見出し画像

『子宮に沈める』を観て

男性と会う機会が多くなるので顔の角栓一斉除去しようとしたら激肌荒れしました。僕です。

今日は映画を久しぶりに見た(部屋でiPadで)
自分のことをよく知る人物は知っているかもしれないが、僕は「人生で一番好きな映画は『誰も知らない』だ」といつも言っている。
家族ものにどうにも弱い、といえばマジで聞こえがいいんだが、
ぶっちゃけ"ネグレクトものになぜか惹きつけられてしまう"という最悪な言い方もある。
大丈夫?ここで俺の人間性終わってない?待って、友達でいて。
も、もちろん見て「すこ♥」ってなるわけもなく、ちゃんと(?)胸糞悪くはなるんだが、なぜか見てしまう。
好きなドラマの『死役所』の第8話「あしたのわたし」も何回も見てしまった。
違うくて、別にそういうアレじゃないです。

話を戻そう。

と、言うわけで、見たのが
『子宮に沈める』
だ。
今日はその感想を書こうと思う。

『子宮に沈める』と『誰も知らない』は同じような「ネグレクト」がテーマであり、映画としての構造が全く違う作品でそこに注目して書きたい。
ちなみに『誰も知らない』は勧めるが、『子宮に沈める』はまったく他人に勧められない。出来が悪いとかではないが。

気になる人はネットフリックスにあるらしいのでどうぞ。
2013年の映画です。
ただし、一回予告見て大丈夫だなと思った人が見てください。
子どもの泣き声無理な人は無理でしょう。
(以下ネタバレ注意)(あと児童虐待みたいなこと完全無理な人にはショッキングかも)

自主的密室と強制的密室

構造として一番違いを個人的に感じたのが"自主的密室"と"強制的密室"だ。
『誰も知らない』はそもそも外には出られる。出られる上で他者の介入を拒んでいる。
「兄弟で暮らしていたいから」という理由で、大人の手を自主的に手放している。「児童相談所とか…」「前もあったけど兄弟で暮らせなくなるから…」とコンビニの店員とやり取りしていた。
一方、『子宮に沈める』はガムテープで部屋の扉をぐるぐる巻きにして強制的に出られないようにしている。
それがま〜たヤな感じなの。
お風呂もトイレも行けないし、衛生的に終わっていく。
なので「子どもたちが弱っていく姿」がめちゃくちゃ顕著に映し出される。
それはもしかしたら社会的メッセージとして、映画というエンタメとしての消費だけではない残し方をしたかったという監督の意図があったかもしれない。
と思ったら、これは実際にモデルになった事件によるものらしい。
『誰も知らない』では「母親は帰ってこない」だけで、アパートで自由に居住できる状態だったのに対して、
『子宮に沈める』では「母親が帰ってこない」上に「玄関は鍵を閉めて」「居間からも出られないように粘着テープで固定した」とあった。
なんていうか、ひどい事件ね…

物心の介在による期間の違い


子どもたちにも大きな違いがある。
年齢、というか成熟さだ。
『誰も知らない』は、中学生ほどの長男と小学高学年の長女の介在のおかげで"生き延びている"。
「シャワーを浴びないといけない」だとか「たまに洗濯しないと人間的に終わる」みたいいな本能とは別の社会性が存在していた。さらには食料の調達のために周りの大人を頼ってみたりだとか、なんとか調達しようとしてみるシーンもあった。
結果、映画内では四季の移ろいを感じるほど期間が生じている。
(その期間がもたらした奇跡の柳楽優弥の声変わりの瞬間をフィルムに収めたのは本当にこの映画の奇跡だと思う)
さて一方、『子宮に沈める』だが…
長女の幸ちゃんはおそらく3〜4歳、弟の蒼空くんはつかまり立ちがやっとなので1〜2歳ほどだろうか。そのくらいである。
そのくらいの2人が、密室で置いてきぼりにされたときどのくらい生き延びられるだろうか。
先述の強制的密室も相まって食料調達もままならず、缶詰すら開けられない。蒼空くんの粉ミルク(床に散らばったやつを集めたやつ)(幸ちゃんそこでおもらししてたやん…)をいつのかわからないペットボトルの水で溶かしたものを2人で取り合ったり…
作中で名言はされてはいないが、一ヶ月も経っていないでラストシーンを迎えたのではないだろうか。(モデルとなった実際の事件では弟が死後50日ほど経って発見されているらしいので2ヶ月強くらいだろうか)

映画としてのコンテンツの違い

『誰も知らない』はジャケットでも見る通り、柳楽優弥のきれいな横顔が印象的である。
その印象的、という観点が違う。
『誰も知らない』は"ちゃんと印象的"である。特に好きなシーンでもある、春に兄弟みんなで外に出て公園で遊んだり雑草を摘んだりして笑顔を振りまくシーン。
そこには軽快なピアノのBGMがあり、光もふんだんに取り入れて「子どもの眩しさ」を精一杯表現していた。
ラストのタテタカコの『宝石』もまたこれはこれは名曲で…ピアノバラード嫌いな自分でもこれは本当に好きで…
「ネグレクト」がテーマでもあるが、この映画は主軸として「健気に生きる子どもたち」がテーマであると感じる演出が多々あるのだ。

さあさあ一方の『子宮に沈める』に関しては…
まず観たことある人は気づいた人も多いかもしれないがマジでほとんどのシーンが「定点カメラ」で捕らえている。
しかもその定点は人物を中心に設定されているわけでもなく、見切れているシーンがしばしば、っていうかほとんどだったりする。
その定点がもたらした効果というのは「覗き見」ではないだろうか。
向かいのマンションから、一家の生活を覗き見している感覚、もっと言えば「平和な画面の向こうから、子どもたちが弱っていく姿をただただ見つめるしかない、観察することしかできない」感覚を作り出しているように思える。
あとBGMもない。なんならエンディングテーマ的な、テーマ曲もない。ただひたすら子どもの泣き声と部屋の空気音が鳴り響く映画だ。
ますます、この映画は「一家の観測」であり、「エンタメとしてドラマティックに作られたものではない」と感じさせられる。
せめてエンディングテーマはほしかったです(最後に「お、終わった…」って思いたいから)(あれないと終わった感なくてそれこそモヤモヤが晴れないんですよね)
ラストの言及は避けるが、まあバチバチにバッドエンドで「子どもたちの成長」なんてものに注目はされない(される隙もない)
ひたすらに「こういう事件がありました」というものを伝えるための映画と自分は感じた。
(調べたところ、それでも「きれいに描きすぎている」という感想もあった。死体は映らないし、ゲロ吐いてるだろうにそこは映さないし。でもまあそれはよくね?映画としてのメンツを保つという意味でも)

映し方という意味ではもう一つ印象的なのが「表情」である。
特に母親の表情を(ラストシーン以外では)ほぼ映さない。旦那との喧嘩シーンだってバックショットだし。
代わって幸ちゃんの表情はよく映る。しかしそこに、アッと感じる演技があったとは言えない。そりゃそうだ。子役の土屋希乃ちゃんも3歳だったわけだし、深い演技ができるわけがない(てか今この子ちむどんどんとかプチッと鍋のCMやってたりすんのか)
だからこそ、無邪気に、なにも雑念もない「子ども」の役割を全うしていたなと思う。
もしかしたらそれがまたリアルだったかもしれない。セリフらしいセリフもなかったし。

語られないことで喪失を描く

もう一つ感じたのが「語られなさ」だ。
『誰も知らない』では「この先の生活、もう厳しいぞ」をテーブルの上のお金に焦点を当てることで表現していたり、これから女の子に長男が会いに行くというのを「できるだけニオイの少ないTシャツを探す」という演技で表現している。
セリフとして名言してはいないが、演出として展開を表現していた。
『子宮を沈める』では定点で幼児しか写っていない点も相まって「説明じみた演出」は皆無である。
何日過ぎたのかも、どのくらい困窮していたのかも、画面の向こうの我々に説明するために演出が存在しているわけではない。
冷蔵庫の隅のマヨネーズをマヨチュチュして、その容器に水を入れて薄めてどうにかカロリー摂取をしようとして、しまいには粘土を食べて…と困窮具合は時間が進むにつれて深刻になるが、幸ちゃんは「お腹すいた」とも言わないし、お腹を抱えて苦しんだりもしない。(言語は知らなかっただけの可能性もあるが)
旦那と喧嘩シーンのあと、居間のダンボールになんらかの荷物を詰めているシーンはあるが(ここでも母親の表情は見えないため悲しく詰めてるかもわからない)、「ママ〜、パパは?」「パパはね…もう来ないの」みたいなシーンすらなく"離婚した"(捨てられた?)ということになっている。
幸ちゃんが化粧をしてドレスを着て蒼空くんとじゃれているとこを母親が見つけ折檻するシーンがあるが、この場合怒りが「勝手に私のもの使ってんじゃないよ!」なのか「男とこんな格好してエチエチしてたのがバレてたの恥ずかしいんだが!あんたはこういうことすんなし!」なのかちょっと自分にはわからなかった。(ここは表情どころか足しか写ってないので推測の材料が足りない)
"最後の洗濯機"に関してはマジでなにしてたかわからないし。
そこも"観測"でしかなく、"演出"ではないというものをありありと突きつけられると感じた。そりゃ生活して状況を独り言のように言うことなんて少ないよな。

その他感想


以下観ながら言った独り言

「母親良い母親すぎる…」「ウインナー(食べたい)」「えっドア閉まってんの!?」「幸ちゃんそこおもらしした床だよ…」「包丁危ないよ!あ、缶詰開けたくてやってみるのね…」「(インターホンに)誰!?」「ポテチ食いながら見る映画じゃねえな…」「この地獄、まだ続くん?」「ハエとかってADに捕まえてこい!って言ったりすんのかな…」「ああああ粘土食べちゃだめ!ぺってしてぺって!」「帰ってくんの!?!?!?!?」「あ〜〜〜…(浴槽に水溜めてるのを見て)」

一人で映画見てるとめっちゃ独り言言うな。
総評として、人に勧められないが、見ておいて間違いはないかもしれないかもしれないかもしれない映画。だろう。
「ネグレクト」「子どもたち」を寂しくも力強く、映画として描いたのが『誰も知らない』で
「ネグレクト」「母親の弱さ」を冷徹に淡々と映し、映画として形をまとめたのが『子宮に沈める』
だなと思った。

自分はこの手の映画を見て「社会的に意義のある映画だ」「社会にメッセージを強く打ち出す作品だ」とはあまり感じない。
なんだか、そんな感想を持つのがキナ臭く感じるからだ。
どうせならこの映画を見なくてもいいような社会が一番望ましい。
でもまあ道徳の教科書で「ダメですよ!」って書かれるよりも意味はあるかもしれない。

あとちゃんと言っておくと、自分はめちゃくちゃ子どもが好きです。
物件選ぶときに子どもの遊んでる声が聞こえるような場所だと「ここ良いな」って思っちゃうくらいに。
安心してください(?)

でもTikTokでバズらせてるお前らはもっと最悪だと思うぞ!!

なんと調べたところ、この映画に関するTikTok動画はバズ連発しているらしい。
映画の切り出し、感想をしたり顔(っていうか顔見せるついで)でチョロっと書いてるやつ、映画のシーンのスクショをいい感じのBGMに合わせてスライドショーしてるやつ
ぜっっっんぜんこの映画の美しさ、説得力を損ねている。

全員絶対最悪だからな!!!!!!
「かわいそうだよね〜」じゃなくてさ!!!!!
そんなの全員わかんだよ!!!!!
それでTikTok撮んな!!!!

ネグレクト、ダメ、絶対

サポートお願いします!文なり曲なり諸々の経費として活用します!下手したらなんでも聞いちゃうよお願いとか。