【井蛙】〜井戸を抜けると広い世界〜

「井の中の蛙、大海を知らず。」この諺は狭い世界の知識や見識に捉われて広い世界を知らずに得々としているさまを表現したネガティブな意味だが、実はこの言葉には続きもある。「されど空の青さを知る」だ。見識は狭いがその世界の深いところまで知っている、という意味が追加されている。これは中国から伝わったのち、日本で独自に付け加えられたものらしい。保守的で職人気質の日本らしい価値観が表れていると思う。
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この諺に反して僕は個人的に狭い世界を出て広い世界を知ったほうが良いと考えている。地元や親元を離れ、どこか知らない街や国で生活してみることで今自分がいる環境はなんてちっぽけな世界なんだと気付くべきだと思っている。しかし、かくゆう僕も大人になるまで関西で生まれ育ち、ほとんどそこから出ることなく中高大というモラトリアムを経て、非常に狭い世界で温室的に育ってきたわけである。
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自身の両親や友達もみんなそうだった。他の世界はTVやネットで見聞きするくらいでリアリティは無かった。慣れ親しんだ街で知り合いがおり、毎日ごく幸せに流れていく時間。梅田に行けば何でも揃うし、非日常を味わうには年に何回かの旅行で十分なのだ。東京はすごいとこらしい、、なんとなく憧れはあったくらいだ。今思い返せばこの頃が一番幸せだったのかもしれない。
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こうして思うのは狭い世界で生きているほうが幸福指数は高いということだ。つまり無知である、他を知らないというのは幸福なことなのだ。アマゾンの原生林の中で生活を送る少数民族を思い起こす。彼らはどうやら周りにはもっと大きな異世界があるらしい。ということを知っている。自分たちの暮らしとはかけ離れた世界が。でも彼らには今の暮らしがすべてでそれ以外はないのだ。そして今幸せなのだ。
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地元愛を掲げて地元に留まるマイルドヤンキー。
両親や祖父母の生まれ育った町で自分も結婚して子育てする核家族。古くからのしきたりを習慣として受け継ぐ村社会。外部情報を遮断されてきた北朝鮮やかつてのブータンもそう。少数民族と同義にするのは憚られるが、 僕からすると似ている。皆狭い世界だが、いつもの仲間といつもの環境でそれなりに幸せに暮らしている。「世界は広いし、社会はそんなに容易くない。」そんなことを漠然と分かっているようで分かっていない時が一番幸せだと思うのだ。
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となるとわざわざ幸福指数を下げてまで、なぜ広い世界を知る必要があるのか。これは勉強することに似ている。なぜ勉強するのか、を考えると
それは人生の選択肢が広がるからだと思う。それと同様に広い世界を知ると選択肢が増える。そうゆうことだと思う。苦難は伴うし、比較対象が増えて疲弊したり、人間の欲に直面したりして幸福指数も下がる。それでも広い世界に身をおくことで自分が知らなかった幸福や経験を味わえる可能性もある。
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前述の「井の中の蛙、大海を知らず。 されど空の青さを知る。」に関して言うと、井の中の蛙は空の青さしか知らない。だが、大海に飛び出した蛙は空の青さも海の深さも知っているかもしれない。僕は井戸の中から空を眺めるだけでなく、海にも潜ってみたい。海を知っているもの同士にしか海の話は出来ない。こうしてまた差は生まれていく。
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僕が地元を離れ東京や海外へ出て思ったことがある。それは東京も大阪も海外も大して変わらない、自己変革なくしてはただの環境変化に過ぎない。ということだ。出会う人の絶対数や多様性の差は圧倒的な差があれど、そこから自身の視野が広がるかどうかは結局自分次第だと思う。ただひとつ、海外に2年以上住んでみて、言葉も通じなかった、食事も合わない、衛生面でストレスが溜まる、これを経験するとこの先の人生、日本でホームレスになっても「まぁなんとかなるな」と確信が生まれた。
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これこそ経験に紐づく選択肢の幅だと思う。つまり僕は地元に留まっていたときよりも今あらゆる状況において経験から導き出される選択肢の幅が多くなっているのだ。それしか知らない、とそれも知っている、の違い。この差がどれだけ大きいかはもっと歳を取ってから気付くことになる。
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さあ勇気を持って井戸を出よう。外の世界は限りなく広い。楽しんで海も空も知っている蛙になろう。

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