持ちを建て直して英語へ向かった。
ここでいよいよ大難化した共テリーディングである。普段なら40〜50分あれば1ミス〜満点取れる試験くらいの気持ちでめくる。おかしい。難しすぎる。ははーん、難化ね。と思いつつとりあえず70分で1周、5分で見直しして終わり。ここで体力を使い切り、リスニングで居眠りしてしまった。英語が強いひとは英R×2、リスニング×1のセット演習をすると難化の時の体力の練習になると思う。

2日目。総じて手応えがなかった。数学は統計がムズすぎて諦めのベクトル数列を選び、計算でつまづいた。物化もまあ微妙。どんよりした気持ちで帰路についた。


共テの開示。文系が好きだ

自己採点では86%だった。後期は名古屋に出したいなあとか考えていたが、774では到底無理である。とりあえず鉄緑のチューターと面談。正直前期の後勉強したくなかったので、三重医か浜松医とかかなあとか考えていた。

チューター「浜松とか受けるんー?唯さん奈県医行けると思うけどなあ……根拠ないけどw」

彼はまあまあ厳しかった。受かると思うと言われ驚いた記憶がある。この言葉に気を良くしてしまい、とりあえず奈県医に出すことになったのである。
この時点ではもう前期は何がなんでも京医を受けようと思っていた。周りが京府医に下げるか悩んだのを引き止めたり、私も下げるか悩んだりしつつ、結局1番行きたいところに出そうと決めたのだ。

2次試験直前期

そんなこんなでなんとか初志貫徹、京医を受けることになった訳だ。ここで大問題なのは、本当に過去問に今までほとんど一切手をつけていなかったことである。1週間でできるだけ2.5セットを目安に、本番と同じ時間割でといていった。鉄緑の直前講習がある期間はあまり進められていなかったが、セット演習の数はだいたい同じくらいだったように思う。
最初は理科が4〜5割を低空飛行していた。これでは到底受からないと悟り、先生を見つけたら毎日質問するくらいの勢いで聞きまくっていた。この期間は、午前中は駿台京都南、昼ご飯を食べて鉄緑に行って質問して講習受けて帰宅、というのを繰り返していた。この時期は休憩時間いだちゃんねるのサイコの直前ルーティーンをみて自分を励ましていた。
質問の成果か、徐々に数学理科で6〜7割が取れるようになった。京医にはまだまだ届かないが、運良く上振れたらもしかしたら滑り込めるかもしれない、なんて幻想を抱いていた気がする。
先生にもこまめに各年の点数推移を持っていってアドバイスを貰ったり、数学なら過去問の添削をしていただいたりしていた。鉄緑生は先生を全力で頼るのがいいと思う。こうして、6年間の努力をかけた2次試験が幕を上げた。

京大受験当日

決戦の日である。
前日はリラックスに全振りしようと決めていたので、駿台に少しよったあと、京大受験に遠くから来たFF(奏くんとかえるくん)とあってお昼を食べていろいろ喋っていた。全員医、理、工で受ける学部が違ったので心から合格をいのれた気がする。彼らと別れたあと、3条のホテルに移動。京都市内でも京大のアクセスの悪さはピカイチなので、実家からいくのは諦めた。夜はこの上なく長かった。何をしていいかがずっと分からず、とりあえず数学の直しとまとめのノート、古典の単語帳だけ読んで睡眠薬を飲み、就寝。

一日目。
京大の医学部棟の前に前述の恩師、N先生を見かけた。彼は研修医だったのだが、私がうけるかもと思って駆けつけてくださったそうだ。チョコレートを受け取り、励ましの言葉をもらって会場に入った。

国語は比較的易しく読みやすい文だったので、試験会場の空気も昼休みは穏やかに流れていた。しかし、悪魔は訪れた。数学である。新傾向、極限だらけのわけのわからない問題が並んでいた。こっちも極限状態だしメンブレ🥺って感じ。
得点傾斜も初めて見る形でひたすら解き方に困った。簡単な問題はとりあえず取って、ほかを全力で部分点を取りに行った。

一日目終わりはどんよりとした空気が流れていた。灘生とおぼしき男子二人組が難化や!!!!と叫んでいて安心したのを克明に覚えている。あの時はありがとう。メンタルがやばかったので、人健を受けたAtmosphereくんを召喚し、あくた川へヤケクソでラーメンを食べに行った。ひたすら数学やばい、2人で受かって医学部新歓一緒に行こうって話をしていた。なお、結果は2人とも不合格だったのだが。


2日目。
受験生のどんよりした気持ちを表すかのように薄暗く、雨が降っていた。数学がやばすぎて朦朧としてたが、英語が得意だったので巻き返そう、という気持ちで向かう。

鉄緑の数学の先生を見つけ安堵。京大の医学科棟は鉄緑生と応援の先生で囲まれることが多いので、鉄出身でない方からすればアウェイかもしれない。彼が後から私の校舎まで物理と英語の先生を連れてきてくださったおかげで無事に応援を貰い、試験会場に入った。

英語も新傾向だった。
注意欄の大問は3つである。で異変を感知した。8番出口にハマってて良かったなあと思いつつ、条件英作が新傾向すぎて焦る。とりあえず急いで埋めた。記号問題も久々で焦った。

昼休みに、記号問題だけカ医ロスくんと答え合わせをしたところ、全部一致し勝利を確信。もきさんとも一緒だったので絶対合ってるはず、と思いつつ理科の詰め込みをして過ごした。
蓋を開けると、2つが入れ違っていた上、医学科志望だけで7人くらいが同じ間違いをしていた。問題が悪い‪💢ふざけるな京都大学。

さて、3時間の長丁場、ラストの理科である。
普段通り物理の力学から解く。おかしい。計算が重すぎる。解けない。正直ここが雪崩た記憶だけが残っていて、ほかは曖昧だ。有機化学はそれなりに戦えてた記憶。手応えが微妙な感じの中、もう1年なのか、届かなかったか、と考えつつ試験は終わった。

この後、出町柳で旅館をオープンする友達の家にお泊まりさせていただいた。2次試験おつかれ会でしゃぶしゃぶをたらふく食べ、友達とむちゃくちゃおしゃべりして22時には寝た気がする。

面接の日は雨だったので、友達のお母様に車で送っていただいた。本当頭が上がらない。


作っていただいた朝ごはん

その後、ばっちり再面接にひっかかり、7人くらいの教授の質問攻めに答えることになるのはまた機会があれば話そうと思う。こうして、人生でいちばん長い3日間が幕を閉じた。

前期試験の後

前期が終わってからは、放心状態でずっと遊んでいた。ぴろぴろちゃんと初めてあってカフェに行ったり、高校一緒だった子と会ったり。予定がない日は母に無理やり家を追い出され駿台に行くのだが、スイカゲームにハマりすぎて勉強が全くできず、駿台の近くのミスドでスイカゲームをし、駿台の自習室で攻略動画を見て、何も勉強せず帰る生活が続いた。結局過去問は1年分ちょいしか解けなかった。

3月10日がやってきた。
その日は通信制高校の卒業式だった。爆速で帰宅し、京大のホームページを開く。友達の受験番号が先だったので、受かってるのを確認。よかった、おめでとう、と思った。

私の番号はなかった。

219はなかった。

落ちたなあと思ってはいたが、僅かな期待に縋っていた。絶望だけが残った。不思議と涙は出なかった。Twitterを開くと、お祭りムードが流れていた。私の特に仲の良かった京医志望の友達2人は受かった。ほかも受かってる人が多かった。私だけが落ちた感覚だった。取り残された気持ちがずっしりと重く、辛かった。


泣いてる暇なく、11日には奈良へと向かった。
奈良県立医大の近辺に何も無さすぎてちょっと引いた記憶がある。試験は数学が難しかったものの、ほかはそこそこ解けたので五分かなあという感じ。面接で通信制高校を出たことにつっこまれなかったことに何より驚いた。

後期試験の後はまじでずっと遊びまくっていた。ダラダラしたり思いっきり寝たり友達と会ったりで10日間が流れていった。

3月22日のことは鮮明に覚えている。
穏やかに合格発表を見るべく、母がお昼だけ借りれるホテル?みたいなのを借りてくれた。1歳の弟と母が部屋にいて、Twitterのスペースがしたかったためロビーへ。謎に警察が来てて焦りつつ、隅っこに座り発表までFFのツイートに反応して過ごした。

15時になった。

手が震える。







受かった。

6449が端っこにあったので、パッと見で見えてしまった。最初はあ、うかったーくらいのテンションだったのに気持ちがどんどん昂ってきた。タイムラインもおめでとうでいっぱいになった。号泣してしまい、ホテルのフロントマンさんが慌ててティッシュを持ってきてくれた。事情を説明するとめっちゃ喜んでくれて嬉しかった。なお、これは全部スペースでFFに筒抜けだった。はずい。
そんなこんなで奈良県立医大医学部医学科に合格し、私の長い長い受験が終わった。


私は6449 いい写真だなあ。


鉄緑会について

ここでは我らが愛すべき母校、鉄緑会について語ろうと思う。非鉄の方からはスパルタすぎるだの地頭が悪いやつを無理やり東大に行かせる塾だの好き放題言われているが、ともかくわたしは鉄緑が好きだ。

主に、①環境 ②教材 ③先生の熱心さ が魅力だと思う。

1.環境
今年の理III首席、京医首席は共に鉄緑会大阪校から輩出されている。このことからも、賢い人がゴロゴロいることで自分が天狗にならず常に上を目指して頑張れる環境だと分かってもらえるだろう。人間は周りに合わせるもので、周りが頑張るからとりあえず自分もやるか、ができるのだ。

2.教材
数学の実戦講座問題集、英語の確認シリーズなどなど、いい教材がいっぱいある。何がいいかはわかんないが、とりあえず使うと成績が伸びたのでいちってことにする。英語の確認シリーズは、テーマ英作を丸覚えすることで使える表現が一気に拡がった。

3.先生の熱意

鉄緑の悪口で最も多く言われているのが、講師が学生なところである。
あほくさいなあ、と思う。
はっきり言って、有名講師に教えを乞う必要があるほど高度な勉強って中堅大学を受ける層に必要なんだろうか?と甚だ疑問だ。
鉄緑の先生は確かにSA以外バイトだが、無給でも当日中に添削をしてくれたり、熱心に面談で話を聞いてくれたりする。

ひとつ、心に残っているエピソードを話そうと思う。秋冠が帰ってきて、物理がとても悪い点だった時、あまりに苦しくて病んで授業を休んだ。欠席理由は謎のテンションで「精神的に苦しいため」にした。怒られるかなあと思っていたのだが、授業後なんと心配の電話をかけてくださったのである!!
私は物理でほぼ下の下の成績を取り続けたにもかかわらず、だ。本当に生徒に寄り添ってくださる先生が多くいるし、仲良くなると入試後ご飯に連れていってくれる先生もいる。皆鉄講とは仲良くなろう。

そんなこんなで、鉄緑生の皆さんにはできるだけこの最高の環境を使って欲しい。
あと落ちても謝恩会には行った方がいい。私も後期だけど満喫してきました。最後に先生に会うのも楽しかったです。

Q&A

勉強関連でよくある質問について答えます

Q1 鉄緑のクラス推移
A1 英語は高1後期A3、高3A1以外B、ほかは6年間Bでした 高2までは京都校で過ごしてましたよ

Q2 英語を伸ばした方法
A2 まずインプット 鉄壁いっぱいやる、確認シリーズのテーマ英作を覚える、リスニングを毎日聞くなどを怠らない、コツコツ地道にやる
あとは塾で毎週演習して伸びた感じがします


Q3 倫政の勉強法
A3 初学蔭山さんで思想の元を理解、黄色本で細かい知識を固めるって感じでした
倫政には波があるって言説がありますが、あれは嘘です 暗記なので頑張れば誰でもとれます
あと思想の流れを真っ白な紙に1からかいていくと整理出来ていいです

Q4 通信制は再面接とかありますか
A4 奈県医はなかった 再受験も多いしゆるい
京医は通信制出身は必ず再面接があるみたいなので、予め準備しておくといいです



これから受験勉強を頑張るあなたへ

ここまで読んでくださった方も、ここだけつまむ方も、このnoteに目を通してくれてありがとうございます。ここでは、主に大学受験を頑張ろうと思う人に伝えたいことを書こうと思います。

第1に、精神が何より大切です。
辛い時は早く逃げ出すこと。私は高3の夏に適応障害を発症し、全く勉強が手につかない期間がありました。そうなる前に、早く周りに助けを求めてください。

次に、
「怠惰な自分に酔うな」です。
勉強垢をしてる人間に多いのですが、生まれつきそこそこ勉強ができて調子に乗ってるタイプが多く見受けられます。がむしゃらに頑張る人をみくだし、成績で煽る人間はいつか伸び悩んだ時自分を認められず苦しさを解消できなくなります。
1年くらいは無気力だけど賢いダウナーキャラやめて死ぬ気で頑張ればいいと思います。

最後に 志望校は1番行きたいところを選びましょう。
私は京医か神医で悩んでいたのですが、塾の先生に「神医でいい、なのか神医がいい、なのかで決めなさい」と言われ、京医を受けました。1番行きたいところじなゃいとずっと後悔が残ると思います。

何はともあれ、皆さんが第一志望に受かることを心よりお祈りしております。頑張ってください。

最後に

受験結果でも纏めておきます
前期 京都大学医学部医学科❌
後期 奈良県立医大医学部医学科⭕️
共テ利用 同志社生命医工⭕️


京医の開示 合格最低点-90くらい
奈県医後期 ギリギリ正規

私は奈良県立医大で普通に楽しく生活しています。環境としてはすごいいいし、授業中白熱した議論出来る子も、全力でサボって遊びたい子も、みんな共存しています。
それでもやはり、夜寝る前は何年も恋い焦がれた京医を思い出すし、京医に行った友達や、鉄講に受かった友達を見ると置いていかれた、自分一人が取り残された感覚が消えません。京都から文字通り都落ちして奈良に来た自分を上手く愛せず、平凡な自分を呑み込めず、不安が残りっぱなしで。

置かれた場所で咲きなさい、という言葉があります。私はその場所を選べませんでしたが、皆さんは地道に努力を重ね、1番行きたい場所に置いてもらえるように頑張ってくださいね。
あーあ、私も京医、行きたかったなあ。

2024.4.24 唯

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