時計台

【東京五輪マラソンコースあれこれ(2)】 時計のサイズを間違えた札幌時計台

北海道大学の前身、札幌農学校教頭のクラーク博士は、有事に備えた軍事訓練の授業を行うための演武場(体育館)の建設を提言。明治11年(1878)10月に完成したのが現在の時計台(旧札幌農学校演武場)です。

実は、完成当初はシンボルの時計がなく、小さな「鐘楼」が屋根の上にあるだけでした。完成式に出席した黒田清隆開拓長官のひらめきで、急遽、鐘楼に時計を設置することが決まったといわれています。

農学校ではさっそく、ニューヨークのハワード時計商会に時計を注文。しかし、翌年札幌に届いた時計は予想以上に大きすぎて、小さな鐘楼には取り付けられないことがわかったのです。「黒田長官が激怒した」という記録が残っています。

議論の結果、完成から間もない演武場の鐘楼を取り壊し、時計のサイズに合わせた大きめの塔を新設して時計が据え付けられました。明治14年(1881)8月、演武場の時計は動き始めました。

時代は下り、昭和30年代に札幌を訪れた放浪の画家・山下清画伯は、時計台を見て「頭でっかちだ」と感想を漏らしたそうです。長年見慣れた我々は特に疑問を感じない時計台の姿ですが、やはり建物全体の大きさと時計塔部分のバランスがおかしいのでしょう。

周囲をビルに囲まれており、「日本三大がっかり名所」と呼ばれることがあります。中島公園や円山公園への移転が検討されたことがありましたが、当時の市民からは反対意見が多く、昭和41年(1966)の市議会でこの場所での永久保存が決定しました。

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