映画「チワワちゃん」の感想(その3)~なぜ、動画を撮ったのか?

チワワちゃんを追悼するために集まった埠頭で、わたし達はビデオを撮影する。
なぜか?

永井君とチワワちゃんとの約束を果たすため?
永井君がビデオを撮るきっかけになったかもしれないが、それは本質的な理由ではない。

ビデオでは、それぞれが本名・年齢・職業・出身地・チワワちゃんとの思い出を紹介する。

なぜ、今さら本名を名乗らなければならなかったのか?

これまで本名すら知らない間柄であったのに。

それは、これまで匿名でチワワちゃんと付き合っていたのを、改めて本名の自分自身として振り返り、過去の自分を確認したかったのではないだろうか。
過去の自分、つまり自分の青春だ。

ミキが語るチワワちゃんとの話は、「チワワには3万円貸しました。」と、
どうでもいい内容だ。
他のみんなの話も些末な話だ。
語られるのは、感情ではない事実だ。
喧嘩して勝ったとか、チャイナドレスをもらったというような
単なる事実が語られるのみだ。
それが何だったのかという心の整理は、まだみんな出来ていない。
いや、ひとつひとつの事実としてしか語ることの出来ないものなのかもしれない。
好きだったとか、嫉妬していたというような感情は、まだ整理することが出来ないのだ。

だから、(その1)で引用したミキのセリフも悲嘆にくれたトーンでも、悲しみを押し殺したトーンでもないのだ。
ただただ、ニュースを読み上げるようにニュートラルなトーンなのだ。

ただ、わたし達の中で最後にチワワちゃんを見たクマだけは、感情を語っている。

「チワワさんのことは…きれいな人だと思います。生きていて欲しかったです。もっと。」

それは、クマが、青春のバカ騒ぎを終えて落ち着いたチワワを書店で目撃したからだ。
わたし達の過去の青春から一歩踏み出したチワワを知ったから、自分の過去の一部ではないチワワを認識し、素直な感情を持てたのだと思う。

なぜ、動画を撮ったのか?

表現は他者を想定している。
誰とも確定されない他人の視線にさらされること。
しかし、それは実は他人に投影された自分自身の視線にほかならない。
だから、重要なのは、今はまだ整理できない感情を自分自身のために忘れないように確認することなのかもしれない。

このビデオは、作品として公開することは想定されていないだろう。
あくまでも私的な記録だ。

そして、ビデオとして撮影することで、一対一の匿名性の関係から、実名の本当のわたし達の関係として捉え直したかったのではないだろうか。
わたし達には、一対一の匿名の関係の青春を再構築する作業が必要だったのだ。
あたかも、バラバラにされたチワワちゃんを一つに繋げるように。
それが何であったのか確認するために。

「…また みんなに逢いたいな…」

チワワちゃんもそう思っていたはずだ。

ビデオを通すことで、個々人の視点が、俯瞰的な視点へと切り替わる。
それは、ミキが、それぞれからチワワちゃんの情報を聞いて回り、雑誌記者がチワワちゃんの記事をまとめたことと重ね合わせることができる。

しかし、チワワちゃんについて取り上げた雑誌の記事は、結局ありふれたもので、何の話題にもならなかった。
世間からすれば取るに足らない物語だったのだ。

しかしながら、当事者にとっては、複雑で特別な物語だ。
「わたし達」の青春は、入り組んでいて複雑な、しかし同時に、よくあるありふれた青春だったのだ。
つまり、これはいつの時代の、誰の物語でもあり得る。
それがこの映画の魅力だろう。

・・・(その4)へ。

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