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京都・醍醐寺と伊勢神宮 天照大神に捧げた仏事「法楽」

11月に入ってから急に寒くなってきました。紅葉ももう終わりというタイミングで、京都の醍醐寺に行ってきました。
弘法太師空海が平安時代の初めに日本にもたらした真言宗は、その後たくさんの宗派に分かれましたが、醍醐寺は貞観16年(874年)に開山され、以来、真言宗醍醐寺派の総本山として崇敬を集めています。

国宝 醍醐寺五重塔
弁天池の紅葉
醍醐寺三宝院

<醍醐寺と伊勢神宮>
さて、この醍醐寺と伊勢神宮は、かつて深い関係にありました。
平安時代の末期、日本は末法思想(釈迦の死後2000年が経って世は乱れ、仏の教えによっても人々は救済されない時代「末法」に入ってしまったという説)が社会を覆い、飢饉や天災、戦災が次々と起こる中で、仏と神を一体の存在として崇拝する神仏習合思想が人々の信仰に広まりました。
この神仏習合思想は、全国の他の神社に比べて厳格に神仏の隔離を貫いていた伊勢神宮にも押し寄せました。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、祭主や禰宜といった高級神職による出家や寺院の創建、納経などが広く行われるようになります。
仏教の側からも伊勢神宮への接近が図られ、東大寺の大仏殿再建のために、大勧進職であった重源が東大寺の宗徒700名余りを引き連れて伊勢神宮を参拝したことがきっかけとなって、数多くの僧が伊勢神宮を訪れるようになっていました。
こうした神仏習合は、当然ながら天皇や貴族たちも厚く信奉しており、さまざまな国難に当たって、朝廷から伊勢神宮に対し、内宮・外宮両宮への祈祷とともに、内宮・外宮両宮への法楽(ほうらく)、つまり、仏事を行うことさえ命じられるようになりました。
この、伊勢神宮への法楽に深くかかわっていたのが、真言宗であり、醍醐寺だったのです。

今日の話はこの辺の時代です

<伊勢神宮の神仏隔離と法楽寺>
先ほど書いたように、伊勢神宮では「神仏習合」ではなく「神仏隔離」が厳密に実施されていたため、天照大神に捧げる法楽も、伊勢神宮の社頭で行うことはできませんでした。
実際に法楽が実施されたのは、神宮寺とか法楽寺と呼ばれる伊勢神宮周辺の寺院群で、代表的なものに亀山天皇の勅願寺であった大神宮法楽寺や、後深草上皇の御願寺であった般若蔵とか内宮法楽舎などがあげられます。他にも菩提山神宮寺や弘正寺、世義寺、常明寺、天覚寺など多数の法楽寺院が宇治山田には存在していました。

<醍醐寺 通海の活躍>
これら多くの神宮寺(法楽寺院)の代表格が、醍醐寺の僧であった通海が創建した大神宮法楽寺です。(この寺は現在の三重県度会郡度会町棚橋という場所にあり、戦国時代に一度灰燼に帰しましたが、今も名を変えて現存しています。)
通海は、伊勢神宮の祭主(神職の最高位)で在京貴族である大中臣隆通の息子であり、二人の兄たちも後に伊勢神宮の祭主を務めた家柄でした。通海は神職ではなく僧の道を進み、醍醐寺の尊海という高僧の弟子となって、座主の定済にも師事しました。通海自身も最後は醍醐寺権僧正にまで出世しました。
教学にも実践にも優れていた通海が、当時の常識であった神仏習合を強く確信していたことは間違いなく、伊勢神宮での法楽の必要性や効験を唱えていたようです。
定済座主とのつながりもあって、通海は亀山天皇の信頼を受けるようになり、最終的に大神宮法楽寺を亀山天皇の勅願寺とすることに成功します。

<神風を起こした法楽>
伊勢神宮法楽の名が世間にとどろいたのは、モンゴルの大軍が北九州に押し寄せ、日本の国土を侵略した、いわゆる元寇の時です。この危機に際して、亀山天皇は全国の有力寺社に異国降伏(元軍撃退)の祈祷を命じました。
通海はこの勅命に応じるために、建治元年(1275年)、大神宮法楽寺の出張所として、内宮付近と外宮付近にそれぞれ法楽舎を建立しました。

法楽舎では、もっぱら異国降伏のため天照大神、豊受大神に捧げる仏事が日々行われたのです。もちろん、内宮と外宮では神職による神式の祈祷も行われていました。つまりこの時、伊勢神宮では神式の祈祷と仏式の法楽が並行して捧げられていたのでした。

外宮法楽舎跡(三宝院と呼ばれた)
外宮北の、現在の伊勢市立図書館や神宮工作所付近にあった
内宮法楽舎(宇治法楽舎として明治まで存続した)
現在のおはらい町「豆腐庵山中」付近にあった

通海はさらに、内宮と外宮の風宮(かぜのみや)にも法楽を行いました。弘安の役、つまり弘安4年(1281年)7月のことでした。
風宮とは内宮の「風日祈宮(かぜひのみのみや)」、外宮の「風宮」のことで、級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)が御祭神ですが、この当時はまだ内宮・外宮の小さな末社の一つに過ぎませんでした。
しかし通海が法楽舎で級長津彦命、級長戸辺命に法楽を行うと、風宮が鳴動し、その翌日には神殿から赤雲が湧き起って光を放ち、光の中から鬼神が現れて大風を起こしたことを、多くの人々が目撃する事件が起こります。その大風こそ「神風」であり、級長津彦命、級長戸辺命の神佑により元軍の船はことごとく沈没して博多には平和が戻ったのでした。
これこそが法楽の明かな効験であると確信した通海は、両風宮を末社から別宮に昇格させるよう朝廷に上申します。その結果、正応6年(1293年)3月20日に風宮の宮号宣下がなされたのです。

<法楽はさらに浸透した>
伏見天皇の御代になると、さらに神宮法楽が一層強化、制度化されるようになり、伊勢神宮周辺の法楽寺も京都醍醐寺と本山末寺関係を築くようになります。
鎌倉幕府の瓦解や南北朝の動乱などに翻弄されたものの、足利将軍家が法楽に熱心であったことや、醍醐寺三宝院の門跡満済による支援もあって、伊勢神宮における法楽は確たる信仰形態になっていったのでした。

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