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自由、平等および倫理の一般理論

プロローグ

自由・平等・倫理とは誰しもが聞いたことがあるごく当たり前のものであるが、我々は彼らに理想を求め、時にそれらを巡って大量の血が流されることもある。
しかし、誰一人として彼らを具象として見たことがない。それもその筈、彼らは実体を持たず事態としてのみ存在する概念なのだから。
そうは言っても彼らを侮れない、「自由・平等」は我々が生きる現代国家の礎であり、「倫理」は人間の歴史の流れを根底で動かしてきた動力そのものである。
勿論過去の偉大な学者や思想家は自由・平等・倫理について説いてきた。ミルの「自由論」やアリストテレスの「ニコマコス倫理学」などである。だがそれらの多くは「こうあるべき」を説く理想論や概念の表層的な部分のみ述べた理論であり一般理論というものは打ち立てられてこなかった。
よってここに人類の核となる概念である自由、平等および倫理を包括的に考察していくことは大きな意義があると思われる。
そして、この一般理論が人間をまた一歩前進させるのである。

一章

自由とは
自由の定義は二つある。
「他からの束縛を受けずに自分の思うままに振る舞えること」という負の定義と「自らをもって由となす、つまり自分を行動の理由にすること」という正の定義である。
これより自由とは正の自由と負の自由があると考えられる。
負の自由とは不自由からの解放をもって認識されるもので、故に負の自由は「自由のイデア」を持たず「不自由のイデア」の鏡写しであるということ。
ここで不自由というものを考えるとそれは二種類に分かれることが理解される。
強盗や奴隷所持が許されてないように何らかの権威によって制限された自由が「社会的不自由(精神の不自由)」であり、壁をすり抜けられないなど物理法則によって制限された自由が「物理的不自由(身体の不自由)」である。
次に正の自由とは自分の意志が及ぼす影響をもって認識される。例えば、今右腕を動かそうと思って動かせた時に感じるアレである。これは自由を自由によって認識するため「自由のイデア」を持つと言える。

正の自由と自由のイデア
意志とは実体のない概念であるためその存在は理性(精神)によって認識される。故に正の自由、つまり意志による影響を身体が理解できるわけがなく、身体はストレスからの解放として負の自由を感じるかもしれないが正の自由を感じることはないということを示す。要するに正の自由は精神(理性)の専売特許なのであり身体(感性)は自由のイデアを持たないということである。
正の自由についてもう少し考察する。
正の自由は自身の意志による影響をもって認識するが故に自分自身に思いを向けることで認識することができる。人との関係ではなく自分との関係から得れるのである。よって周りにばかり意識を向け自分との関係を無視することは正の自由の退廃を意味するのである。

隷従と自由
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」で述べられるように我々は隷従を求める傾向も持っている。ここからはそれについて考察していく。
自由とは概念である。概念とは発達した言語にしか現れないものである。三角形の概念を想像できるものはいない、なぜなら想像した途端それは具体的な三角形の一つになるからだ。この場合三角形の概念とはその定義となる。このように意識上に現れる概念はすべからく言語なのである。
よって自由とは言語発達して以降のものでありヒトの歴史から見ると大変新しいものだ。意志や自制が生まれるまで、つまり自分の状況を客観的に見ることができるようになるほど知能が発達するまで生物は遺伝子(本能)に従って生きてきた。
要するに生物は遺伝子の奴隷であり生物の基本状態は隷従にあるのだ。よって隷従とは我々の紛れもない一性質と言える。
自由とは人間としての性質であり、隷従とはヒトとしての性質だと言えよう。

自由という観点からの弱肉強食
自然界、つまり社会的不自由がない世界において弱肉強食が摂理であることは誰もが知ることである。しかし、これは自然界だけでなく権威による自由統制のない人間界、即ち自然状態における人間界にも当てはまるのである。
初めに労働のジレンマという原理を説明する。これはマルクスの述べた資本主義における労働者搾取の原理を自由の観点から捉え直したものである。
まず労働者は経済市場に自らの自由を売ることで報酬を得る。それは勤務時間の間の拘束状態を考えてもらえばわかりやすいと思う。しかし、報酬の大小とは当事者の責任の大小に起因する。部を統括する責任を持つ部長は自分の仕事にしか責任を持たなくていい平社員よりも給料がいいのは当然だ。そして、責任とは自由の副産物であるため自由が大きいほど報酬が高くなるという帰結に着地する。
これは大きなジレンマで労働者は自由を売ることで自ら相対的貧乏になっているということだ。
次に競争原理というものをあげさせてもらう。競争原理とは例えば一度アイビーリーグを卒業することで高収入の職につくことができて自分の子供にはさらに高い教育を受けさせることができ富の形成を磐石なものとすることができるようなもので、勝つことで強者になれ強者となることでさらなる競争優位性を手に入れるというものである。
これらの原理は自由は経済的強者と経済的弱者の差は広げる性質を持つことを導く。

自由の均衡
これまで考察してきた自由の性質からここからはいかに自由が流れ管理されていくかについて考える。
自由過ぎても社会に不利益があるし不自由だからと言って社会に利益がないわけではない、自由も不自由も絶対的に快・不快に分かれるものではない。
相反する概念は両者が絶対性を持たない場合、最善を目指して両者は均衡を探るのであるから自由と不自由は均衡運動を取ることが導かれる。
そして、均衡の取り方は二種類ある。
「均衡主義的自由」は自然のメカニズムに従えばいつか最善な均衡に到達するという考え方で、例えば感染症の蔓延で国が一切自由を制限しなくても感染者・死者が溢れかえって自然にみんなが自分の行動を制限するというもの。
「権威主義的自由」は権威が手を加えることで最善な均衡を達成するという考え方で、例えば感染症の蔓延で国が感染状況を鑑みて積極的に国民の自由を制限するというもの。

自由の管理
「他人の自由を侵害しない限り自由は保障されるべき」という考え方は生きることで他人の自由を犠牲にする為これは理想論に過ぎない。故に自由の行使・抑止は管理されねばならない。
初めに自然のメカニズムによる管理の場合、競争原理により弱者と強者の差が広がり一度弱者の自由が制限されればそれは二度と帰ってくることはない。この状況で均衡を図るためには強者を凌ぐ権威を立てなければならない。
これは最終的に自由が権威により管理されることになるということである。
次に権威による管理の場合、権威による自由の管理とは即ち国民の管理ということで国民が権威を管理しなければ暴政に傾く可能性がある。よって国民・権威・自由がともに管理し合う体制が必要であり、それこそが「国家体制」なのである。

国家体制の図


権威による自由の循環は簡単に述べると
「抑圧による不自由→苦悩・不満→暴発・暴走→権威による是正→自由の促進→自由の過剰→秩序の乱れ・弊害→暴発・暴走→権威による是正→自由の抑圧→繰り返し」
というような自由のインフレ・デフレを経ながら回っていく。ここでもハイパーインフレ、つまり急な自由の享受はリビアのように権威の是正が間に合わず破滅化に進む可能性があり、ヒトの性質は隷従であるため不自由に対する暴走が起こらずデフレスパイラルに陥ることも人類の歴史を見れば多々あった。
このような自由の管理は国家運用の重要な要素である。

自由の観点からの国家運用
自由の観点から行う国家運用については大きく三種類あると考えられる。
「是正型権威主義的自由-Regulationism」は最も一般的に取られている形で権威の目的は集団において最適に到達することであり、一人一人の最適な自由均衡が全体としての最適均衡であるという前提に立つ。
そのため個人に十分な選択裁量権を与えることで自らにとって最適な自由均衡を選択することを促す。国家はここにおいて全体を調節しながらできる限り個人の選択の実現を可能にする役割を持つ。

「集合型権威主義的自由-Aggregationism」は権威の目的は集団において最適に到達することだが、集団の最適均衡は個人の最適均衡とは限らないという前提に立つ(囚人のジレンマがわかりやすい例である)。
そのため例えば強力な愛国心などで個人意識を集団意識と合一させることを促す。この個人と集団の統一により自分との関係は消失し正の自由を享受することはなくなるが、権威は集団において最適な自由均衡を選択することによって同時に個人に対しても最適を達成することになる。

「新均衡主義的自由-Neobalancism」は共通倫理とそれを監視し合う社会があれば権威なしでも自然のメカニズムによって自由を管理することができるという前提に立つ。
一般的な権威による自由の管理は国家など外部に権威を持つのだがそれを倫理として自分の内部に権威を持つというもの。皆から見られているかもしれないという事実と社会圧力を自発的に構築することで社会秩序を保つ(パノプティコンがわかりやすい例である)。だが、正義感と社会圧力という人間の情動に全面的に依存することは「正義の暴走」を引き起こし不寛容な社会となる危険性もある。

これらは三者三様であるが、国家運営の雛形であることは間違いない。

二章

平等とは
平等の定義とは「差別なく皆等しいこと」であるが、生物は基本的に不平等である。人間が二人揃えばその時点で不平等が生まれる。そして、平等とは自由同様に実体のない概念で言語により意識上に現れることに加えて言語は二人以上の存在がなければ成立しないものである。
よって人間にとって不平等は平等に先行した概念であった。これは平等が不平等から認識されるという性質を表し、平等はそのイデアを持たないということに導かれる。
したがって、真の平等の達成は不可能である。ではそれにもかかわらず平等を目指す目的とは何か?それは倫理と平等の神性である。
そして、次に平等とは性質上二種類あることがわかる。表現の自由の平等や学問の自由の平等のような自然状態において存在する平等である「自然平等」と経済活動の平等や政治参加の平等のような自然状態において存在しない平等である「人工平等」である。
これら二つを「平等」という一つの言葉で括ることが平等という概念をこじらせるのである。
このこじらせが招いた矛盾を一つ紹介する。人工平等を獲得すればするほど、それは権威の拡大を意味しており自然平等を侵害する可能性が高まると言うことだ。

平等と神
ここでは平等の神性というものについて考察していく。
多神教における神は万物に宿るという考え方と一神教における神は万物を創造したという考え方に関して、ともに共通する要素は万物には神の精神が宿るということである。よってここでは神は万物を平等に愛する存在であると仮定する。
完全無欠である神は初めは万物を不平等に愛していたが途中で変えたなどということはあり得ず初めから平等に愛していたのである。したがって神は人間とは違い、初めから「平等のイデア」を持っていたと考えられる。
これは平等とは神のイデアであることを示し、人間が神を求めるように平等を希求する理由が理解できる。

自由と平等の関係
自由と平等の関係を述べることはこの一般理論において大きな意義を持つのであるが、それについて考察していく。なおここで述べる平等とは自然状態において存在しない平等である「人工平等」に限定する。
自然状態において社会は不平等であるため、平等を達成するには意図的に外部から社会に働きかける必要がある、つまり権威の力が必要であるということだ。そして、この外部強制は自由の制限を意味する。累進課税による経済的平等の促進とそれが金持ちの財産用途の自由を奪っていることを考えるとわかりやすい。
よって自由と平等は反比例の関係にあるということが導ける。

自由と平等の関係の図


不平等であっても不平等に得をするなら平等を望むことはないことから、平等とは弱者の概念であり自由とは強者の概念であることがわかる。

弱者も含めた自由と平等の関係の図


ここで言う弱者とは相対的に社会で障害の中に生きる人を指すので弱者にとっての自由軸上昇とは自由を受けることではなく不自由を軽減することである。

次に自由と平等の均衡運動を引き起こす要素を考える。
まず倫理がその役目を果たすことは自明だろう。ノブレスオブリージュや喜捨など倫理的根付く慈善志向による平等促進と人間本性における自由の美徳や因果応報などの自由促進の拮抗において均衡運動が起こる。
次なる要素は社会流動性である。自分が弱者に転落する可能性から平等の余地を残す動機が働き自分が強者になる可能性から自由の余地を残す動機の拮抗において均衡運動が起こる。
最後にあげられる要素は闘争である。原始的であるが一般的で偏った自由をそれによって不利益を被った集団が是正し偏った平等に関しても同じことが起こることで均衡運動が起こる。

幸福と平等
平等は常に「不平等のイデア」の鏡写し、つまり不平等でない状態として認識されるという性質を抱えている。これは人間は真の意味で平等の「美」を享受できないということを示唆している。
故に人類は社会を形成して以来一度たりとも完全平等を享受したことはないし平等を最上目的に作り上げた国家はことごとく修正を迫られた。これは社会主義国家の失敗に対する平等の本質的性質からの考察である。
しかし、社会が最上目的に置いている幸福というものに対しての平等の関わり方を考えることは必要であることに変わりはない。

まず人間は不平等自体に不満を持っているのではなく不平等により引き起こされた結果的不平等が与える損害が不満の種であることを確認しておく。そして、結果とは先天的要因・後天的要因・運によって決まりそのそれぞれが不平等性を持つため後天的要因である環境不平等の是正が不平等に対する不満を根本解決するわけではないことも理解される(勿論不満は軽減されるかもしれないが)。
次に幸福は二つの種類に分かれることに注目して考察を進めていく。
幸福の種類とは他者比較によって感じる「相対性幸福」と他者比較を必要としない「絶対性幸福」である。
相対性幸福に関しては不平等が幸福の源泉であり他方の不幸の源泉である。よってこのとき平等は相対性幸福と相対性不幸をなくすものでプラマイゼロのように見えるが、ダニエル・カーネマンのプロスペクト理論よりプラスを得るよりマイナスをなくすインセンティブの方が大きいため、結果平等はプラスサムなのである。
平等が達成されるに連れて問題は絶対性幸福に移ってくる。
まず絶対性不幸が占める平等社会において国民は現状打開を図り自由を求め権威に対して反乱を起こす。そして、自由と平等はその後単振動的な均衡移動を見せ均衡点に帰着する。
次に絶対性幸福の占める平等社会において幸福なら不自由でも構わない人と幸福でも自由を求める人が出てくるが後者は自由により相対性不幸を復活させるため幸福な社会を乱すテロとして追放される。よってここに皆が幸福で平等を愛するユートピアが誕生する。
しかし、これは絶対性幸福の占める平等社会は実現可能であるという前提のもと述べていることで上述のように歴史から見ると至難を極める前提である。

平等の執行と分断
平等を執行するにあたってその方法には二種類ある。
ウィークアップ法とは持たざる者を持つ者と同水準まで引き上げる平等執行の仕方である。これは最低賃金などがあげられる。
ストロングダウン法とは持つ者を持たざる者と同水準まで押し下げる平等執行の仕方である。これは累進課税などがあげられる。
一般的にこれらを組み合わせることで平等を執行するのであるが、ウィークアップ法は不平等に救済しストロングダウン法は不平等に自由を制限すると言う側面も持っている。これに加えて平等執行にあたってカテゴライズすることが必須であるため、平等執行により分断が発生する危険性がある。「金持ちなんだから損しても黙ってろ」「生活保護受給者はけしからん」といったものがわかりやすい分断である。

次に分断の解消について考えていく。
分断解消の本質は相手を理解することではなく相手に対する共感にある。自らの精神の一部を相手に同化すること、つまりカテゴリを超越することで分断を軽減するのである。
ここで平等とは意識の同化、不平等とは意識の分化であると考えることができる。この点から集合型権威主義的自由という究極の意識同化こそが社会における最上の平等達成と考えられる。
補足すると集合型権威主義的自由において精神としての自己は集団に一つのみで肉体は集団を最適に導く一機能となるため複数の精神の存在によって初めて認識される平等という概念はそもそも認識さえないという考察もできる。

人間と尊厳の平等
人間とは理性を備えた存在であり国家とは帰属する人間と人間意識の最も大きな基本単位となる集合体である。よって国家人格とは人間理性の代表である。そして、人間理性の代表である国家が理性ある個体と認めることでその存在の理性は確証される。
次に人間は理性という"自律した精神を持つが故に"尊厳を認められるということから、国家のもとで存在する人間は個人として平等な尊厳を持つのである。
では尊厳の平等とは自然平等なのか、人工平等なのか?
ある国家では人間と認められていないが他の国家では人間と認められるということが概念規定上可能なので完全な自然平等ではなく、国家は人工物であるが人間は社会的な生物であることを考えると自然平等でないとは言えない。
したがって、尊厳の平等とは自然平等と人工平等の中間であると考えられる。

自由・平等の概念規定
人間理性を根本として確立されている現代の国家秩序において理性は絶対であり、すなわち前述に述べた通り個人の尊厳は絶対なのである。それは個人の肯定、ひいては自律意識の肯定を意味する。
自律意識の肯定は自由の肯定でありその延長として個性の肯定がある。ちなみに個性とは自分本来の性質ではなく自分が演じたい役目とそれを選ぶ自由によってなされるものであるため個性の肯定は自由の延長にあるのだ。
同時に自律意識の肯定は幸福追求(善の追求)の肯定でもある。そして、それは幸福追求を著しく乱す場合の不自由を正当化するのだ。ここに自由と人工平等は反比例関係にあることから人工平等は不自由の十分条件(必要条件ではない)、つまり不自由の内包要素であり不自由の箇所を人工平等と言い換えることができるため、幸福追求を著しく乱す場合に人工平等が肯定されると言える。
よって自由と平等の位置付けとして自由は幸福追求を害さない限り平等の上に位置する。

自由と平等の認識
これまではマクロの観点から自由と平等を考察してきたが、自由と平等とは誰の何を持って規定されているかを考えていく。
人間の知覚認識プロセスは「超世界意識→無意識→前意識→意識」という流れで構成されている。
まず超世界意識とは世界の生の情報、つまり認識される世界の素となる情報群を獲得する領域である。世界の生の情報をわかりやすく言えば知覚する世界のイデアや性質(現在性・記憶性・個別意識性・空間性など)を伝える信号である。
補足として現在性とはその世界に含まれるある事態が現在におけるものであることを特徴づけるもの、記憶性とはその世界に含まれるある事態が記憶におけるものであることを特徴づけるもの、個別意識性とはその世界に含まれるある事態があなたやAさんの知覚すべき事態であることを特徴づけるもの、空間性とはその世界に含まれるある事態の空間的特徴。
これに加え超世界意識において知覚されるのはこの世界全体の生の情報であるため、皆が等しいものを知覚している(個別意識性などの性質も付与されているから皆が同じ景色を共有するということはない)。

次に無意識という領域において人間本性や本能、当人の感性による処理を行う。超世界意識から来る情報を人間の意識が解釈できるように処理する。例えば情報に三次元空間処理を施したり時間を持たせる処理をしたり平等のイデアは認識できないため省いたりといった様子だ。

その後、前意識に情報は流れていく。前意識では経験による理性的な処理が施される。ここでイデアに対するノイズが入るのである。例を一つ挙げる。仮定としてパンダが美のイデアを持っているとする。そして、過去にパンダにトラウマを与えられたAさんがパンダと対面したとする。Aさんは過去の経験によりパンダの持つ美のイデアを処理し恐怖の性質に変えてしまう。これによりAさんは美のイデアを持つパンダから恐怖を知覚する。このように経験によってノイズと言われる処理をするのが前意識である。

最後に意識に情報が流れて初めて我々は感覚として意識を持って知覚することができる。
これを踏まえて自由と平等の認識に話を戻す。
まず超世界意識において知覚する事象にすでにそれらのイデアは含まれているが、前意識において経験のノイズ処理が入るため知覚される概念はイデアと大なり小なり異なる。しかし、超世界意識において知覚するものは皆同じなのだから多数の知覚概念を平均することでノイズの影響を中和したイデアに近いものを得ることができる。
よって自由・平等とは大衆意識の平均によって規定される。

個別に深く考察していくと、自由はイデアを持つためノイズ中和を行えば事態から近似的な自由イデアを得ることができる。

自由イデアとノイズの図


しかし、平等はイデアを持たないため、実態は不平等のイデアを持たないという状態でノイズ、つまり経験によって構築された性質でなのである。そして、その事態をノイズ中和しても平等のイデアは現れず近似的に不平等でない状態が見出される。要するに無に帰着するということだ。

平等イデアとノイズの図


したがって平等の規定は「不平等でない」として行われるがその実態は「無」なのである。

三章

倫理とは
倫理の定義とは「人として守り行うべき道理」であり、古くから人の倫理はどうあるべきかということは多く述べられてきた。しかし、倫理というものの性質について述べられることは少なかったため、それを考察していく。

まず倫理とは善悪の判断においての規準であるので善について考える。
最初に我々がある行動を実行する動機、つまり行動動力となる最も基本的な単位とは「快」であり、それは人間精神の希求する方向なのである。そして、善とは意識快と概念快の合算で決まる倫理的アプリオリで人間精神が目指すべきものである。
上記に述べた意識快とは人々の内部にのみ現れる快である。非常に喉が渇いているとき冷たい水を飲むことで感じる快楽がわかりやすい例である。水自体に快の性質を持たせているわけではなく単立した快として自己の内部で知覚する。
次に概念快であるが、これはその事象自体に持たせている性質としての快である。社会においての美徳などがわかりやすい例である。
ちなみに善悪についての補足情報として善は美徳から生まれた概念であるが悪は不正から生まれた概念で起源は異なっているのだ。弱きを助け強きを挫くは美徳であり善だが弱肉強食は自然の摂理であり悪ではないことからもわかるだろう。

話を戻すが善とは人間精神が目指すべきものであるため人間精神は絶対的な善なる秩序、即ち絶対倫理を目指す。そして、誰も意識上に実体を確定しえない絶対倫理への到達過程は弁証法の形をとる。
弁証法により絶対倫理に到達するということは精神はその中に絶対倫理のイデアを知覚しているということ。よって人間精神とは絶対的な善の達成を目指す機関であるが故に価値を持つと言える。
次に歴史を見ながらいかに倫理が規定されるのかを見る。
歴史において倫理の弁証法は個々人の倫理発展の集合ではなく人間精神の集合人格としての倫理発展であり、これは倫理の形は大衆意識の平均によって規定されることを導く。

倫理の流通
次に倫理の伝播性について考えていく。
人間精神はその中に絶対倫理のイデアを知覚するため、より優れた倫理を知ればそれに染まっていき優れた倫理は必然的に支配的になるように伝播していく。しかし、実際は我々のヒト的な要素として持つ恒常性と新しい倫理の拮抗が起こり歴史を見れば止揚に際しては闘争もあった。
そうとは言っても優れた倫理が繁茂することは必然でありグローバル化やテクノロジー化が進んだ現代は情報格差が是正され倫理の統一が進んだ。
そして、倫理の統一は民主主義とは別の方向でも進む。それは独裁国家である。独裁において多様な倫理は統率の妨げであるため入ってくる情報を画一にすることで一つの倫理に誘導することができる。
その他にも現行の倫理は絶対倫理へと向かう最新の秩序であるため、現行の倫理自体に錯覚的に絶対的な善性が帯びることがある。これにより現行の倫理に反する者は善に反する者であるという考えが起こる(事実そうなのだが)。
そして、これらが導くものは「倫理の画一化傾向」である。
しかし、弁証法的発展においてアンチテーゼの存在は不可欠であることから、倫理の派生は禁止されてはならないしそれがどんな派生であれ向き合わなければならない。

倫理と愛
人間精神の到達点である絶対倫理に関して具体的な考察をなすことは大きな意義を持つと考えられ、これから「愛」という観点から考えていきたい。
まず善とは意識快と概念快の合算であるため最高善とは絶対的な意識快・概念快の達成である。そして、概念快とは美徳であり「美」とは事象が持つ快の性質、言い換えると概念快とはその事態が持つ快の性質である。この前提を確認した上で考察を進めていく。
「愛する」とは一般的に相手を心から思いやることであるが、観念的には「絶対的主観快を持つ意識の同化行為」である。ちなみに主観快とは自身が知覚する快と考えてもらえれば良い。
双方が意識を持つ場合の「愛」、AさんがBさんを愛することによりAとBの意識がAのもとで同化するためBの快はAの快となる。BさんがAさんを愛することによりAとBの意識がBのもとで同化するためAの快はBの快となる。
よって愛することは絶対的な主観快であるため相愛であることは絶対的な意識快となる。
一方が意識を持つ場合の「愛」、人が物を愛することにより人と物の意識が同化する。人間の知覚する世界とは人間の精神の上に現れたものであるため、万物を愛する「全愛」の状態では知覚する世界が全て一つの意識として繋がる。
そして、「愛する」とは絶対的主観快であるので「全愛」の状態では知覚する世界が全て一つの意識として繋がるために自身の世界全てが絶対的に快の性質を持つことになる。
よって愛することは自己の存在するその事態を絶対的に快の性質で満たすことより絶対的な概念快となる。
したがって、「全愛」こそが最高善であり愛こそが倫理の根幹であるということが導かれる。
加えて善とは人間精神の目指すもので最高善とはそれ自体として究極の目的となるため、条件付きの愛とは愛ではなく愛は完全な定言命法としてなされる。

自由と倫理の均衡
自由と平等の関係に引き続き自由と倫理の関係を述べることはこの一般理論において大きな意義を持つのであるが、それについて考察していく。

自由と倫理必要性の関係の図


自由な社会においてその秩序を保つために個人の倫理が求められ不自由な社会はその強制力よりそもそもの裁量の少なさから個人の倫理があまり必要ではない。ちなみに大量の個人の倫理必要性の低下は倫理の低下を招く。

倫理と自由の関係の図


倫理とは秩序・規範の役割があり高い倫理はその規範の精度の高さから行動の統制、つまり不自由を意味する。
まとめると倫理が低いとき自由が高い状態であり、故に高い倫理が求められる。倫理が高いとき自由が低い状態であり、故に高い倫理は求められない。この均衡運動により自由と倫理の均衡が取れる。
ちなみに人間精神は絶対倫理を目指すためにマクロの観点では均衡点は倫理軸上昇にシフトしている。

自由と倫理の均衡点シフトの図


ここで最高善を達成した際の均衡について考えてみたい。最高善、つまり絶対倫理の達成とは倫理軸の最大値であり完全な不自由を意味する。しかし、不自由であることは倫理必要性の低さに繋がるため均衡点は倫理軸を多少減少方向にシフトする。
したがって、絶対倫理の達成は不可能であると考えられる。

行動動力と最適社会
これまでは倫理の性質を述べてきたが、次は倫理と社会の関わりについて考察していく。
我々の行動において合理的・効率的な選択肢であること自体はそれを達成する理由にはならなず行動動力を必要とする。行動動力とは精神の希求する方向である快をさすのであるが、快にも意識快と概念快の二種類ある。
まず意識快に対する動機は欲動でありヒト的な動機で持続性は低いが即効性がある。次に概念快に対する動機は倫理であり人間的な動機で持続性は高いが扱いにおいて柔軟性に欠けるのである。
そして、我々の生きる社会とはこの二つの動機の均衡のもとで回っている。資本主義社会がわかりやすい例である。社会は勤労という美徳を持ちその影響下で人々は働き消費欲という欲動が消費を促すことで経済は無限に回っていく。

新均衡主義的自由社会でもない限り社会には権威が存在しており権威は欲動を掻き立てたり倫理を行使したりするように意識快と概念快に対する動機を用いて社会を円滑に回すための施策を講じる。わかりやすい例を挙げると政府が介護事業に大量の補助金を出すことで国民の欲動に訴え介護事業の参入を増やし、一方で大量の補助金を出すことで介護の倫理的価値を顕示することができ国民の倫理にも訴えるということだ。
しかし、現行の倫理の形は大衆平均によるものであるため権威の示す倫理と現行の倫理に乖離が起きたり倫理行使が行き過ぎて意識快とのバランスが取れなくなると大衆により是正される。
ちなみに新均衡主義的自由においては権威の倫理と大衆の倫理は同一なので乖離などは生じない。

宗教と倫理
倫理の社会の関係を考える上で欠かせないものが宗教であるが、宗教には三つの側面があると考察される。
一つ目は救済の側面である。これはヒトの本性に適合した性質故に宗教の求心力を可能にする。
二つ目は共同体の側面である。これは所属欲求というヒトの人間的な本性と人間の動物的な本性に適合した性質であり、これにより宗教を持って自他という意識を作り上げ不平等および闘争の要因にもなる。
三つ目は倫理の側面である。これは人間の本性に適合した性質で人間精神を導く役割を果たし人間精神の絶対的価値から考えて三つのうち最も重要な側面である。しかしその反面、宗教の信仰はその倫理の信仰を意味しており宗教は倫理の最低ラインを規定するが、強すぎる信仰故にそれ以上の倫理の進化を阻む可能性がある。

倫理と教育
宗教も倫理教育の一部なのであるがさらに包括的に倫理教育について考えていく。
倫理とは大衆意識によって規定された善であるため、大衆意識から倫理を学ぶのである。そのためには大衆意識そのものである「共同体」と大衆意識の概念的形態である「法」から倫理形成を行う。
まず共同体とはその規模において家庭と社会に分けることができるのだが、家庭において倫理の根幹である「愛」を学ぶことができ社会において社会に宿る善悪観や美徳観を学ぶことができる。
次に法とはその性質において慣習法と成文法に分けることができるのだが、法とはそもそも美徳と効率性から成立しているため倫理を学ぶには良い教材なのである。慣習法は共同体カテゴリの社会と同一の機能を持ち成文法はその背後にある学問的観点から倫理を考えることができる。
最後に社会にとっての倫理教育の目的を考えるとそれは個人における意識快と社会における概念快を一致させることだと思われる。

倫理の暴走と三権分立
倫理は社会そのものを成立させる秩序であるが、倫理の画一化傾向・ヒトの異分子排除本能・現行倫理の最前錯覚などから暴走する可能性を秘めている。
これを防ぐ仕組みというのが「自由・平等・倫理の三権分立」である。

自由・平等・倫理の三権分立の図


倫理の暴走を自由・平等の概念規定の遵守により防ぎ、自由の暴走を倫理と平等の概念規定の遵守により防ぎ、平等の暴走を倫理と自由の概念規定の遵守により防ぐ。
しかし、政府倫理は大衆の是正により大衆倫理に相似すると考えられ、この状況では倫理の暴走を止める「力」がなくなる。
よって自由と平等の概念規定を根底思想においた成文憲法を制定し、これを倫理の定める法律の上に置く必要があるのだ。

エピローグ

ここまで自由・平等・倫理に関して包括的に述べてきたが、これらの概念は互いに関係しあってそれぞれの概念を健全に確立しあっている。神が仕組んだかのような均衡の上で我々は生きているのである。
これら三つの概念は目に見えず確かな実在を主張することも難しいが確実に現代社会の根底を支えているものである。まさに人間を人間たらしめている「人間の条件」なのである。
人間の歴史は脈絡と流れて来てこれから先も流れて行くだろうが、不確かな現実社会で一つ確かなことが言える。
自分はいかなるものの影響にも流されることがないと信じる空前絶後の大支配者でさえ、そこに社会がある限り自由、平等および倫理の奴隷なのである。

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