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報恩の仏事

もう10年以上も前のことです。


まだ若手の僧侶であった私は、あるお葬儀を勤めることになりました。

事前にどういったお葬儀なのかということは、葬儀社さんからいただくFAXで知ることができます。

今回のお勤めはまだ若い女性のお葬儀でした。
年齢は私の一つ上で、たしか30歳か31歳かそのぐらいだったと記憶しています。

病気で亡くなったようでした。

お通夜当日、喪主であるご主人とご親族と挨拶をいたします。控えの部屋に入ってこられたご主人、傍らにはご主人の親に抱かれた生まれたばかりの小さい命。

亡くなった女性は、生涯の伴侶を得、待望の子供を授かったばかりでした。

話によると、妊娠中の検査で病気が発覚したものの、どうしても生みたいと、堕胎して治療に専念する道ではなく出産を一番に考えられたとのこと。

まさに命を賭してかけがえのない命を生んだ母親の気持ちはいかばかりのもであったでしょうか。そしてその選択を共に支えた家族の決断の心境は計り知れないものがあります。

ともすれば、私たちは成長する過程において、少なからず親を疎ましく思ったり、心にもない言葉を言ってしまうことがあります。
自分の命は自分のものだと、我以外のものに目が向かなくなっているのです。

そのような時こそ普段わが物としてしまっている自分の命の背景に、数多の命の存在があって、そしてたくさんの命に支えられて初めて存在し得る私であったということ、忘れてはいけないと思います。

こういったことに気が付かせていただく(教えてもらう)時間こそが、仏事の時間ではないかと思うのです。

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