写経にいってきた

五反田駅から徒歩数分、ビルが民家に代わったところで見えてきた坂を上り、背の高い木々に囲まれた一画へ向かう。入り口に回り込むと飾り気のない建物が現れた。覗くと仏像が見え、芳しいお香の匂いがする。我々は薬師寺東京別院に来ていた。

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ということでぱたぱたと写経をしてきました。広く静かな御堂で般若心経のお手本に半紙を重ね、墨を磨り、小筆でひたすらなぞり書く。書く。磨る。書く。初めは滲んだり掠れたり不安定だった筆致もだんだん安定して、何度も出てくる「無」の字は少しずつ上手くなって、なかなかバランスが取れなかった「氵」も最後はそれなりに書けた。そんなこんなで自分の字に「おっ」とか「ふふふ」とか思いながら書いていたらあっという間に2時間少々が経っていました。

こうして目と手を使って墨の香りと静けさを感じて、五感のうち四つにも働きかけられるとなかなか他のことは考えなくてそれが良いです。まさに没頭。頭すっきり。

そして特におもしろいと思ったのは内容の理解が不十分でも書くこと自体に意味があるという発想でした。しかも何度も書くことに意味がある。いや考えれば写経はそれでも思想に触れているけれど、お寺参りもお墓参りも思想を学ぶことはなくて行動することが意味になってるか。忠誠心というと西洋の香りがするけれども、似たような信仰の気持ちとか、それを行動に示す行為それ自体にどうやら意味があるらしい。

そういえば徳を積むという言葉もある。今の日本ではあまり聞かない気がするけれど、東南アジアについて学んだりちょっと住んだりしてみると多少の実感が湧く。天候や病気などなどなど、自分に非がないのに降りかかってくる悲しみに対してただ指を咥えているよりは何か行動して貢献せんと努める方が、心持ちが良いのかもしれない(主観的所感)。

悲しみとの向き合い方でいえば、人が死んだときなどその最たる例だ。仏式なら黒い服を着て数珠を持ち、並んでお焼香をして手を合わせる。どうしようもないとわかりつつ、やりきれない感情が溢れるとき、やることが決められているのはなんだか助かる。大きな悲しみと対峙している人はほぼほぼ冷静な頭で動けないから、儀式があってどう振る舞うべきかが決められているのはありがたい。強い悲しみと混乱のなかにある人を野放しにしない優しさのような気がする。


そして、死に限らず世界は悲しいことが溢れてタプタプしている。でも儀式の型のなかで振る舞うときは、カンジキを履いているような格好で沈みきらずにいられる。そうして悲しいことから上手に距離を取る力が幸せになる力なのかなと思ったり(でもやっぱり思わなかったりもする)。

幸せになる力。今世で幸せになるため、来世で幸せになるため、理由や条件はいらないと思う人もいるかもしれないけど何かして力を得ねばならないと思う人もいる(何しても無理と思う人もいるしそれ以外もいるかもしれないがさておく)。2番目の努力必要型人間に、幸せになる理由みたいな、ゆるしみたいなものをくれるのが宗教の役割の1つだと思う。これをやったから私は幸せになれるはず、なっていいはずという感覚。別名:自信。

(ならば、安易に並列に挙げるものじゃないかもしれないけど、オプションには勉強とか美容とか筋トレもあるかもしれない)

でも努力が必要といったって辛いことが必要なわけじゃない。たとえばチベット系の仏教寺院にはマニ車なるものがあった。中にお経が納められた回転筒で、回すだけでお経を唱えたことになるらしい。そんな都合の良いことがあっていいのかと思うけれども、あっていいのだ。やることに意味がある。私も見つけたときはその中身がどんなお経かも知らずにぐるぐる回した。とりあえず回した。精神論かもしれないけれど茶化す話でもなくて、幸せになる方法はいっぱいあるのだ。いやぁ、ありすぎて迷っちゃうな、幸せになれちゃうなー。

さて、ぱたぱたは写経して何を考えましたのでしょうか。

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さりいへ

わたしは、写経をすることによって何かこれを考えたな、ということはふんわりとしかなかったので、日記みたいな調子で体験したことを綴っていこうと思います。

さりいが書いていたように、五反田から徒歩数分のところにあるお寺で写経の体験をした。駅から大きな道路を渡り、少し歩いたところに、両脇が公園の坂がある。それをえっちら、おっちらと歩くと、抜けた先が急に住宅街じみてきて、この唐突な変わり方、東京だなぁ、というのが感じられます。
その、住宅たちの中につるんと四角い感じの建物があり、それがそのお寺でした。

中に入ってみると、公民館みたいな中途半端な公的空間っぽさがあるが、お寺っぽくはなくて、変な感じだった。しかし、窓口にはお坊さんがいて、間違いなくここはお寺だなという安心感を得る。
やさしい口ぶりだが淀みのない口調でお写経(お坊さんがお写経と言っていたので真似をしてみた)の道具について説明をしてくださる。
その話ぶりから伺うに、何度も繰り返しているので、この説明はきっと諳んじられるのだろうな、と思い、たまに道具から目を浮かして、そのお坊さんの目を見て話を聞く(説明しなれている人は、その説明する道具には大して注意を払わずに、説明する相手のことを実はじっと見ていると最近気づいたので)。
丁寧な口ぶりにどことなくよそよそしさを感じていたが、墨をしっかり磨らないと滲むので気をつけてください。だから、たくさん水を出すと「めっちゃ」墨を磨るのに時間がかかりますから、少なめの水で、と言っていて、その「めっちゃ」に人間を感じくすぐったくなる。

ともあれ、お香を跨いでお写経をする畳張の部屋に入る。跨ぐというのは、何となく罰当たりな気がして、跨いではいけませんと言われるのかと思っていたので、跨いでくださいと言われ、へぇ、と思う。お香で身体をお清めするらしい。なるほどな。
お坊さんの説明曰く、大きなお寺で煙を身体にかぶる行為と同じようなことらしい。

席を選ぶのにも、机の上の物を手に取るのにも、これはこう使って、と準備をするのにも、初めてのこと特有の緊張感がある。俗っぽくて申し訳ないが、立ち食い寿司に入り、自らの立ち居振る舞いに迷う時の感覚に近い。見よう見まねでやる。

書く前に読むためのお経は声に出さなくていいのかな、とか、この紙の裏に書いてあるものは何かな、とか、あれこれわからないな、と思いつつ、ちょぽぽと水を硯にさし、しょりしょりと墨を磨る。書写の時間では墨汁しか使ったことがなかったので、これが墨を磨るということか、と思ってしょりしょりしょりしょりする。

そろそろかな、と思っていざ紙に書いてみると、えーっほんとだめっちゃ滲む! お坊さんの顔が脳裏に浮かぶ。
もうすこし磨らないと、と思ってまた、しょりしょりしていると墨の香りがマスク越しにふわぁとしてきて、あ、ここまで磨るのか〜〜と思う。

めっちゃ滲んで焦ったものの、綺麗に上手く書くのが大切なのではなくて、お経の言葉としっかり向き合うのが大切ですからね、と教わっていたので、気を取り直してしばらく書いては、机に置いてあった訳文を読み、そういう意味なんだ、と思っては書き、を繰り返す。
このまえ、ひらがながたくさんの小説を読んだときに、この文体によってゆっくり読まざるを得ないからこそ、よりビジュアル的に感じられるのかも? などといろいろ話をしたのだが、写経もそうなのかもと思う。
お経の文字をなぞる速度でしか読むことができないので、その言葉の上を軽く通り越すことができず、その文字の一粒一粒にゆっくり滞在しながら、体感するように読むのである。

そんな感じで、あれこれ考えながら読んで書いてしていたのが、だんだんと疲れてきて、何も考えずに黙々と書くことに集中し出す。
なるべく姿勢を良くしようと思いつつ身体を緊張させながら書いているので、首の根元から肩にかけて突っ張ってくる。黙々と書く。

お写経の部屋には、慣れた感じの人が結構いて、これを習慣にしているのかなとか、そうだとしたらどういう経緯で始めたんだろうな、とか思う。
もしわたしが習慣的にお写経をするとしたら、たぶんそれは治りにくい、生活や命に関わる病気に、自分や自分の大切な人がかかった時だなぁと思う。

そう思ったのは、写経というのは幾度も行い、幾度も納めるもののようだからだ。写していく紙にこれが何巻目かを書く欄があるのだけれど、自分の紙を納めるときに、わたしの前に納めた人のをちらっと見ると、その巻数はとても多かった。
千羽鶴を折るとか、お百度参りをするとか、そういう何度もやること自体に意味がある行為なのだ。なるほど。ある意味その行為が祈りのようなものなのだろうなと思う。

試験が終わってから、合格発表までの期間の、何もできないけれど落ち着くことができない期間のように、自分でどうこう出来ることではないが、自分にあまりにも関係のある出来事には、心がかき乱されやすい。
さっき挙げた病気なんかはそういうものの最たるもののように、わたしは思っている。そういう時、ただ耐えるか、人と話をするか、みたいな中に行為を反復する祈りも入ってくる。
緊張した時に、しきりに服の裾を掴んで引っ張ってしまうような行為とかに、意外に近いんだろうな〜と思いました。

実際の行動を文にすると、手紙じゃなくて1人語りになっちゃうわ〜って今回気づいた…!
でも、考えてることは結構似ていた部分もあったな〜と思いました。

ではでは〜。

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