映画「チワワちゃん」の感想(その5)~青春の爆発と終わり
この映画のテーマは、「青春の爆発と終わり」であるという。
ミキは青春の終わりを直感していた。
ミキは、青春が終わることを自明としている。
そして、「わたし達」は、ただ時間の過ぎるのを待っていることを選ばなかった。
自爆して終わらせたのだ。
自爆の代償は、わたし達の青春である。
なぜ自爆しなければならなかったのか?
青春が終わることを直感していたから、ぐずぐずとフェードアウトすることを避け、青春を鮮明にするため?
いや、わたし達に明確な意思は無いように思う。
ただ、そうしなければならなかった。
なんだか分からないけど、そうせずにはいられなかった。
カツオは「ゴールドラッシュみたいだった。」と回顧している。
やがて終わりがくるのに、目の前のことに集中して突き進んだのだ。
結局、チワワちゃんが何をしたかったのかは分からない。
チワワちゃん自身も分かっていないだろう。
チワワちゃんは死んでしまったし、ゴールドラッシュ(=わたし達の青春)も終わった。
もう起きてしまったことは、もう起きてしまったことなのだ。
問題は、それをどう受け止めて、どう前へ進んで行くかだ。
この映画は、わたし達は青春の終わりのその先をどう生きるかを問うている。
そして、同時に映画を見る私達に対しても、その後どう生きているかが問いかけられているのである。
チワワちゃんは、私達に現実を突き付ける。
世間で話題となったチワワちゃんの殺人事件は、シンガポールでのテロ事件により世間から忘れられる。
しかし、わたし達の青春の爆発もプライベートなテロであったのだ。
ラストシーン
ラストにチワワちゃんが駆け抜けて行く幻影が強く印象に残る。
なぜか?
チワワちゃんは、振り返ることなく、ただただ前を向いて純粋に“走って”いた。
笑顔で。
一方、600万円を強奪した後、他の者は、追っ手を気にしながら、振り返り振り返り、“逃げて”いた。
最初はみなチワワちゃんを追いかけて、一団となって走り出したが、次第にバラバラになっていった。
わたし達の青春も、出身も目的も違う仲間が、東京という街で一瞬、交錯し、並走していただけだったのだ。
全力で走ることは、全力でそのときを生きること(=青春)を象徴しているように感じる。
走る理由や目的地ではなく、走ること自体が目的になっている。
わたし達の中では、チワワちゃんだけが、死んでしまったことにより青春のまま、永遠に走り続けている。
わたし達は、チワワちゃんを忘れることはないだろう。
東京湾からの帰途、夏の貸し切りバスとは対照的に、それぞれ思いにふけりつつ、みな黙って車に乗っている。
本名を明かしたからといって、わたし達の絆が深まるということもない。
同じ車に乗っているが、チワワちゃんの幻影を見たのはミキだけだ。
でも、わたし達の関係は、以前とは何か違うはずだ。
わたし達は、もう二度と会うことは、ないかもしれない。
そして、わたし達は、徐々に忘れてゆくだろう。
そして、わたし達は、決して忘れないだろう。
「チワワちゃん」は、「わたし達の青春」の謂いなのだ。
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