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わたく詩II・コクトー『三十になった詩人』

 「詩とわたしについて何か書きなさい」と言われて、べつに堅苦しく考えず、自由に、何を書いてもいいのなら、本棚の、一度読んだことのある詩集をぱらぱらと捲って、その中から適当に詩を選んで、そして何かを書けばいいのである。

 ぱっと目についたのは家の本棚の一角の海外の詩集をまとめて並べた場所だった。
 そこにある『ヘッセ詩集』は十年以上積読のまま一度も開いていない。なんか格好いいからという理由だけで買った記憶がある。目の前にあるのに全くページを捲る気がしない。もう読まないかもしれない。

 近頃はもっぱら歌集しか読まない。
 以前は詩集を読もう読もうとしていたが、(特に外国の)詩集は、あまり、というかほとんど読まなくなった。
 それでもボードレールの『巴里の憂鬱』と『リルケ詩集』は好きだったのでその中から何か引用しようと改めて読もうとしたが、なんとなく堀口大學訳『コクトー詩集』を手にとっていた。

 今年、2023年はコクトーの没後六十年だと思い出したからである。
 六十年という数字に何の意味もないのに、六十年という数字のおかげで手にとって再びページを捲っている。もしかしたらもう二度とこの本に触れることがなかったかもしれず、そう思うと人生において年数や数字というものは意外と大事なのだと知る。
 『コクトー詩集』、ずいぶん前に一度読んだことがあるが、人魚、海、貝、水夫、黒人、娼婦なんて言葉がよく登場して、官能的で、少し卑俗な神話っぽくて面白かった記憶がある。「平調曲」という長詩が良かった。

 そんなわけで、三十歳を少し越えてしまった僕が堀口大學訳の『コクトー詩集』から「三十になった詩人」という詩について語ることにする。
 年齢という数字も普段あまり意識しないが、この詩が目に留まったのも、今の僕の年齢が理由である。
 文章を書こうとするきっかけは、ふとした偶然が重なることによるのだ。

 「三十になった詩人」 

 僕、今や、人生の中道に在る、
 自分の美屋に馬乗りに跨ってる。
 同じ景色が両側に見える、
 違うのはただ季節だけ。

 この側の赤地は若羚羊の角に似た
 葡萄の蔓だ。ぶら下がる洗濯物や、
 笑い声や、シグナルが目を迎える。
 むこう側には見えている冬と報酬の僕の名誉が。

 ヴィナスよ、まだ僕を愛してくれて有難う。
 万一君を語らなかったら、
 万一僕の家が自分の詩で出来ていなかったら、
 僕は足場を失って屋根から墜落するはずだ。

 良い詩だ。
 美屋(びおく)という存在するのかわからない謎の日本語があるが、つまり屋根のことで、そこに跨って景色を見渡す。
 ”僕”は三十を迎えて、今まで送ってきた生を振り返るのと同じくらい死を意識して見つめ始める。
 屋根から見える一方には「赤地」(あかつち)、「若羚羊(わかかもしか、とルビが振っているがレイヨウのことだと思う)」、「葡萄の蔓」とキリスト教的なモチーフに溢れた光景。
 (こういうところが西洋の詩を読むときや絵画を見るときに距離を感じる部分でもあるし、異邦のものに触れてるなと面白く感じる部分もある)

 「目を迎える」は調べた原文では”accueille la journée”だったので、「一日を迎える」「日を迎える」の意味でいいのではないだろうか(誤植かもしれない)。

 ここまでが過去〜現在、生きてきた光景で、むこう側に見える冬の景色と”僕”の名誉は「死への光景」だろう。
 死に対する態度はこれくらい強くありたい。

 最後の段、強烈に刺さるものがある。
 自分のことをクリエイターと称するわけではないが、自分のために、また、自分が生きている世界のために何か作りたいという衝動で生きている部分はある。
 今まで”僕”が為してきたことがなければ、"屋根"から落ちてしまう。
 屋根に跨っていなければ、"僕"は両側の景色を見ることはできない。それはそれでいいのかもしれない。ただ、僕は屋根の上から意識して死を見ていたい。
 「三十になった詩人」の境地に到っていると言えるような立場ではないし、そもそも人生を半分以上生きている可能性もあるし、逆に僕が四十になったときに読むべき詩かもしれないが、とにかく、たまたま今この詩を読めてよかった。屋根に跨り続けたい。

 余談だが、コクトーは三十を越えてから阿片中毒になっているので、人生はほんと、何があるかわからない。
 


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