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「スパイダーバース」って言葉の意味。

 11本目は『スパイダーマン:スパイダーバース』。アカデミー賞の候補などが発表される1月は、昨年のアカデミー賞作品をどんどんやってくれるありがたいWOWOW。その流れで、昨年の長編アニメ映画賞のこの作品もありがたく録画させていただきました。前回の『アンブレイカブル』でアメコミのヒーローについて語ったあとに、なんでスパイダーマンなんだと、書きづらくてしょうがないです。

 スパイダーマン映画初のアニメ化ということもあり、アニメ映像は本当に美しい。「コミックの世界を歩いているかのよう」というコンセプトが完全に再現されている。そういえば、「バクマン」の映画もそんな感じだったけど、アニメ映画の分その感じがより強くて、「映画館で観てればよかったなあ」って思うほどの大迫力がテレビからも伝わってきました。コミックの手法を映画に落とし込み、最初の10秒を作るのに1年かかったらしく、製作技術を特許申請してるってこだわりっぷり、それだけでも一見の価値はあるよね。

さて、「スパイダーマン」と言えば、最初に映画化された、あのシリーズから、「アメイジング」シリーズ、さらに「ホームカミング」シリーズとたくさん出すぎて、そして設定がちょいちょい変わるせいで、原作を読んでない僕には「どれがほんとのスパイダーマンなの?」って疑問が毎度起こるんですよね。さらに、今回はそれをアニメにしちゃってる。そして、なんと今回はそこにさらに「スパイダーマンたち」がたくさん出てくる。もうわけがわからない。しかも、これは原作ストーリーではなく、スピンオフ的な位置づけなんだって。

で、今回の「スパイダーマン」の主人公はひょんなことから、スパイダーマンになっちゃって、敵が個人的な理由で次元を行き来したいらしくて、その力の影響で異次元からたくさんのスパイダーマンがやってきて力を合わせて戦うってストーリー。他の次元のスパイダーマンは、この次元のスパイダーマンと少し違って、ちょっとおじさんだったり、女の子だったり、豚だったり。なんでそんなことになってるかはさっぱり。

今回の肝は、スパイダーマンがたくさん出てくるんだけど、本当のスパイダーマンは出てこないってところ。みんなスパイダーマンっぽいんだけど、例の映画の主人公のような「これぞスパイダーマン」みたいなのは出てこない(正確には出てくるんだけど)。中身の性格も違えば、能力も違うし、マスクだって違う。みんなスパイダーマンじゃないんだけど、でも、みんなスパイダーマンなんだ。

これってすごく面白い。僕はこれまでの映画のせいで「スパイダーマン」というキャラクターがなんとなく根付いていて、それでも映画によって描き方が違って、一体スパイダーマンってなんなんだって思ってたのに、それでも「スパイダーマンとはこういうものだ」って決めつけていたんだなあと。最初は「これスパイダーマンなの?」って思うのに、中盤からは「みんなスパイダーマンなんだ」って思うし、最終的には「君もスパイダーマンなんだ」って終わり方をしてくる。

結局、「こうあるべきだ」ってのをなんか勝手に決めつけるんだよね。イチローがメジャーで内野安打を量産したときに、「そんなの野球じゃない」って叩かれたりしてたけど、あれだけの結果をだした今となってはそんなこと言う人はほぼいないんじゃないか。自分の信じることをやってれば、それは個性になるし、それがどういうジャンルに分類されるかは後から周りが決めることなんだなあ、と。この映画の中のスパイダーマンたちは自分が「スパイダーマン」だとは思ってないんだよね。ただ、何かしらの目的のために戦ってるヒーローなんだ。「スパイダーマンになろう」としてるわけではないのよね。ただそれを「スパイダーマン」と決めてるのはこっちの都合。別に世界が救えれば彼らは「スパイダーマン」でなくてもいいと思っているはず。例のよく言われる手段と目的の違いだよね。

ちなみに、「スパイダーバース」って原題は「into the spider verse」なんだけど、「spider」は蜘蛛、「verse」ってのは「韻」「詩」。英語における「詩」ってのは「韻」を踏んでいることが前提。つまり、似たような音だけど意味の違うものの集まりでひとつの世界ができあがっている。まさに今回の映画そのものだよね。

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