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悟りを忘れる

 悟りというのは、それを忘れて一人前と言われる。
 なぜなら、悟りを求める心、それを維持しようとする心も執着の一つであるからだ。
 悟ると何が変わるかと言えば、つらい、苦しい、死にたい、消えたい、といったようなネガティブな気持ちはなくなる。これは悟りを忘れてもなくなったままでいられる。
 ただ、この世は素晴らしい、といったポジティブな方向に大幅に振れるのは、悟った後のごく一時、私の場合は八か月くらいの期間であった。厳密には悟ったり戻ったりもするのであるが。
 ネガティブな気持ちがなくなるだけで、悟るというのは十分魅力的なことなのかもしれないが、悟れ悟れとやかましい臨済宗よりは、ごく自然な曹洞宗で境涯を磨いていった方がおだやかだと思う。
 私も一応臨済宗での悟りを得たが、はっきり言ってもう坐禅はやっていない。三十分も坐禅をするのは困難であると思う。やはりどうしても救われたいという気持ちが原動力となって、一晩中でも坐禅が出来たんだな、と感じる。臨済宗で坐ってしまうと、修行が終わった時におなかいっぱいになってしまうのである。
 曹洞宗の方はどうかと言えば、一般に僧職でも臨済宗より修行期間は短い。また、一日で坐る時間も臨済宗よりは少ないようである。ただ、曹洞宗の方は禅問答がなく、ただ坐れと言われるので、これはこれで退屈らしく、本職でもあまり続く人はいないようである。
 このように一長一短ではあるが、ネガティブな感情に追いかけられてどうしても救いを求めているという事情がないのであれば、曹洞宗で在家のまま坐るというのが一番おだやかな坐禅との付き合い方ではないだろうか。
 曹洞宗には在家得度という制度もある。在家と得度は反対語なので本来成立し得ないものだが、戒律をより厳密に守るといった目的ではする価値もあるのかもしれない。ただ、あくまでも得度なので、改宗が出来なくなる。曹洞宗で坐禅を続けたら自分に合わなかったということもあり得るので、これは慎重に行いたい。

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