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伊勢神宮周辺はかつてお寺だらけだった(その4/了)

(承前)伊勢神宮周辺はかつてお寺だらけだった(その3)

室町時代に伊勢神宮周辺に多くあらわれ、天皇はじめ公家や武家の絶大な信頼を得ていた法楽寺院でしたが、応仁の乱に始まる全国的な戦乱により隆盛に陰りが見え始めます。京都が主戦場になったことで、法楽寺院を支えていた朝廷や足利将軍家を始め、醍醐寺といった法楽寺院の本山にあたる有力寺院も、遠い伊勢の地にある伽藍を支えることが難しくなってきます。火災や戦乱で焼失したり、寺勢が衰退する法楽寺院が相次ぎ、これと同じ理由で伊勢神宮そのものも維持管理面で疲弊の極みに達してしまいます。7世紀から連綿と続いてきた式年遷宮が100年間にわたって中断するなど、大きな混乱と停滞に陥っていきます。

その一方で、かの東大寺重源のように、荒廃した神社や寺院を寄付を募って再興する「勧進」が重要視されるようになってきました。失火で焼失した内宮法楽舎の再建をはじめ、内宮風宮(風日祈宮)橋の再建、さらには内宮宇治橋の架け替え、さらに内宮外宮両宮の式年遷宮費用の捻出などに勧進が広く用いられるようになり、朝廷の許可を得て、寺社の霊験を全国に伝えて貴賤から浄財を募る勧進聖(勧進僧や勧進比丘尼)が活躍するようになってきます。
これは伊勢だけでなく、京都、奈良など全国で同じように見られた動きであり、こうした勧進聖たちの情報ネットワークも重層的に全国に構築されていったことでしょう。

内宮風宮(風日祈宮)橋のたもとには明鏡院という寺があった

これら勧進聖の活動拠点は穀屋寺と呼ばれ、寄付を集めるのですから粗末なものだったと思います。こうした小さなお堂のようなものが林立して、参詣者から盛んに寄付を集める僧尼の姿が宇治山田のあちこちで見られたようです。
その証左の一つが「伊勢参詣曼荼羅」です。勧進僧が伊勢神宮の神徳を絵解きするのに使われ、随所に神仏習合の世界観が貫かれていますが、これを見ると法楽寺院とか、穀屋寺で勧進を行う山伏がたくさん描きこまれています。
伊勢参詣曼荼羅の説明は「東紀州ネットくまどこ」が大変わかりやすいのでリンクしておきます。
http://www.kumadoco.net/kodo/report/event/14_1.html

16世紀になると、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の助力で宇治橋の再建や伊勢神宮の式年遷宮がかないましたが、それに尽力したのも「伊勢上人」と言われ、全国を勧進した慶光院の尼僧たちでした。(慶光院も創設の由来は一切わかっていない穀屋寺から発展したと考えられています。)

おはらい町に残る旧慶光院(現在は祭主宿舎)は年に1度特別公開される

江戸時代に入ると、徳川幕府の主導と援助により伊勢神宮の式年遷宮は再開され、この慣例は幕末まで安定的に続くようになりました。「伊勢神宮を支援する者こそが日本の正統な支配者であること」を世間に知らしめる意味があったでしょう。

しかし長かった乱世の世が終わり、安定してくるにつれて、勧進の意義は薄れていき、宇治山田に多くあった穀屋寺も意味のないものになっていったことでしょう。
伊勢神宮に限らず、宗教の話に限りませんが、乱世の混乱の時代にはやむにやまれず旧習を破り、恥も外聞もなく生き残りに必死だったものの、平穏・太平の世の中に戻ると、それが「恥ずかしい過去」=「黒歴史」として秘匿され、あるいは正当化ための釈明を重ねて、うやむやにしてしまうことは世の中によく見られることです。
勧進聖の多くは本山を離れた僧尼や、修験、山伏といった在野の宗教者だったと考えられています。江戸幕府の治世が続くうちに、神宮祭主や荒木田家、度会家という世襲の神官たちから見れば、その存在はある意味で氏素性が知れない、伊勢神宮の神聖性にはふさわしくない、イレギュラーなものであったという蔑視へと見方が変化していったのではないでしょうか。

こうして勧進聖の活動は次第に下火になっていきますが、興味深いのは修験や山伏の中には、のちに御師(おんし)、つまり権禰宜として神官に転身する者も少なからずあったらしいことです。郷土史家である宇仁一彦氏の「伊勢御師の生成」という論文には、内宮近くにあった法楽寺院の成願寺の住持を務めていた太郎館家が、後世には師職(御師)になったとする、江戸末期の神官、薗田守長の手記が紹介されています。(「社会と生成」第9巻2号)

江戸時代初めに371もあったというお寺の存在は、戦乱の時代自然発生的に宇治山田に蝟集した勧進聖による穀屋寺のほか、神仏習合と法楽が当たり前だった時代、神官出身の御師でさえ邸宅に本尊を祀っていたことはほぼ間違いない史実だったでしょうから、御師の邸宅内にあったお堂や祠なども寺としてカウントされていた結果ではなかったでしょうか。


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