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河村たかしの問題〜地方自治の未来〜

■はじめに
本記事は河村たかし名古屋市長の市政を批判するものではない。何故なら私は名古屋市民ではないからで、名古屋の行政を批判し改善を臨むのは、名古屋市民である必要があるという考えのもと、ではなぜ河村たかしなのか?を読みとってほしい。

1.金メダルかじり事件に見る様々なこと
オリンピックのメダルをかじって幸せを演出する行為は、シドニー五輪の高橋尚子選手ぐらいからメジャーになったような気がするが、一応世界的にはもっと様々な選手がその前からやっている。有名なのはソウル五輪水泳の男子200メートル自由形で金メダルを獲得した、オーストラリアのダンカン・ジョーズ・アームストロング選手は有名である。日本人では96年アトランタ五輪柔道の中村兼三選手だそうだ。

しかし、だから当たり前の行為なのかと言えばそんなことはない。なぜならば、多くは選手が大喜びし、その計り知れない嬉しさの表現として、このメダルは偽物ではないと主張する為にやっているからだ。

オリンピックでメダルを得ると国に戻って贅沢に暮らしていける、今の生活から家族ともども幸せにしてあげられる、だからこのメダルが偽物でたまるかという表現方法の一つなのだ。しかも頑張った選手やコーチなどのサポートチームの特権である。

このメダルを噛むという行為は、平成10年代に日本では高橋尚子選手が記者からのリクエストに応じて噛んだ事がテレビで数多く報道されたことから、他の大会や地域の小さな大会でも、数多く行われ、一つのブームになった。

河村氏は、それを一時期のブームと認識せず、その20年以上の今でも大衆文化で、大勢に受け入れられる事と意識していたと思われる。

さらに「お茶目な人」という印象も狙っていたかもしれない。なぜならば彼は昭和世代の人で、とても平成10年のブームを推進する人では無かったと言う事が容易に想像できるからだ。

年齢の行った人が若い人のモノマネをすることは、よく「かわいい」と言われる。従ってそれは正解なんだと勘違いする世代は多い。

このように河村たかしが後藤選手の金メダルを噛んだ行為は、その場で思いつき、他からのリクエストもなくやったパフォーマンスで、計算は稚拙で、まさかそのあと様々な人からバッシングを受け、トヨタに謝る羽目になるとは全く考えてない行為で、キャバクラ等でチヤホヤされた人がそのノリで日常に受けないジョークを持ち込むタイプだと言える。

2.市長を囲む環境
市長が自己スタイルを押し通し、またくだらない冗談で失敗するのは、概ね日頃の周囲の人間関係に問題がある。簡単に言えばシンパ忖度者しかいない証拠でもある。つまり裸の王様なのだ。

それは、けして名古屋市長だけの問題ではない。各地でそういう「リーダー個人の考え」で行政を勧めている地方自治体はよく見ることができる。

大抵はその問題以外の日常は「愉快な人」というフランクな印象なんだろう。

そりゃそうだ。

なぜならば褒める人しか周りにいないからだ。

人はそういう環境に入ると物事を深く考えなくなり、思いつきに自信を持ち、陽気でシャレをよく言うようになり、他人からさらに好印象で迎えられるようになる。そしてホイホイとお願い事を受け取ったりするのだ。

ほんとに勉強し、自分の知識を常に更新してない人ほど、正義を語る事は多く、自己捻出の考え方に固執する。

この現象は地方自治体にどれだけの影響を与えているか考えない地方自治体の根深い問題点だ。

本来、地方自治体の役割とは、インフラ等の状態を常に安定に維持し、市民が安心して暮らせる状態、或いは市民の新しいアイデアが生まれ育ち安くする状態の確保をすることである。

その基準をもってイエス・ノーをはっきり言える人を周りに置いとかなくてはならない。節約ばかりをどんなに唱える人でも、またネットや口コミから他の地域に勝るアイデアを持ち込む人も、そんなに重要ではない

そしてこうした環境は市長の周りにだけ作ればいいと言うものではない。自治体が組織を持つときは、組織としてそこに「長」がある限り必ずそうした環境で作るべきなのだ。

3.金メダル噛みに見えるもう一つの問題点
河村たかしは選手ではない。選手以外の人物として公式な記者のいる場でやったのだ。これがどういう意味なのだろうか。

そこにあるのは、「一瞬、自分だけの世界に入り込み、周りの気持ちや表情は一切気にしていない」と言う事だ。

例えばやろうとした瞬間に、当の選手の顔を気にしていれば、びっくりした顔が目に入る。また、一言「噛んでもいい?」と聞いたなら賛否様々な声も聞こえよう。
そうした周囲に真っ暗になる人は、必ず普段の行いに出てしまう。

果たしてそういう人が多様な市民の声をちゃんと聞けているのであろうがと言う事は甚だ疑問だ。

市民の声に限らない。市長という立場から、下の部署などから様々な報告や提案なども上がってこよう。それすらちゃんと聞けているのだろうかと感じる。

政治家という職業は人の言うことをちゃんと聞き、自己の考えを精査する仕事である。

まず周りにチヤホヤする人しかおらず、しかも人の声を聞けない人が、政治をしていると、それがどんなに恐ろしい事になるか。

まさに巧みにそうした価値観を具現化した例がヒトラーである。

大きな都市の市長や知事は何万人にも及ぶ多様な人と対峙しなくてはならない。現実的には無理だから、その為に組織をもち、自分の代わりに聞く。自治体職員とはそういう立場でもある。

これもまた、現在の日本の自治体に欠けているフシが散見される。

生活保護の対応姿勢等で最近はよく行政幹部の意に反した行為とニュースに取り上げられる。つまり「どうせ市長や知事には届かないから自分たちのノルマだけこなす」という思いである。専門家はそれをガバナンスという。

しかも市長や知事には職員を通した「又聞き」である。その又聞きもきけないと言う事がいかに民主主義では無いか、多くの有権者は考えなければならない。

4.解決力
市長や知事に求められるのは、議論する事ではない。また議論を推し進める力でもない。議論をする人は議会と言う別の機関の役割だ。
市長や知事はそこでの議論をしっかり聞く義務はある。しかし、求められる真の役割は、解決することである。

その能力がないとその地域が潤う可能性は限りなく低い。

今回トヨタに謝りに行き、なんらかの手紙を届けたことが、問題解決になったなら、河村たかしの文章力は大したもんで、解決能力は優れたものと評価出来よう。

しかし、結果がどう出るのかはトヨタしか知らず、その評価を新聞などに伝え聞くこともない。
つまり解決能力はけして高い人と論じる事は出来ない。

これが今回に限ったことなのであれば「まあいいだろう」とは思うが、
他でも繰り返している可能性は高い。だいたいの人が自分の能力の無さを自覚しないからだ。

自分の能力の無さをちゃんと自覚した人は、実は、誰から見ても好かれる。そしてその能力を補佐してもらえる。

また他の分野に自分が能力を生かせる分野を見つけ出して、いかんなく発揮する事もできるようになる。

とくに市長や知事はそうあるべきなのだ。己の思いと己の能力は必ずしも一致しない。そこにこそ、実は自治体の組織の存在価値があり、その組織を率いるリーダーシップが存在する。

5.自治体の未来像
自治体行政の本来の役割は前出した。その中に「市民の新しいアイデアが生まれ育ち安くする状態の確保」と書いた。これはどういう事なのか。

私は、行政においては、「失敗を不安にさせない事」と思う。成功へと導く事ではない。

アイデアの殆どが民間で生まれる。そしてそのアイデアを実現するのも殆どは民間である。さらに、そのアイデアに投資するのも民間である。ここまでに行政がでてくるのは、法的な認可行為だけである。

次にうまく行かなかったとしよう。その場合、投資は引き上げられ、それによって資金ぐりはうまく行かず、そのアイデアの下で働いてた人は切り捨てざるを得なくなる。そして大きな負債を抱えることになり、完全に自己資金は底をつき、悪い評判も湧き、立ち上がれなくなる。

これを救えるのは民間ではできない。
そんなときに行政である。

そのためのセーフティネットなのだ。しかし、セーフティネットでは、生活を維持する事はできても、新しくビジネスを立ち上げるまでには行かない。
今度はうまくいくかも知れないに賭けられないのだ。

なぜ?それは失敗した民間に味方が無くなるからだ。

自治体の未来はそんな事をいかに支援できるかというものにかかっている。

もし、一度破れてもまた立ち上がれる社会がそこにあったらどうだろうか。
諦めずに立ち上がろうとするのが人の心なのでは無いだろうか。

幸いにも起業に限れば、そこには民間の応援団体があり、再起させる事はできる。だがそれは起業に限定した事でかつ条件を満たした一部のケースだ。

その他の事はほぼ誰にも手助けはされない。特に顕著なのがNPO学生研究活動だ。

クラウドファンディングが支援を集める事も最近は多いが、実はかなり多くが成立せず、またクラファンの仕方を研究できた人だけである。

行政には多彩な地域の情報が集まる。従って、ちゃんとその情報を結びつける事ができれば、自治体行政にはクラファン以上の確実な情報があるので、多くの人に必要性が生まれる。

投資家やクラファンだけではないマーケットを絞った手堅い手法も見つかる。

無論、ここぞというものへ行政自身が予算投資してもいい。

しかも、行政側から積極的に発信できればなおいい。

こうした事が自治体がこれからの役割を担うことで、誰もが立ち上がりやすくなる、または新しいアイデアを生むことができるようになるのだ。
そのためにも「判断する」「聞く」「知識を更新する」と言う土台はいかに大切なことか、わかるであろう。

■さいごに
河村たかし市長は、バカだと批判することは簡単だ。
しかしその向こうに市民が大勢いる。彼が選ばれた公職である以上、彼を誹謗することは、そんな市民も誹謗することである。

かといって批判するなという事でもない。

問題点はなにか、そこをどういう目的と価値基準をもって改善できるかを追求して、はじめて批判に意味が生まれ、その先のなんら特別なことをしていない市民を侮辱しないで言葉を用いる事ができる。
多くのメディアや批判者に私はそのことの重要性を問いただしたい。

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