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外宮から内宮に歩いて行ってみた(その2 後半)

(承前)外宮から内宮に歩いて行ってみた(その1 前半)

伊勢神宮の外宮から内宮まで、旧伊勢街道を歩いて行く記事の後半です。
前半で紹介した、地図のEあたりから南下して内宮宇治橋前を目指します。

外宮から歩き出して約40分で、E付近の伊勢古市参宮街道資料館に至ります。ここは、かつて江戸吉原、京都島原、長崎丸山などと並び称された伊勢古市の賑わいを展示する施設。遊郭での酒器や食器、衣装、浮世絵、古文書など往時をしのぶ資料を見ることができます。(入館無料)
古市が発信地となった「伊勢音頭」は今も各地で歌い継がれていますし、歌舞伎の「伊勢音頭恋の寝刃(ねたば)」を始めとした作品もここ由来のものです。

しかし、もちろん明るい華やかな歴史だけではありません。最盛期には1000名もいたという芸妓、娼妓の多くは、一種の人身売買により伊勢志摩一帯の農山漁村から身売りされてきた女性でした。明治期以降の資料になりますが、置屋と女性(の親)が結ぶ「芸妓雇用契約書」も残っており、古市の闇の深さも感じさせられます。

資料館の横は、下を高速道路が横切る交差点になっています。
街道沿いで唯一、景色が広々と広がる場所で、霊峰である朝熊岳(あさまだけ)もよく見えます。

あとは車に気を付けながら、街道沿いを歩いていきます。今まで触れませんでしたが、街道沿いには麻吉旅館のほか長峰神社、大林寺、寂照寺などもあり、それぞれ見どころがあります。また機会があればご紹介します。
しばらく行くと、今度は道が急な下り坂となります。その手前あたりに、人の背丈の3倍はある、巨大な石灯篭が並んで建っていて圧倒されます。

明治時代に寄進されたもののようで、これも数少ない古市繁栄の名残でしょう。

写真左側の森は、猿田彦神社の境内地です。この坂はかつてはもっと急坂だったそうですが、お伊勢参りが全国に普及した江戸時代に、参詣者の難渋を解消するため坂を緩やかにする工事が行われ、さらに明治時代には馬車が通れるように現在の傾斜まで緩くしたそうです。
坂を下りきると、ここからが宇治地区だ、という結界だった「宇治惣門」の跡地公園があります。好きな時間に好きな場所に自由に移動できる現代では想像もできませんが、夕刻、この惣門が閉じた後は、翌朝まで誰も宇治地区に出入りはできませんでした。

宇治惣門跡地から数十mで、前回ご説明した県道「御木本道路」とT字に合流します。ここを左に進みます。地図のFの箇所です。

多くの参拝客でにぎわう猿田彦神社。観光客や行き交う車が目立って多くなり、内宮が近いことが雰囲気で分かります。

すぐに宇治浦田町の大きな交差点に至ります。地図のGの箇所です。
内宮はこの右方向ですが、ここをそのまま曲がるもよし、いったんまっすぐ交差点を通過して、すぐにある小さな交差点を右折して「おはらい町」を経由して内宮に行くもよしです。

宇治浦田交差点から宇治橋前まで10分足らずです。
このあたりは今では道路と駐車場が広がる殺風景な場所ですが、室町時代には足利将軍が寄進した建国寺、修験道の拠点だった成願寺など多くの寺院が密集していた場所でした。
しかし江戸時代に入り儒教の影響が強まると、宇治山田では徳川幕府による寺院の整理が進められ、明治の廃仏毀釈によってすべての寺院が廃寺となってしまいました。

やっと宇治橋前に到着しました。全行程で約1時間半かかりました。
それにしても、ここまで歩くと猛烈にのどが渇き、体が甘味を欲していることが自覚できます。伊勢には、赤福をはじめ、御福餅、太閤出世餅、神代餅、二軒茶屋餅、へんば(辺馬)餅などいろいろありますが、これは徒歩参宮の時代には必須の栄養補給源だったのだろうなあ、と実感した次第です。

休憩の後は、復路、今度は県道22号の通称「御幸(みゆき)道路」を通って外宮に戻ることにします。
(外宮への帰り道へつづく)


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