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仕事を辞めて、世界中を旅することにした

プロローグ

仕事、辞めます

4年半続けた会社を辞めた。仕事をどうしても楽しめなくて、人生を浪費してる感覚が毎日あった。少しずつ自己肯定感が下がっていく自分が嫌になってきてた。本当はイケてるはずなのに、イケてない自分に焦りがあった。
そういうのが積もり積もって、退職届を出した。これまで走り続けてきた人生のレールを降りて、また別の道を探すことにした。ちょっとビビってるけど、この一歩が新しい何かの始まりになることを信じて進み始めることにした。友だちに嬉しい言葉を貰った。「動いた先にある未来は明るいはず。悩ましい人生は楽しい!」
ありがとう、これからどうなるか全く先が見えないけど楽しく頑張るぞ!

お世話になった会社の上司へ

仕事が面白くなかった大きな要因に、パワハラ・モラハラ体質な会社環境があった。社内の雰囲気は常に悪く、色々なところで陰口やイジメがあった。直属の上司は主犯格の1人だったので、攻撃されることもあった。そんな環境に負けないように仕事を頑張っていたものの、楽しいわけがなかった。

最終出社日が来た。
あれほど毎日辛酸を舐めて頑張ってきたのに、嘘みたいにあっけなく終わってしまった。こんなもんかって気が抜けた。毎日嫌なことに対抗して頑張ったところで、報われることなんて何もなかった。ただ、終わっただけだった。
どうでもいい奴の、どうでもいいことに時間を使いすぎてしまっていたことに、初めて気がついた。一方、これからの人生を応援してくれる人たちもいた。そんな人たちのことを、最低な上司ほど毎日考えてはいなかったのに。

「もう嫌なことに時間を浪費するのは辞めよう。これからの人生は、自分の大切な人のために使おう。」
4年半の会社員生活で、最後の最後に大切なことを教えてもらった。なんだかんだで、あの嫌な上司から学べることはたくさんあった。仕事もよくできる人で、尊敬できる部分もあった。仕事に対する想いの強い人でもあった。彼がいなければ、仕事を辞めて新しい環境を求めることもなかった。お世話になったし感謝してる部分もある。
どうせなら、気持ちよく会社を去る方がが良いに決まってる。嫌なこともあったけど、「終わりよければ全てよし」で終わらせたい。それなのに、送別会では、上司に上手く自分の気持ちを伝えられずに不義理で終わってしまったように思う。次にステップへ行くために、自分の中でもしっかり清算したい。
伝わらないかもしれないけど、最後に言えなかったことをこの場を借りて言わせてください。


苦しんで○ねや、ボケカス!!!


そうだ、旅に出よう

テレビでスペインやネパールの景色を見た時、「ここに行かんまま人生って終わるんかな」とぼんやり考えることがあった。そういうちょっとした引っかかりが、この先もずっと後悔として付きまとう気がした。ドブロブニクの銃痕を触ったこと、ガンジス川で死体を見たこと、ピラミッドてっぺんで沈む夕日を眺めたことを、いつか子どもにドヤり散らかしたいしな。
まとめると、「行ったことのないところに行ってみたい」。そういう動機で日本を出てみることにした。
どこに行くのか、どれくらい行くのかはまだ分からない。
分からないまま、進んでみようと思った。

決断

一カ国目はシンガポールに決めた。
初めて自分の意思で関西を離れる選択をした。快適な生活をしてたからこそちょっと惜しくて、別れはちょっと悲しい。悲しいからこそ、この選択を正解にしたい。やってよかったと思いたい。
帰国した時に、「やらなきゃよかった」と後悔するかもしれない。でも今この瞬間、自分の中から湧き上がる気持ちを前にして、やらずにいれるわけがなかった。帰国したその日、周囲から見られる一番わかりやすいものは結果。でも自分だけは今日、決断した時の自分を知っている。

色んなことを決断した日の夜

シンガポール

最初の一歩目が、一番不安で楽しくて忘れられない

大阪の関西国際空港からシンガポールのチャンギ国際空港まで、途中のマレーシアでの乗り継ぎ含めて11時間。世界一と言われるチャンギ国際空港は広大で美しかった。でも、人工物である以上は想像の範疇を越えない気がもした。日本でも同じような空港がありそうっていうのが素直な感想。
いよいよ空港を出た。空港で出国手続きとか全てを終えて、その国に放たれた瞬間って、旅の中で一番不安で楽しみでゾクゾク感がある。なんでも出来るけど、何も分からない。さあ、何をしようか。

シンガポールの夜景

人溢れるシンガポールで逆に感じる孤独

毎日同じ場所を行ったり来たりした。交通事情や治安状況が少しずつ分かってきて、街に馴染んでいく実感があった。顔なじみが出来たり、観光客に案内するようにもなって、「旅」から「暮らし」っぽくなってきた。
シンガポールは大都会で人も多く、物価も高かった。日本に似ている部分もたくさんあった。ある日の夜、高層ビル群を眺めていた時、東京で感じるような孤独感を抱いた。「こんなに人はいるのに、自分はこの場所に一人で来てるんや」って。

シンガポールに到着した日

マレーシア

長くて暑くて難しすぎる陸路での国境越え

シンガポールからクアラルンプールまでの道のりは想像以上に複雑で長かった。バスに乗り遅れそうになって本気ダッシュしたり、電車を間違えて反対方向に行ったりもした。幸運にもその度に親切な人に助けてもらった。
ある駅で、電車が来るのを1時間以上待った。周りには、同じように電車を待っている人が何人もいた。構内は陽射しが差し込んで暑かった。ベンチにはスマホを触るでもなく人と話をするでもなく、ただ静かに座ってる老人がいた。逆光で顔は見えなかったけど、静かに死ぬのを待ってるようにも見えた。

電車での大移動中

外の世界を泳ぎながら、自分の内側に潜る

クアラルンプールは、街全体がなんとなく暗く陰鬱な雰囲気だった。気のせいかな。多分、普通に夜だったからかも。
ある日、街を歩いているとアジーという名前のサウジアラビア人が話しかけてきた。髭もじゃの怪しい風貌で、ホームレスかなと思った。その割には英語が上手で、お喋りなおじさんだった。旅行でマレーシアに来たものの、パスポートを盗まれたらしい。大使館から再発行されるの3ヶ月間待つことになり、やることがなく話し相手欲しさに声をかけたらしい。世界を巡れば、こんな風に不思議な時間の使い方をしてる人ってたくさんいるんだろうな。学校にも行かず、働きもせず、ただ毎日を楽しく生きてるだけの豊かな人生。羨ましいな。日本で生きてると、頑張らないと幸せになれないと思い込んでしまう。特に決めたわけでもないのに、まだ見つけられてない新たな幸せをこの旅で考えるようになっていた。
談笑していると、おっちゃんがタバコを作り始めた。「お前もいるか?」って言ってくれたのに、「いらない」って断ってしまった。普段吸わないけど、今思えば試してもよかった。なんで変わろうとせず、今までの自分のままでいたんだろう。アジーとの別れ際、こんな言葉をかけてもらった。「旅は新しい景色に出会い人々と出会うためにあるものだけど、僕たちはそれを自分自身への内なる旅に昇華すべきだと思う。歳をとった時に心と養う知恵と知識を身につけるために、外の世界を泳ぎながら自分の内側に潜るんだ。」
振り返ると、行ったことのある場所だけを広げようとして、自分自身を広げようとはしてこなかった。ありがとう、アジー。この旅は絶対面白いものにするよ。

おもしろアラビアン

お洒落なヒゲのくまモンと世界中から集まった旅人たち

イポーのホステルに滞在中、リビングでご飯を食べていると喧嘩が強そうなイカついクマみたいな人が近くに座ってきた。ちょっとビビった。ビビったからこそあえて「髭がイケてるね。」って話しかけた。そしたら穏やかな笑顔で「ありがとう!君の髪型もおしゃれだよ」って返してくれた。そのギャップが可愛かった。クマはクマでも、クマのくまモン寄りのクマやった。くまモンと喋ってると、中国人の女の子が会話に混ざってきた。3人で話してると、近くにいたスペインやオランダから来た金髪美女たちともいつの間にか仲良くなった。
みんなが知っているような観光地ではないからこそ、長期で旅をしているような人が多く、社交的で良い笑顔の人が多かった。その日は夜中の2時ごろまで、みんなでお酒を飲んで語り合った。くまモンに話しかけてなかったら始まらなかった。たったこれだけで、自分を取り巻く世界が変わった。

イポーのホステルにて、中国人とインド人(くまモン)と

カンボジア

海外組のフットサル選手、その名もハルヤ

カンボジアのプノンペンには、日本人の友だちであるハルヤが住んでいる。彼はセミプロのフットサルチームでプレイしながら、スポンサー企業で仕事をして生活をしている。今回は、彼の部屋に約1週間泊めてもらった。

フットサルチームの練習に参加させてもらった。久しぶりにボールを蹴っていると、自分がフットサルをやってた時のことを思い出した。かつては、所属チームがあって、上手くなりたくて勝ちたくて一生懸命走っていたなって。今は何にも縛られず自由でいられる反面、本気で何かを頑張れるような居場所はない。隣には外国で切磋琢磨しているハルヤがいる。SNSを見てると日本で働く友だちの投稿が目に入る。みんなそれぞれ頑張ってる。
それなのに自分はなにをしてる?
欲しかった自由、見たかった世界が目の前に広がっているのに、「なんにも頑張っていない」という漠然とした焦りを心の奥底で微かに感じていた。

フットサルの練習中の様子

上手く言語化できないけど、なんとなくでも良いから伝わってほしいこと

トゥールスレンの博物館でポルポトの大虐殺について、その跡地や写真を見てきた。そもそもの歴史的背景が分からず、しっかり悲しんだりできなかった。悲しむために行ったわけじゃないけど。知らないことが多い人生は寂しい。たくさん知れば、またその先も見えるはずなのに。
正直、カンボジアのことをほとんど知らずに来た。有名な場所もアンコール・ワットという名前を聞いたことあるくらい。実際、プノンペンではほとんど観光をしなかった。それなのにめちゃくちゃに楽しかった。特に市場はカオスな空間だった。食堂に並ぶのは見たこともない料理。通路ではおばちゃんが散髪をしていた。雑貨屋さんの店主は爆睡していて何も買えなかった。何より活気があり、常にどこかで何かが面白いこと起こっていそうな雰囲気があった。なにより、日本からこんなにも遠く離れた場所でさえも、人々が生活を営んでいるということに感動した。自分の知らないところで、知らない人たちが、美味しいものを食べたり笑ったり泣いたり仕事をしたりしてるんだということを、初めてリアルに感じることができた。

リアルな世界を見れる快感は半端ない

ハルヤとの生活は日本で一緒に生活してた時と大きく変わらず、堕落した毎日だった

昼過ぎに起きて、Uberで頼んだご飯を食べる。夕方ごろにやっと外に出て、カフェでゆっくりしたり、食べ歩きしたりする。夜はフットサルの練習か、オフの日はカジノに行く。毎日同じものを食べて、同じとこに行き、同じように帰る生活をしていた。プールやサウナにも2人でいった。海外で友達と遊ぶというプレミアム体験が最高すぎて、終わりが来て欲しくないなと思った。楽しいのと同時に、いつか終わっちゃう悲しさも同時にあった。最高な時ほど、そういうことを考えてしまって心が少しだけ痛くなる。でも、温泉→サウナ→マッサージの3本セットの時は他の色々なことがどうでも良くなるくらいに、ただただ最高を噛み締めていた。

カジノでの勝負前

新しいカンボジアの友だち、その名も「セッ」

ハルヤとカンボジア人「セッ」と3人で地元のカンボジア料理店へ晩ごはんを食べに行った。セッに教えてもらいながらカンボジア料理を満喫していると、5歳くらいの男の子が各テーブルをまわって、残ったご飯を分けてもらってるのが目に入った。お店の人にビニール袋をもらい、もらったご飯をその中に入れてた。観察してると、3,4組のグループがご飯をあげていて、3袋くらいがご飯でパンパンになってた。セッは彼にお金をあげていたので、それに習ってお金をあげた。しばらく経って、次はホームレスらしき爺ちゃんがまわってきた。セッは爺ちゃんにもお金をあげていた。「またかよ…」と思い、彼にはお金をあげれなかった。きっと自分の方がセッよりも贅沢な暮らしをしているはずなのに、与えることを躊躇した。日本では物乞いに対して嫌悪感を抱く人が多く、「味をしめて癖になっちゃう」とか「パフォーマンス」とか言い訳を並べて無視しているのをよく見る。ここにいると、そんなことがどうでもよくなってきた。味しめさせても別にいっか。ラッキーって調子乗らせてもいっか。こんなに当たり前に与えることができるセッみたいな人になりたいという気持ちだけが残った。

カンボジア人の「セッ」と日本人の「ハルヤ」

その日の帰りはだいぶ遅くなってしまい、街を歩いてる人はほとんどいなかった。銀行の前には警備員がいて、そのほとんどが寝袋で寝てた。警察官もハンモックで寝たり、椅子の上で寝たりしてた。店や家から漏れ出る電気はほとんどなく、街全体が暗かった。外を出歩いてる人もいない。暗い街をハルヤと2人、自動ロック付きの明るいマンションまで帰った。

ベトナム

カンボジアからベトナムまで、バスに揺られながら窓の外を眺める。大量のバイク、トラックの荷台に乗って運ばれる人々、そういう人に水やフルーツを売り歩く人。ベトナムまで真っ直ぐに道が続いていて、その両サイドに商店が並んでいる。みんな何を考えて生きてるんだろう。ゆったり生きているようにも見えるし、忙しそうに生きているようにも見える。退屈そうにも、物憂げにも、楽しそうにも見える。次ここに来る時は、もっと深く知ってみたいなと思った。

バスから見える外の景色

リアカーを2年半引っ張り続ける日本人に出会った

今回の旅で初めての日本人宿に泊まった。日本語でコミュニケーションをとれる楽さを実感すると同時に、日本人同士だと変に気を遣っちゃう。ちゃんとしないといけないっていう、目に見えないプレッシャーを感じる。
ベトナムからフランスまで、2年半かけてリアカーを引っ張って横断する人に出会った。何がそこまでさせるんやろう。2年半も1人で知らない土地を歩き続けるなんて、考えつきもしない。日本で生きてるだけでは、想像すらできない人生の使い方があることを身をもって知る。今やってることが、人生を削ってでもやる価値があるか。ベストと思えなくても良いけど、チャレンジに満ちた人生にはしたいな。

ベトナムで出会ったジャパニーズ

歴史を学ぶことの意義をやっと分かってきた

次の日、早起きしてクチトンネルに行く。戦争で実際に使われてたトンネルで、当時の様子を少しだけ想像することができた。人間ひとりがしゃがんで、ようやく通れるようなトンネルが何百キロも続いてる。当時の人々はその中を移動するだけでなく、生活したりもしていた。正直、もう終わった場所で何もないトンネルだけ見てもあまり実感が湧かなかった。
別の日には、ベトナム戦争証跡博物館に行った。これまで行ってきたどの博物館よりも凄まじかった。生々しい遺体や枯葉剤による障害児、戦争で苦しむ人々の写真が数百枚、数千枚並んでた。こんなことを知らなかったんや。いや、知ってたんよな。学校で勉強をして、知識としてはあったはず。でも知らないことが多すぎた。まさに別物だった。終わったことに対しては何もできない。けど、そういう事実を残していくということがどれだけ大切かを初めて実感した。

ベトナム戦争証跡博物館での一枚

ベトナムの道を意味なくバイクで走る旅

バイクをレンタルして、特に目的を決めずに走る。
リアカーでフランスに向けて歩いてる彼と道で会った。数日ぶりの再会。会えて良かった。結局、人と出会うのが旅の一番いいところ。観光名所をまわらなくても、そこに住む人と出会い、話して、別れていくのが良い旅として心に残る。

メコン川を渡る橋で渋滞

田舎道を南に向かって数百キロ走った。大量に走ってるバイクの中に混じって走っていると、よりベトナムについて知れた気がした。時には歩道を走ってショートカットしたり、バイクの間に割り込んで行ったり、信号変わる3秒前に発進したり、信号無視もしてしまったりと、身体がだんだんとベトナムの交通事情に馴染んできた。みんなの運転がメチャクチャに見えてたのに、それが段々とうつってきた。最終的には完全に頭がおかしくなっていたと思う。日本の歌を大声で運転した時は、日本を思い出して寂しくなった。
メチャクチャな運転をしていると、「死ぬかも」って思う瞬間があった。マングローブのジャングルの中についた時は「ここで死んだら終わりや」とも思った。日本の知り合いの誰もが、自分の居場所を知らない。そんなとこで死ねるわけないがない。それ以降、これまでよりもちょっとだけ安全運転をした。

バイクで色んな場所へ自由に行けるようになったことで、出会った街や景色の幅が段違いに広がった。地元民しかいないような道をベトナム人に混じって走っていると、その地で暮らすことに具体的なイメージを持てた。一生は無理でも、1年間だけの生活とかならアリかも知れない。今夜泊まるところはあまりにも田舎で、歩きやバスでは到底来れなさそう。そもそも、バイクじゃなかったらこの街に来ることもなかった。もうすっかり旅慣れた気になっていたけど、またまだ新しい旅のやり方や新しいものを知る方法があるなと思った。まだまだ自分自身も変わっていけるなと嬉しくなった。インターネットが通じない田舎の宿で、ベッドの上で本を読みながらこれからの旅のことをぼんやりと考えていた。

ベトナムの田舎

ベトナムの次は修羅の国インドだ

インド行きのチケットをとった時、今までで一番気が引き締まった。と同時に、色んな人がインドに対して特別な感情を持って帰ってきてる。一体、インドには何が待ってるんやろう。もう一度行きたいけど行きたくない国ってベトナムのゲストハウスオーナーが言ってた。何があっても大丈夫。バスに乗り遅れても、うまく計画通りに進まなくても、まぁいいやん。どうせいつか死ぬ。そうやってどうにか色んなことを乗り越えよう。

ホーチミン最後の日

ホーチミンの搭乗口付近で椅子に座って出発を待っていると、隣にもじゃもじゃロン毛のお兄さんが座ってきた。ずっと電話をどこかにかけていた。インドのニューデリーからリシュケシュ行きのバスを予約したいのに、通信環境が悪くて上手く行ってないらしかった。彼が電話するのを諦めてから、行き先一緒やねって話しかけてテザリングをしてあげた。彼はそのお礼として、一緒にバスの予約をしてくれた。「いいチームワークで、助け合いしたね」って笑いあった。インドが大好きなポルトガル出身の28歳で、リシュケシュにヨガ修行へ行くらしい。話しかけて良かった。広い空港内でたまたま横に座った人が、広いインドの中で同じ目的だったというのは、なかなか運命も面白いことをしてくれるな。バスは予約不要だと思っていたけど、ポルトガル人の彼は「絶対やった方がいい」って言ってた。こういう偶然で、上手く旅がまわってる。

空港で出会ったポルトガル人

インド

夜のインドがあまりにも寒すぎる

22時ごろにインドに到着したのに、simカードの契約に時間がかかってしまい、空港を出たのは深夜1時を過ぎてしまった。深夜にも関わらず、タクシーの客引きや両替商などで人がごった返していた。UBERで予約したタクシーで1時間ほど走り、リシュケシュ行きのバスが出るポイントにたどり着く。そこはバスターミナルやバス停らしい目印があるわけでもなく、ただの大きな道路の端っこだった。本当に来るのだろうか。近くにあったチャイ屋さんに聞くと「ここで待っとけ」と言われる。来ることを信じて待つしかなかった。
冬のインドは寒かった。チャイ屋さんの周りには、数人のインド人がたむろしていた。残飯目的で野犬も数匹いた。暖をとるために、インド初チャイを買った。「20ルピー」と言われたが、他のインド人が10ルピーで買ってるのを見てたので、「いやいや10ルピーやろ」と言い返す。その様子を見てたお客さんらしき人が「10ルピーで売ってやれ」と言ってくれた。店主は言う通り10ルピーでチャイを売ってくれた。こんなしれっとぼったくろうとしてくるのも、しれっと助け舟を出してくれるのも面白かった。たむろしてるインド人の輪に入れてもらい、チャイをすすった。わざわざ座るスペースを開けてくれたものの、「どこの国から来た?」と質問して旅人を珍しがってくるわけでもなかった。歓迎するわけでも拒絶されるわけでもない、ただ1人の存在として認識してくれている感じがした。ただただ、いつも通りの寒い夜をみんなで身を寄せて過ごしてる実感があった。
ちゃんとバスも来た!

10ルピーのチャイで寒さに耐える

リシュケシュでヨガと瞑想の修行をする日々

朝の8時前ぐらいにリシュケシュに着いた。到着する前に寒さで目が覚めた。
リシュケシュでは、ヨガニケタン・アシュラムに8日間滞在してヨガプログラムをする。5:15、鐘の音で起床。5:30から1時間瞑想をして、6:45から8:15までヨガ。8:30から朝ごはん。すぐに食堂に行かず、8:25頃に陽が山から顔を出すのを眺める。少し遅れて食堂に入り、完全ベジタリアンの朝食をとる。食べ終わると自室に戻ってシャワーを浴びる。身体を洗うついでに、衣類も洗って外に干す。お昼の時間まで他の生徒や先生と喋ったり、図書室で本を読んだりして過ごす。お昼になってご飯を食べたら、ダイジェストヨガを14:00まで。それが終われば、16時まで自由時間。ガンジス川沿いを散歩する。16時から17時までヨガ。17時から18時まで瞑想。瞑想が終わって晩ご飯を食べたら、あとは自由時間。朝が早いから22時までには寝る。カンボジアで毎日昼過ぎに起きてたやつが、ここでは5時に起きてる。
これからの人生で何かに行き詰まった時に、ここに来るのかなというなんとなくの感覚があった。

ヨガ漬けの毎日

修行をするため、世界中から集まってきてる

17歳から世界中を旅したあと、結婚して子どもが3人いる中で離婚調停中の社長31歳。留学帰りにインドで修行をしに来た春から社会人の早稲田大学生。ヨガの先生になるために勉強しに来た親子。いつも1番前で真面目に修行しているイングランド人カップル。離婚をきっかけに仕事を6週間休んで、リバプールから来た42歳のおじさん。彼は「全てをリセットするために来た。ここからニューチャプターを始める」って言ってた。医者を辞めて、このアシュラムで働く為に来た25歳のインド人デヴ。毎朝、モーニングノートを書いて人生の目標を考えるんだと話すアイルランド人のおじいさん。
それぞれの人生の分岐点で、リシュケシュにきて何かを掴もうとしているのかもしれない。

山の上から顔をだす朝陽

みんなでヨガをやり終わったあと、クールダウンの時間がある。ヨガの先生はその時間を「サレンダー」と言う。全てを諦めて、地面に身を任せ横たわる。。頭も身体も心も、ありのままの状態でいる。
瞑想のレクチャーでは、先生が「瞑想アートだ」って言ってた。瞑想の前後で、サンスクリット語のOM(オーム)っていうマントラ(真言)を唱える。先生曰く、それは言葉というよりも歌に近い。だから、何度も何度も声に出しても飽きることはない。って言ってた。

ガンジス川がたまらん

毎日同じ場所に行っても、新しいものを見せてくれるインド

ガンジス川沿いで遊ぶ子どもを眺めてたら、近くに寄ってきた。マジックを見せあったり、木の棒で遊んだりした。30分くらい経って、バイバイって言うと「また明日!」って言いながら手を振ってきた。
さらに歩いていくと、アコーディオンを弾くおじさんがいた。音色が綺麗で、となりに隣に座って聞いた。様子を眺めてると、色んな事情が分かってきた。近くで雑貨屋をやってるおばちゃんが、おじさんの世話をやっていた。彼女から「彼は目が見えないんだよ」ということを知らされた。おじさんの目の前のカンカンに投げ銭が入れられると、おじさんはコインが落ちる音でそれに気付き、アコーディオンを弾く手を止めてお礼を言った。カンカンに音が鳴らないように、こっそりお金を入れた。その様子をずっと雑貨屋のおばちゃんは見てる。お金が盗まれないように見守ってるのかな。紙幣がカンカンに入れられると、すぐにおばちゃんがやって来ておじさんに手渡す。おじさんはそれを胸ポケットにしまう。ある時、1番大きな紙幣の500ルピーが投げ入れられた時、おばちゃんはそれを自分の胸元に入れてるのもしっかりと見てしまった。

ガンジス川沿いで遊ぶ2人の子ども

盲目おじさんの演奏が美しすぎて毎日通う

盲目おじさんが気になって、毎日その場所に通った。1日だけいない日があって、500ルピーのおばちゃんに聞くと「今日は休みだよ」って教えてくれた。その次の日はアコーディオンじゃなくて、リコーダーのような楽器を弾いていた。相変わらず綺麗。おじさんの隣に座って聴く。音色が好きだということを伝えられもせず、おじさんには、自分がここで音楽を聴いてるんだよということが伝わらないままリシュケシュを去ることになるんだと思うとちょっと悲しい。今回の旅が終わって、またいつかここに戻って来た時は、また同じ音色を聴きたいな。その時に、この人はまだここにいるんかな。リシュケシュ最後の日、カンカンにお金を入れる時に、こっそりバイバイって言った。彼の中では、まだ出会ってすらないのかもしれないけど。

盲目のおっちゃん

その日は、ヨガの間もおじさんのことを考える。目が見えないあのおじさんの世界では、500ルピーをくすねるおばちゃんは存在しない。存在するのは親切な優しいおばちゃんだけ。通行人からの好奇な目や冷たい態度は感じない。感じられるのは投げ銭してくれる人だけ。いや逆に、ぜーんぶ何となく感じてるのかもしれない。目が見えなかったら、容姿や人種で差別もしないすることはないのかな。
そんなことに考えを巡らせていくうちに、謎の魅力を放つおじさんの世界に、自分はいないままなんだということがじわっと悲しくなった。バイバイって言った時、反応してくれた気がしたけど気のせいやったかも。インドでは特に珍しくはない景色だけれど、あのおじさんだけは妙に記憶に残った。

リコーダーDay

初めての火葬場で人が焼かれて消えていくのを見た

ある日、ガンジス川沿いを散歩してると火葬場にたどり着いた。15人くらいが集まって、木を組み立てて火をつける準備をしてる。組み立て終わってから1時間、何も始まる気配がない。ひたすら待って、ようやく動きがあった。組み立てられた木の横に白い布に包まれた遺体らしきものが運ばれてきた。親戚らしき数人が遺体をガンジス川まで運び、白い布を取って身体を洗い始めた。洗い終わると、再び布で包まれて木々の横に丁寧に置かれた。そこから1,2時間待った。「早く始まってほしい」っていう不謹慎な気持ちもあった。この人を最期まで見送ろうっていう気持ちもあった。午後のヨガと瞑想の授業を休んで待ち続けた。

夕方、遺体が組まれた木の上に運ばれ、遺体の数ヶ所から火がつけられた。白い布から細い脚がはみ出てくるのが見えた。白い煙が上げながら遺体が焼かれるのを、数十人のインド人が思い思いの場所から見てた。途中で風向きが変わって白い煙こっちに飛んできた。本とか映画で聞いてたほどの、肉の焼ける嫌な匂いはしなかった。火葬が始まってから30分ほど経つと、人がほとんどいなくなった。最後の最後には、後片付けをしに来た火葬場の人と餌を探しにきた野良犬だけが残った。真っ黒になった人型のものが、火の中からかき出された。真っ黒になっても、頭も腕も分かるくらいには形が残っていた。真っ黒になる前はクリケットをしたり、商売をしたり、テレビを見て笑ったり、タバコを吸ったりしてたのに、最期はこうなるんや。この世の中から、人が一人消えた。これだけのものを目の前で見たのに、死を間近には感じれなかった。自分ごとじゃなくて実感がわかなかった。あまりにも現実離れした光景に、しばらく頭が回らなかった。

火葬現場

サヨウナラのリシュケシュ

最後のレクチャーで、ヨガと瞑想の先生から最後の言葉をかけてもらった。
「ヨガはただのエクササイズではない。ヨガは内側を正しく保つことから始まる。正しい姿勢でいるのはその後だ。」
「心の中に、正しい炎を大きく強く保つこと。どんなに困難な状態の時でも心の中に炎を保っていれば、その炎は正しい方向へなびいていく。」
「瞑想で手に入れたものは人によって違う。でも、ここでの経験が変わることはない。経験は君自身だけのものだ。これからもずっと君の中にある。エンジョイ。」

炎を見つめる瞑想

19時のインドからはオリオン座が見える。この季節って日本からでもオリオン座見えるんやっけ?
時差はあれど、インドも日本も両方が夜なタイミングってあるな。両方とも昼のタイミングもあるな。そんな時は本当に同じ太陽や星を見てるんやと思うと狭い世界で生きてる。

夜のガンジス川

インドで強烈に浴びた洗礼がメチャクチャすぎる

夕方、リシュケシュからバスでニューデリーに到着した。
booking.comで予約したホテルに向かうも、記載された住所にはホテルがなかった。近くのお米屋さんにホテルの場所を聞くと、そのホテルに電話をかけてくれた。ホテルの本当の場所はサイト書かれている場所から数km離れた場所で、お米屋さんの青年がバイクで送ってくれた。チェックインしようと受付に行ったら「外国人は受け付けてない」と予約してるのにも関わらず断られた。お米屋さんの青年が交渉してくれたけど、結局泊まれず。そのあとも一緒にホテルを探してくれたが、なかなか見つからない。青年に申し訳なくなってきて、あとは自分で何とかすると言って別れた。夜23時「さてどうしよう。野宿でもするか。」って考えながら野宿場所を探していると、小さいゲストハウスを見つけた。ベッドの空きもあった。シャワーは水しか出なかったけど、なんとか今日を乗り切れた。

バイクに乗せてくれた青年

期待を裏切らないインド人のカスっぷり

ニューデリーを歩いてると、たくさんの人が話しかけてくる。そのうち9割は騙すことが目的だ。最初は全然気付かなかった。「この道は危ないよ」「案内してあげる」「日本が好き」とか言って巧妙に接近してくる。気をつけるようにしてたのに、3回くらい騙されそうになった。なんやこの国。
無料と言われて入った旅行案内所で、オススメの場所やバスの乗り方などの情報をもらった。紙に地図を書いて丁寧に教えてくれた。お礼を言って帰ろうとしたら「紙に書いて教えてあげたから1000ルピーくれ」とお金を請求された。「そんなん聞いてない!」って言い返し、喧嘩になった。正直、長い時間をかけて教えてくれた対価として払ってもいいなと思っていた。でも、やり方が気に食わん。「お金なんか払わんし、こんな紙いらんわ!」と言うと「この紙の写真撮ったやろ。それも消せ!」って。確かに、携帯で写真を撮ったけど、よく見てるなコイツら。目の前で写真を消して、二度と来んからな!って言って店を出た。そのあとすぐに、削除した写真を復元したった。バカめ。日本人を舐めんなよ、このカレーボーイ共め。

インドは汚いけど美しかった

ヒンディー語で見るインド映画がなんだかんだ面白い

映画の値段は300円くらいで、レンチンして食べれるポップコーンが2つもついてきた。映画館の人に「ヒンディー語の映画なんですけど、大丈夫ですか?」と聞かれて、「言葉は分からないけど、雰囲気で感じれると思う」と返すと、嬉しそうに笑ってた。
実際、言葉が分からないなりに理解できたし面白かった。恋した女性がアンドロイドだったけど、葛藤の末に結婚までしちゃう話。あと、女優がめっちゃ美人。全3時間くらいの映画で、途中に10分の休憩時間があった。おもろいシーンは笑い、悲しいシーンは死ぬほど辛かった。謎のタイミングで踊り始めるシーンは多かったけど、ダンスがカッコよくて嫌ではなかった。思ったより満足度が高くて、自分でも驚いた。

意外と綺麗な映画館

ヴァラナシでのある日の朝、日の出を見るために早起きした

ガンジス川まで歩いていくと、もうすでにたくさんの人がいた。さすが聖地ヴァラナシ。沐浴やヨガをする人、ガンジス川を眺める人、歌をうたう人、お祈りする人で溢れていた。朝日で光るガンジス川以上に、人々のその営みひとつひとつが美しかった。飛行機に乗っていると、窓から見下ろす地球の美しさに感動する。でもやっぱり、その地に降り立って、国に触れてみることには敵わないと改めて思わされた。

モーニング ヴァラナシ

ドバイ

自分のためだけに人生を使うことへの葛藤

ドバイ行きの飛行機の中、体調が悪くて終始ボーッとしていた。インド上空では、ヴァラナシで出会った日本人を思い出していた。基本的にずっと宿のベッドで携帯を触り、外出する時もインド人を異常に警戒していた。ネットで得られる情報を過剰に信用し、誰かがSNSに投稿した内容をなぞるような旅をしていた。楽しく旅しているようには見えなかった。自分もそうなってしまっていないか不安になった。そうなりたくないと言う強い思いが、忘れかけていたものを思い出させてくれた。自分の欲求にもっとワガママになろう。絶対に幸せになろう。貪欲に幸せを捕まえに行こう。
働きもせずにフラフラしている状況に後ろめたさは多少ある。全てのお金を自分のために使っている申し訳なさもある。自分のために移動してご飯を食べて安全な宿のベッドで寝る。こんなにワガママに生きていいのだろうかと思ったりもする。誰が何と言おうと、この後ろめたさは変わらない。「自分の人生なんだから、ワガママに生きてもいいんだよ」って言う人もいるだろうけど、そんなことは分かってる。
旅は素晴らしい。でも最高に楽しんでいる自分の心の奥底には、葛藤する小さな気持ちがあることに本当はいつも気付いている。

ドバイのバブリーな夜景

完治しない体調不良、それでも進み続けなければ

ドバイの空港で一泊する。座席が全て手すり付きだったので、床に横になって寝た。地面から伝わる冷気と硬さでなかなか寝れない。寝れたと思ったら、すぐ近くで寝てる人の足が頭に当たって目がさめる。朝、5時にようやく起き上がって周囲を見渡すと、あっと驚くほどの人が既に飛行機の出発を待っていた。ここ1週間ほど続いていた体調不良も悪化した。頭は痛くて吐き気がする。歩けばフラフラして倒れそう。なんとかラウンジに入って、ご飯を食べる。ソファが柔らかい。一瞬意識が飛んでしまい、グラスが割れる音で我に帰った。高級そうなグラスを落としてしまった。それなのに、もはや申し訳ないと思う気力もなかった。むしろ、床に散ったガラスの破片が綺麗だなと思ってしまっていた。ドバイよ、ごめん。

空港での寝床

ヨーロッパ

ユーレイルパスを買った。1ヶ月間ヨーロッパの国鉄乗り放題。10万円弱もする。使い倒そう。ヨーロッパを駆け巡るぞ!

ソフィアでダンスする人々

鉄道に乗って揺られる長くてゆったりした旅

ブルガリアからルーマニアへ合計10時間の電車に乗る。山間部や平野部、時には街を走ったりと景色を眺めているとすぐに時間が経つ。昨日、買った食料を車内で食べる。4席同士が対面で並ぶ8人ボックス席に1人で広々座って、パン2つ、ハム、ポテトチップス、水を午前中の間に全て食べてしまった。どこかの駅で老夫婦が乗り込んできた。男性は静かに外の景色をニコニコ眺めていて、女性は黙々と数独を解いている。暖房が効いてるのもあって、日が差し込んでくると暑い。
目的の駅に到着して、外に出る。夫婦と会話はしなかったけど、別れる時に2人と別れの握手をした。乗り換える電車が分からず駅員さんに聞くと、乗り換える必要はないよと教えてくれた。さっきの席に戻ると、夫婦が笑いながら出迎えてくれた。聞いたことない言葉で話していて理解はできなかったけど、「ロゼ(目的地)なん?なんやー笑」って言ってた(と思う)。トイレに立つと、2人とも足を引っ込めてくれた。会釈すると「脚が長いからさあ、ごめんねー!日本人なの?」って笑顔で話しかけて来てくれた。厳密には分からんけど、多分そうやねんな。分かるねんなー、なぜか。

長い長い鉄道での移動

ヨーロッパの国境越えってこんな大変なん??

ルーマニアからハンガリーに向かって電車を乗っていると、国境際で電車から降ろされた。出入国の手続きかなとしばらく待っていると、電車に技術的な問題があるとかで、駅の隅にあった小さな建物の中で4時間も待たされた。スペイン人のおばちゃんと娘、ロシア人のおじさん、ロン毛の兄ちゃんの5人と一緒に部屋に閉じ込められ、ほとんど軟禁状態にされた。トイレに行くのも監視がついて来た。ルーマニアで買った缶詰がバックパックに入ってるのを思い出し、外で食べさせてくれと頼んでみた。10分だけならいいよと許可が降りた。図々しくフォークも貸してもらった。なぜかコーヒーも入れてくれた。軟禁組5人でコーヒーを飲んでいると、スペイン人のおばちゃんがパンを配ってくれた。4時間も待たされてみんな怒っていたけど、なんとか協力して乗り越えることができた。

軟禁中、監視されながら缶詰を食べた

久しぶりにびっくりするほど綺麗な夜景に出会った

夜、ハンガリーのブダペストを散歩する。ホステルから数分歩いて、川沿いに出ると驚くほど綺麗な夜景が広がっていた。橋、要塞、城、聖堂がそれぞれ金色や銀色に輝いていた。

ブダペストの素晴らしい夜景

そういえば今までの旅で、どんな綺麗な景色を見てきたっけ?
思い出すのは、人と関わった記憶ばっかりかもしれない。メルヘンな街並みや建物で溢れるヨーロッパであっても、積み上がっていく思い出はSNS映えするような光景ではなかった。日本では見たことような細い足の犬を散歩させてるオシャレおばさんと世間話をしたことや、サッカーのユニフォームを着たおっさん3人組とサッカー談義をしたことの方が深く記憶に残っている。

実際、ヨーロッパも濃い人で溢れかえっていた

ルーマニアのレストランでチキン食べていたら、物乞いがテーブルに来てチキンを欲しそうにしていた。円安で高かったし、お腹も減っていたしで本当はあげたくなかった。でも、1つあげてしまった。3つあるうちの1つ。悲しかった。寂しかった。痛かった。

クロアチア行きの電車に乗っていた時、同じボックスに座っていた女の人に「ウォッカ飲む?」って話しかけられた。電車の中で飲んで、駅に降りても外で飲んで、去り際には持ってたボトル満杯にウォッカを入れてくれた。ボトルの中のミネラルウォーターは捨てさせられた。

ウォッカ女がペットボトルに入れてくれた

ザグレブの街を歩いてると、誰もいない公園で15歳ぐらいの女の子がヘッドホンをしながら1人思いっきりブランコを漕いでいた。ずっと。一心不乱やった。なんかあったんかな。そうせざるを得ないような世界に生きてるんかな。ベンチに座って、それを眺める。ブランコのリズムよく軋む音が心地よかった。

ブランコ少女

路面電車のチケットを買う方法が分からずあたふたしてると、全然知らない人が自分の持っていたチケットを渡してくれた。「えっ?」って日本語で言ってしまった。「どこから来たの?」とか「何してるの?」とか、よくある質問をしてくるわけでもなく、そうすることが当然かのように渡してくれた。むしろちょっと無愛想なくらいだった。息をするように優しいことしてくれた。
インドやネパールには、心の距離が近くすぎてバグってる人が多かった。それと比べるとヨーロッパの人はドライに感じる。でも、一番ドライな国は日本だと思う。ヨーロッパのどの国の人も、日本人より大らかでフレンドリーで笑顔が多かった。その土地に立ってみて初めて、自分の中のヨーロッパがどういう存在かが明確になってきている。

人との出会いは宝物

止まった電車、行けないドイツ、課金で解決

ドイツ北部のハンブルクに住むヤズミンとピーター(2人合わせてヤスピタ)に会うために、電車を探していると「今日はドイツ行きの電車は動いてないよ」と駅員に言われた。そういえば、ドイツの鉄道はストライキで動いてないんだった。数日前にニュースで見たのに、すっかり忘れてしまっていた。どうしようかと迷ったのも束の間、目の前にスロベニア行きの電車が来た。もうどうにでもなれと飛び乗った。車内では、ビールを大量に買い込んだおっさん2人組に捕まり、永遠と乾杯を繰り返した。
しかし、ドイツに行きたいのにどうしよう。スロベニアの首都リュブリャナで電車を降りた後、途方に暮れる間もなく色々と調べる。ハンブルグ行きのFlixBusが数時間後に出ているのを知った。18時間、105ドル、ラスト1席。これを逃せば、ヤスピタには会えない。迷う暇もなく買った。お金と時間は失ったけど、買った瞬間は幸せな気持ちになった。いいお金の使い方ができた。友達と会える!
「ご縁があったら」を英訳すると「if fate allows」らしい。「運命が許したならば」的な。今回ヤスピタに会えるのは、お金を払って運命に許してもらったから。

おっさん2人組にもらったビールで乾杯

いざ、ドイツはハンブルグへ

「早くて快適で安い鉄道を諦め、遅くて不快で高いバスで行くことになるとは」と、考えてるうちにバスはハンブルグに到着。ヤスピタはバス停で待ってくれていた。これまでの旅で、世界中にいる友達とたくさん会えた。ヨーロッパに入ってからは、鉄道でゆっくり移動して来た。またいつかヨーロッパに来ることがあっても、こんなゆったり旅はもうしない。そう考えると、今の時間がまたとないものに見えてきた。でもそれと同じくらい、日本での日常とも言える生活も貴重なんよね。
学生だったヤズミンとピーターの2人が仕事しているのを見て、思うことはたくさんあった。ハンガリー出身の彼らにとっても外国であるドイツで、立派に働いてる。ヤスピタと神戸のシェアハウスに暮らしていた時代から、たくさんのことが終わったり始まったりした。

ヤスピタに出会えた!

ヨーロッパの街はどの国も美しかった

鉄道の旅では、忘れたくない景色をたくさん見ることができた。そして、そこには魅力的な人々が暮らしていた。街が人を美しくしてたし、人が街を美しくもしてた。

ドイツからスイスに向かう電車からは、田舎の美しい風景をずっと眺めていた。一面緑の平原をおじさん2人が自転車を押して歩いていたり、おばあさんが馬を引いて小高い丘を登ったりしていた。お墓を通過した時には、そこで老夫婦が手を合わせているのが見えた。小さい街の駅で停車した時には、まだまだ寒い中半袖になった子どもたちがサッカーしているのが見えた。この景色を見ることができるのは、これで最後かもしれない。そういうことも考えながら、車窓を眺め続けた。

電車の中は平和

ベルギー、ブリュッセルの広場には圧巻の大聖堂があった。日が暮れると、また違う綺麗な景色が見れるんだろうなと思い、隅に座って日没を待ってた。すると目の前で、男の子が女の子にプロポーズし始めた。サプライズだったらしく、周りにいた友達はフラッシュモブみたいにダンスをし始めた。関係のなかった人も走って集まって来て、最後には20人くらいが踊っていた。

大聖堂の前で始まったフラッシュモブ

イタリア、ナポリで泊まったホステルには屋上あった。夜、本を読もうと屋上に登ってみると、電灯がなく真っ暗だった。暗闇の中、おじさんがいるのが見えた。「暗いね」って言ったら、「星が綺麗に見えるよ」って。
確かに星が綺麗に見えた。それ以上何かを話すわけでもなく、静かに2人で星を眺めた。遠くで若者たちがお酒を飲みながら騒いでる声がよく聞こえた。

イタリアはインドみたいな国だった。ゴミがそこらじゅうに落ちていて、路地がたくさんあって、ちょっと臭かった。ご飯が安くて美味しいところも、人がフレンドリーなところも似ていた。実際、ローマで出会ったインド人にこの話をしたら、「めっちゃわかる」って笑ってた。

イタリアの感動パスタ

念願のパスタを食べにはるばるイタリアに到来した

ローマでは観光地があまり面白くなかった。あまりにも人が多すぎる。コ
ロッセオもトレビの泉も人で溢れかえっていた。映画にでてようが、歴史的価値があろうが、心が揺れ動くことはなかった。自分にとって重要じゃないものだった。
一方、街を歩いていると感じるものがたくさんあった。女の子2人が土手に座って、携帯も触らずに話してる姿を見ていいなと思ったり、かっこいい服を着てる人に感化されてオシャレしたくなったり、若い美女やおばあちゃんがタバコ吸ってるのにびっくりしたり…イタリア人シェフのいる綺麗な店で食べる15ユーロパスタは美味しいのに、アラブ系の人が作る汚い店の6ユーロパスタは美味しくないということも知れた。まずいご飯も美味しいご飯も、食べてる時は同じくらい楽しかった。汚いのも美しいのも同じくらい良い思い出になった。

6ユーロパスタ

実はカオスなバルセロナ

バルセロナのホステルでは、日本人に出会った。2週間滞在していて、ペルー人とフランス人の友だちを作って遅くまでお酒を飲んだり、マリファナ吸ったりしていた。泊まっていたホステルは大規模で、ベルギー人の修学旅行の一団が90人で泊まりにきたりもしてた。修学旅行先をスペイン・ドバイ・NYの中から選べるらしく、18歳でもお酒が飲めるスペインを選んだと言ってて、その馬鹿らしさに笑った。夜中まで外を出歩いて、ホステル内でサッカーして、キッチンでタバコ吸っていた。めちゃくちゃうるさかったけど、そのめちゃくちゃさが面白かった。世界はこんなに自由なんやって思わせてもらった。夜中、同部屋の高校生が「部屋の電気の消し方を教えて欲しい」と言ってきた。そんなん知るかよと思い、電球をパンチで壊せば消えるよと答えた。あいつならやりそう。それくらいのことをやりそうなくらいの全能感を持っていた。

バルセロナで出会った高校生

いよいよ始まる、スペインでの800km1ヶ月間の巡礼旅

スペインにはカミーノ巡礼と呼ばれる四国遍路のような道がある。
フランスの北部にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーというスペインとの国境際の街から、サンティアゴ・デ・コンポステーラというスペイン西側の街まで約800kmを歩く「フランス人の道」が、最も有名なルートとして知られている。毎日2,30kmを歩き、アルベルゲと呼ばれる巡礼者用の宿泊施設に泊まる。道中にはたくさんの教会や美しい景色に出会える。旅を終える最終章にはふさわしい道だと思えた。

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