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終のすみかの乙女たち「バス・ミッション・インポッシブル」

一人でお風呂に入れない、または一人では不安だと判断された乙女たちは、
ヘルパーから介助してもらいお風呂に入る。
これがまた、芋洗作業のようなのである。
体調を考慮して午前中に入浴を済ませてなければならず、おまけに施設のお風呂場は2つしかない。
一人につき、20分が目安。毎日20人以上が風呂に入るのだから仕方がない。
髪の毛を洗い、体を洗い、湯につかる。
着替えなど入れて20分はあっという間だ。
湯に浸かっている時間は正味3分と言ったところだろうか。
されるがままの乙女、頑なに拒否する乙女、職員に説得され渋々入る乙女、化粧直しにとにかく時間がかかる乙女、などなど、十人十色、さまざまである。
それでもやっぱり職員たちは、どうにか気持ちよくお風呂に入ってもらおうと日々格闘している。
「木村さん、5分オーバー!」。
施設の女帝、看護師の小池の声がフロアに響く。
職員の木村は焦って次の乙女のお風呂に取り掛かる。
こうして毎朝、お風呂は戦場と化する。

そんなお風呂でも毎回楽しみにしている、波多野さん。
と言うのも、趣味は温泉巡りだった。全国の温泉宿を巡っていた。
同じくお風呂ラバーは、銭湯の女将さんだった滝さん。
二人は良く温泉の話をして盛り上がった。
また二人は同世代で、この乙女たちの中では若い方。だから二人は自然と仲良くなった。

滝さんは、認知症を患っていて、特に最近急に症状が進み、もうすぐ別の施設へ移ることになった。
だから波多野さんが滝さんの様子が変化していくのがとても寂しかった。
でも、波多野さんのことはしっかり認識していて、顔を合わすたびに波多野さんは滝さんに声を掛けた。
「今日は、お風呂に入った?」、波多野さんは滝さんに聞いた。
「ココノオフロサイアク」、滝さんはつぶやいた。
以前は「気持ちよかったよ〜」とか「さっぱりしたよ〜」とかしか言わなかったのに、症状が進んでからは、文句の言葉しか出なかった。

やがて滝さんは、お風呂を拒否するようになった。
職員の木村さんが、滝さんを車椅子に乗せ浴室に入ると、グッと力を入れ、絶対に車椅子から降りないのである。
「滝さん、今日は寒いからお風呂に入ろうよ」、木村さんが滝さんに促しても、
滝さんは首を左右に振るのだった。

「滝さん、あんなにお風呂好きだったのに。どうしたらいいのかしらね」。
波多野さんの体を洗いながら、木村さんがつぶやいた。
「温泉にでも連れて行ってあげたいね」、波多野さんは言った。
「そうね。大きなお風呂で、ゆっくり浸かってもらいたいものよね。ここは芋洗だから」。
二人は笑った。
「だからね、私の時はこっそり、長めに入れているのよ。なのに今週は一度も入ってくれなかたったわ。来週にはさよならなのに」、木村さんは言った。
「滝さん、施設移ったら、友達もいないし、滝さんが本当はお風呂が好きっていうのも、知ってる人がいなくなっちゃうね。そしたらずっと、お風呂に入らなくなっちゃうかもしれないね」。
波多野さんは寂しそうに言った。

温泉には行けないけど、せめて、こころおきなくゆっくりとお風呂に入って、またお風呂の気持ちよさを取り戻して欲しい、波多野さんは思った。
「!」、波多野さんはひらめいた。
脳トレ王の小村さん。彼女の部屋は、最上階にあり、部屋にお風呂がついている。
そこで波多野さんは、小村さんの部屋のお風呂を借りて、滝さんにゆっくりお風呂に入ってもらう計画を思いついた。

食堂の隅で、クロスワードパズルを解いている小村さんを発見。
早速、波多野さんは小村さんにこっそり事情を話した。
小村さんは渋い顔をして首を横に振り、
「あの滝さんを?無理だよ。あのおデブちゃんをどうやって風呂に入れるって言うの?」。
そう、滝さんの体重は60キロオーバー。細身の波多野さんには到底彼女の体を支えることはできない。
「無理無理。諦めな」、小村さんは波多野さんに言った。
「やっぱり無理か…」、波多野さんは肩を落とし、テレビの前に座った。
ぼんやりとテレビを見ていると、職員は滝さんの車椅子を押して波多野さんの隣に止めた。
二人は並んで、しばらくぼんやりとテレビを見ていた。
ニュースから温泉をレポートするコーナーに変わった。
「ああ、滝さん、温泉だよ。滝さんの好きな温泉だよ」、波多野さんは滝さんに言った。
滝さんは、にっこりと微笑んだ。滝さんの笑顔を見たのは数ヶ月ぶりだった。

波多野さんと木村さんの風呂場密会で、話はまとまった。
ちょうど明後日、木村さんは夜勤と言うことで、決行はこの日に決まった。
さて、風呂場の確保だが、やはりこっそり入るには、小村さんの風呂場ではないと無理。結局彼女を説得するしかなかった。
しかし彼女を説得するのは簡単だった。
小村さんの大好物である虎屋の羊羹を賄賂に。小村さんは、夜11時から12時の間だったら良いと言う条件で交渉成立した。

当日の夜11時、木村さんは眠っている滝さんを起こし、車椅子に乗せ、こっそり小村さんの部屋先に小村さんの部屋でスタンバイしている波多野さんと一緒に、滝さんを浴室に運んだ。
「これ使って」と、小村さんが温泉の素を渡した。
「いいの?小村さん、ありがとね」木村さんは小村さんにお礼を言った。
「さあ、滝さん、ゆっくりお風呂に入りましょうか」、木村さんはすっかり目を覚ましている滝さんに言った。
いつものように首を左右に振る滝さん。
「今日はゆっくり入れるんだよ」、波多野さんも一緒にお風呂を促す。
それでも首を左右に振る滝さん。
ほんのりと、ゆずの香りが漂ってきた。温泉の素はゆずの香りだ。
すると滝さんが、
「オフロにハイリタイ」と言い、自ら服を脱ごうとした。
「ええ、ええ、お風呂に入りましょう。思う存分入りましょうね」、
木村さんと波多野さんは、顔を見合わせて笑った。

こうして、ここを去る日の朝は、お風呂を拒否することなく入った滝さん。
そしてみんなに見送られ、去って行った。
波多野さんは、滝さんのポカポカの手をぎゅっと握り、
「ありがとう」と伝えた。
滝さんは、にっこりと微笑んだ。

the end

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