【犠牲】〜令和の象徴は自己犠牲?〜

いま僕たち人間の生活はあらゆる犠牲のうえに成り立っている。その最たる例が動物に犠牲になってもらいその肉を食して生きていること。そもそもこの「犠牲」という漢字。偏の部分が「牛」になっている。これは紀元前の古代中国において農耕のための儀式で牛豚犬などの動物を生贄にする風習があったことに由来する。

僕のスマホのロック画面にはそんな動物たちの風刺画が表示されている。豚が豚を食べながら、鳥が鳥を食べながら、涙を流している絵だ。それが犠牲になってくれた動物へのせめてもの弔いと感謝を思い起こさせてくれる。それから家畜動物の屠殺映像も見る。気持ち悪いと目を逸らす人もいるが、まさに人間がやっていることなのだ。人間の身近にいる犬や猫を殺すことはおよそ倫理観の欠如と捉えられるが、牛や豚は当然のように殺している。本来は殺していいものと殺してよくないものに境目は無いはずなのに。

ゴキブリは人間にとって宿敵であり一生涯の嫌われ者である。ゴキブリが現れたら現場では悲鳴が飛び交い、問答無用に殺してもいいことになっている。そして殺した人は一時的なヒーローになれる。ゴキブリの立場になると本当に悲しい。ゴキブリは哀愁の生き物なのだ。好きであんなふうに生まれたわけじゃない。この時代において人間の価値観がゴキブリ=悪となっているだけで肩身の狭い思いをする。時代が変わればなぁ、なんてことを考えていることだろう。

これは時代のせいなのだ。たとえば紫式部のような平安チックな顔の女性。現代ではおかめ納豆だの、美人の扱いは受けない。しかし千年前は確かに美しい女性なのだ。男性もそう。世の中の価値観が石原裕次郎のような硬派で男らしい人からジャニーズのような美形に変わりKPOPが流行るとどこか中世的で薄い顔がもてはやされる。吉田拓郎が時代の寵児とされた頃には肩まで伸びたロン毛がイケてたなんて今では考えられない。というように価値観は時代とともに変わる。もしかしたら1000年後にはゴキブリは縁起の良い生物になっているかもしれない。そういう意味ではゴキブリも時代の犠牲になっていると思う。

そして我々は戦争や事故、自然災害で亡くなった方々の犠牲の上にも生きている。被害者ではなく犠牲者という言葉があるように、たまたま時代や場所が違っただけで我々と同じように生きていた人が命を犠牲にして、その体験を教えてくれたのである。そして生き残った人がその歴史を自らの時間と労力を賭して後世に繋げてくれているわけである。

他人のために、世のために、自身を犠牲にすることはそうできることではない。だが、いかに自己犠牲を払えるか。これからはそんな世の中になっていくと思う。令和以降の世の中の価値観は損とか得とかそういう次元ではなく、自己犠牲的、いわばもっと意味の無いことにフォーカスされると予測している。

たとえば宗教やスピリチュアルの世界。それぞれの思想が商品となる時代がくる。今でもオンラインサロンは主流となりつつあるが、もっと細分化された領域で個人のナレッジやフィロソフィーが取り上げられはじめることだろう。金銭は死後何の役にも立たないが、思想は自身の分身としてこの世に生き続けることに価値を見出す人が増えるだろう。

僕がこうして書いているエッセイやたまに作っているラップも思想が形になった作品のひとつで1円もお金になっていない。だが僕は僕で発信する度に自己顕示欲と承認欲求を満たせているわけで受けて側にとっては話のタネやリテラシーの契機になるかもしれない。

それは僕にとって社会貢献であり、それにより生存を肯定できているのである。よく人間の生きる目的は子孫繁栄のためにある、とされているがそれはごく断片に過ぎない。1人1人の知識の集合体を共有財産にし、そしてそれを後世へ継承していくことこそ真の人間の生まれてきた意味ではないか。「知識と経験の共有化」である。子育ては属人的なマネジメントに近い。自分の会社の部下が会社に貢献できるよう育てていく。育った部下が出世をすると自らの評価にも影響する。一方で知識の共有化はCSRに近い。決して属人的ではなく社会的目線で責任を果たし、社会貢献していくというやり方。

近年は企業での「ナレッジマネジメント」の手法も一般的になりつつあるが、これを企業間を越えた俗世間ベースに落とし込むことが我々の使命ではないか。自己犠牲を語る上で我々の身近にあるものがある。「WIKIPEDIA」だ。僕は相当な頻度で利用する。誰もが一度は使ったことがあるだろう。我々の知的好奇心を効率的に満たしてくれる。そして僕は自分の知見がある項目で編集加筆もしている。

WIKIPEDIAはまさしく究極の自己犠牲だ。そして犠牲の相互共有をしている。知識の共有財産を作っているわけである。僕はWIKIPEIAを見るたび、世の中まだまだ捨てたものじゃないと思っている。非営利団体の運営で寄付で成り立っているサービス。こんな素晴らしいことは無い。しかし最近WIKIは困窮している。寄付を促す広告を切迫感ある感じで表示している。98%以上のユーザーがサービスを利用するだけしてその利便性を享受し、寄付はしていない。僕は1ユーザーとしてもう一度WIKIの社会への貢献度を考えてみて、共感できるならどうか寄付をしてあげてほしいと思う。

皆さんが汗水たらして稼いだ金銭を犠牲にして寄付をしてみる。これも立派な自己犠牲であり、社会貢献なのだ。

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