真理哲学論考
序
おそらく本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。故に理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされた事になる。
私が信ずるところでは、哲学とは実に確かな論理体系の構築という壮大な野望を追い求める生きた理性の躍動であり、本書が全体として意義をもつために次のような絶対となる意義を確立する必要がある。世界は確かな基で思考されねばならない。
かくして、本書は絶対となる事実から確かな論理体系を構築する。つまり、本書が哲学を再設計する。
この論考は絶対という哲学の果てしない野望を追い求めた全ての先人たちに捧げられる。
一
1.1 確かな論理体系を確立するためにはこの世に絶対に否定しえない確かな基、つまり絶対事実を立てねばならない
1.2 絶対に否定しえない確かな事実を見つけるには一度全てを懐疑にかざす必要がある
1.3 私においての全ては記憶・思考・感情・感覚含め情報である
1.4 私が知覚する過去とは記憶であり私の元に現前するものではない
1.5 この世界は私という器に投げ込まれた今と記憶の無造作な情報の集まりだという否定しえない一つのモデルを立てることができる
1.6 そのようなモデルが成立する以上この世界に"絶対"である事象はありえない
1.7 絶対である事象はありえないが事象の実在は絶対に否定しえず確かである
1.8 「世界は無ではない」という絶対事実が確立する
2.1 世界は無ではないという絶対事実のみが確かな状況において合理による考察、つまり論考すら確かではない
2.2 真っ暗で混沌とした世界を捉える光を掲げなければならない。つまり、「合理*1は絶対であり合理が真と認めたものは須く真である」という絶対前提を確定する必要がある
3.1 存在とは確実性・不確実性を含んだ「ある」という行為・実在とは確実性のみ含んだ「ある」という行為、つまり「実在 ⊂ 存在」である
3.2 実在してないものをどこまで追求してもその性質において確実性を欠いているため確かなものになりえない
3.3 実在してないものを論考する必要はない [1]
*1 合理とは「Aである状態とAでない状態が事象空間を重複することなく満たす」という論理原則である
二
1.1 確かな基とは絶対事実による体系概念である
1.2 論考は絶対事実から展開されねばならない
2.1 世界は無ではない
2.2 有、つまり事象が実在するためには主観*2に知覚されている必要がある
2.2.1 主観は確かにある
2.2.2.1 主観に知覚されていない事象は存在するかもしれないが実在することはない
2.2.2.2 [1]より主観に知覚されていない事象を論考する必要はない
2.3 主観の外部で事象は実在しえない*3
2.4 実在する全事象は主観内に像*4としてある
2.5 世界とは実在する事象の総体である
2.6 主観は世界である
2.7 主観が知覚する対象物、つまり世界の素*5が実在する(世界の素の真の姿は主観を通さずに知覚せねばならないため実在しない)
2.8 世界とは主観内に実在する世界の素の像である
2.9 像以外実在しえない
2.10 像以外実在しえない世界に像のみが実在している
2.11 像は絶対である [2]
3.1 世界は無ではない
3.2 世界は有である。つまり、何かが実在する
3.3 事象は「いま」*6実在する
3.3.1 仮に「いま」の直前に知覚された像があったとしても「いま」実在していない
3.3.2 前後の像は実在しない(→3.5)
3.4 「いま」は絶対である
3.5 [2]より「いま」の像のみ絶対である [3]
3.6 「いま」私が知覚している世界の真理*7を得ることは絶対の真理を得ることと等しく、私が「いま」真理を保持する限りそれは「いま」の像であり「いま」の真理、つまり絶対の真理であり続ける [4]
4.1 世界は無ではない
4.2 「いま」の像のみ絶対である
4.3 二つ以上の事物が実在する像の世界を仮定する
4.4 「いま」実在する二つの事物が同時に実在する。この状態を"2"とするー①
4.5 絶対前提より「いま」実在する事物は同時に実在しないという状態はとりえない
4.5.1 一つの事物が実在する状態E(x)を"1"とする (→4.6)
4.5.2 同時実在の状態をP(x,y,..)という関数で表す(→4.6)
4.6 これら条件より①の状態を表すとP(E(x),E(y))=2⇔P(1,1)=2、関数Pの表記を「+」に変えると「1+1=2」となる
4.7 二つ以上の事物が実在する像の世界では数理*8は成立する [5]
*2 主観とは事象から実在性が付与された事象の像を写し出す知覚体
*3 事象に可視性を付与する目と事象に実在性を付与する主観について、視野の外の事象が見えないように主観の外の事象は実在しない
*4 像とは可視的なものだけでなく思考・匂い・感情も含む情報というもの
*5 事物だけでなく一章の1.5で出てきたモデルのような情報も含まれる
*6 「いま」とは事象が実在する状態を時間的視点で捉えた語だが時間は実在しないので日常言語で用いる"今"を使えない。それにより導入した仮想の時間概念
*7 真理とは合理的完全な論理
*8 数理とは計算が成り立つ理屈
三
1.1 確かな基で世界を再規定する必要がある
1.2 [4]より「いま」私が知覚する世界においての合理的な論考は確かな保証を得る
2.1 世界は無ではない
2.2 像以外実在しえない
2.3 像の中の事象は自分の全性質を備えている
2.4 「Aは〜という性質を持つ」という命題においてAは自らの全性質を備えている
2.5 仮に事実がもともと意味属性をもつとすると「私は人間である」という命題は"私は人間である"という意味*9を持つことができる
2.6 「("私は人間である"という意味を持つ)「私は人間である」という命題は"私は犬である"という意味を持つ」という命題について
2.7 この命題は偽であり"私は犬である"という意味は実際に対象に属性付与されることはなく私の元に実在する
2.8 絶対前提より「私は人間である」という命題は"私は犬である"という意味で私に知覚されているため"私は人間である"という意味は私に知覚されない
2.9 [9]より"私は人間である"という意味属性は現世界に実在しない
2.10 現世界において事実が意味属性を持つことはない [6]
2.11 意味とは事実に仮想付与されるもの
[訂正]
2.6の「「私は人間である」という命題は"私は犬である"という意味を持つ」という命題について、"私は犬である"という意味属性を「私は人間である」という命題と命題構造で同位に扱っているため、この命題は作者意図を汲んだ形にはならない。
よって以下にこの項の訂正を記載する。
本来、"私は人間である"という意味を持つべき「私は人間である」という命題が"私は犬である"という意味で知覚された場合、"私は人間である"という意味は知覚の外にあるため実在せず、"私は犬である"という意味と比較しようがない。
よって、[1]より論考する必要がない。
2.6 意味は知覚されたそれ自体として実在している
3.1 世界は無ではない
3.2 像以外実在しえない
3.3 像の中の事象それ自体の実在に偽などなく(あれば実在しない)、偽がないならその相反である真もない
3.4 事象は真偽属性を持たない
3.5 真偽*10は意味づけされる意味である [7]
4.1 世界は無ではない
4.2 主観は世界である
4.2.1.1 像以外実在しない
4.2.1.2 像は事象の全性質を内包している [8]
4.3 主観が絶対である「いま」の像を写し出す
4.4 私が今知覚している世界(現世界)が実在する*11
4.4.1 現世界とは私における世界の限界でその外の世界は私つまりこの論考の主体において実在しない [9]
4.4.2.1 現世界のもつ属性*12として空間領域・時間領域・精神領域*13がある
4.4.2.1.1.1 空間領域は有形物の実在領域を保証する
4.4.2.1.1.2 空間とは実在する事物間の近接関係により知覚される
4.4.2.1.1.3 [3]より関係を結んでいる事物は共に像の内部に実在する(→4.4.2.2)
4.4.2.1.2.1 時間領域*14は変遷的に事態の実在領域を保証する
4.4.2.1.2.2 時間とは近接する事態の比較関係により知覚される
4.4.2.1.2.3 [3]より比較対象とされた事態は共に像の内部に実在する(→4.4.2.2)
4.4.2.2 空間と時間とは像の内部関係である
4.5 [6]より現世界は意味を持つ像と意味を持たない像(事実)に別れる
4.5.1 意味を持つ像は"印象"と"言葉"に分かれる [10]
4.5.1.1.1 印象とは非言語的な意味をもつ像
4.5.1.1.2 非言語的意味を言語で表そうとすることの矛盾
4.5.1.1.3 恣意的に与えた善*15の印象(快)とその相反である苦の印象(不快)を両端とした非言語的意味づけ基軸
4.5.1.2 "言葉"とは言語的意味であるが[7]より命題的言語と非命題的言語に分かれる*16
4.5.1.2.1.1 現世界は[5]を成立させる条件を満たし数理が成立する
4.5.1.2.1.2 「「1+1=2」という命題は偽である」という命題において「1+1=2」という命題は「偽」であると意味づけされる
4.5.1.2.1.3 「1+1=2」という命題は合理的に真よりこの命題が命題的言語としての「偽」として意味づけされると絶対前提に反する
4.5.1.2.1.4 この場合「偽」は命題的言語ではなく日常的言語の「偽」である
4.5.1.2.1.5 命題的言語は同音同形で日常的言語と異なる意味を持つ
4.5.1.2.2 非命題的言語とは日常的言語としての意味
4.5.2 事実は空間領域に実在する空間自体である「空形」と精神領域に実在する「非空形」に分かれる
4.5.2.1.1 「空形」とは自分*17の外にある持続的空間、つまり時間的空間領域である空間自体
4.5.2.1.2 空間は像の内部関係より仮想であるが現世界において絶対的に知覚される絶対仮想体である
4.5.2.1.3 時間は像における事態の近接関係より極限まで近接している時間軸上の空間領域は仮想同物とみなせる
4.5.2.1.4 そこに実在する持続性を帯びた有形物*18も空間の形として空間の一部であり、これが時間的に持続した仮想な空間、「空形」である [11]
4.5.2.2.1 「非空形」とは像の空間要素をもたない部分。それは精神領域に実在する情報、つまり知覚物であることを示す
4.5.2.2.2 「非空形」は自分の外から、つまり自分性を持たない知覚である「空形」からの知覚*19(刺激*20)と自分から、つまり自分性をもつ知覚(幻想*21・第六感)に分かれる
4.5.2.2.2.1.1 刺激とは「空形」からの知覚、つまり「空形」の性質情報の獲得である
4.5.2.2.2.1.2 「空形」は空間領域に実在している空間自体だが時間軸が異なることは空間領域が異なることを示す
4.5.2.2.2.1.3 [11]より「空形」は絶対仮想体であるため空間領域が異なっても同物であるが像は異なる
4.5.2.2.2.1.4 [8]より「空形」自体ではなく「空形」としての像が性質をもつ
4.5.2.2.2.1.5 刺激とは各空間領域の「空形」である像の性質獲得である
4.5.2.2.2.2 自分からの知覚は五感による知覚である幻想刺激とそれ以外の知覚である第六感がある
4.5.2.2.2.2.1.1 幻想刺激とは「空形」と属性関係を持たない単立した刺激情報
4.5.2.2.2.2.1.2 [3]より「いま」の像以外実在しない中で経験も幻想刺激も単純に「いま」の像として実在するだけでそれらの因果関係の確証に欠ける*22
4.5.2.2.2.2.1.3 帰納的因果関係は実在せず単なる事象として実在する*23
4.5.2.2.2.2.2.1 第六感とは意味を持たず、つまり事実に依存せず「空形」と属性関係を持たない刺激情報として属さぬ知覚物
4.5.2.2.2.2.2.2 第六感とは像内で他との関係を必要とせずそれ自体で完結する像の虚の部分
4.6 これにより論考は現世界を包括する
*9 意味とは事象に依存する五感以外の知覚物("印象"は出来事などに付与され"言葉"は音や文字(視覚的観点から同じである事物にも)に付与される)
*10 真偽とは合理(数理・論理)に合うか否かという明確な定義を持つ明確表概語
*11 現世界において論考するとき、原理の異なった様々な世界がこの先現世界になりうるのではないかなどと考える必要はない。なぜなら、それら世界は実在しないものだから
*12 現世界のもつ属性とは現世界の枠組み、つまり事象が現世界において実在できる領域を指す
*13 空間領域に実在できるのは有形物だけであるが、主観における世界の素の投影である像は情報で無形である。像の実在は無形の実在領域である精神領域が像の属性であることを示す
*14 時間領域は共に持続性を持たない空間領域と精神領域を時間軸に置き時間性を保証したというイメージ
*15 善とは倫理的アプリオリであり精神として目指すべきもの
*16 真偽判定とは[7]より事実において成り立つことはなく命題、つまり意味体において成り立つ。よって「「1+1=2」という命題は偽である」が意味的に成立してしまうと絶対前提を否定することになるためこれを他の意味として扱う必要がある。これが命題的言語を分ける理由である
*17 自分とは自分性を知覚する範囲
*18 自分性をもつ有形物である自己肉体は例外として「空形」に属するとする
*19 仮に刺激が自分性をもっていたらその刺激により規定される「空形」は自分性をもつことになり「空形」の定義に反する。よって刺激は自分性をもたぬ情報 [12]
*20 仮に刺激は物質により引き起こされるとしてもその物質の配列により感じる感覚情報は無形である
*21 夢を見ている時、それが内からの知覚か外からの知覚かわからないが夢を見ている間、その夢が現実であり醒めてからそれを振り返るとき記憶、つまり幻想刺激になる
*22 一枚のパノラマ画において右端と左端に同じものが描かれていても右端の絵が左端の絵の原因になったとは考えられない
*23 幻想刺激だけでなく推論や印象付与、文章作成を含む思考も同様である
四
1.1 確かな論考は確かな方法でなされなければならない
1.2 論考とは論理体系の構築、つまり合理という柱に立つ言語構造体である(→3.6)
2 曖昧で広義な定義は相反を同時に含み合理を破綻させる*24(→3.6)
3.1 世界は無ではない
3.2 「いま」の像のみ絶対である
3.3 現世界は実在する
3.4 [10]より現世界において"言葉"という言語的意味をもつ像がある
3.5 言葉の区分として「物」*25を表す語(表物語*26)と「物」以外を表す語、つまり明確な定義を持つ概念を表す語(明確表概語)と恣意的な定義付与がなされた概念を表す語(恣意表概語)の三つがある
3.5.1.1 表物語の定義は「物」の定義であるが[12]より現世界における刺激が「空形」ないし「物」を完全に規定する
3.5.1.2 現世界における刺激の総体こそが定義、要するに私の元にその定義は現前する(→3.6)
3.5.2.1 明確表概語は定義が定まっているため定義解明の必要なし*27(→3.6)
3.5.3.1 恣意表概語は恣意的に定義を与えた非言語事象のため言語による正確な定義解明は不可能*28(→3.6)
3.6 確かな論考は表物語と明確表概語(恣意表概語を構成要素に含まない)によって展開されなければならない
4 この論考は鋤である。だが、確かな鋤である。我々はこの鋤で知を開拓せねばならない
*24 「ソクラテスは人である→ソクラテスは死ぬ」と「人」の定義解明しないと「ウルヴァリンは人である→ウルヴァリンは死なない」と合理破綻を招く
*25 「物」とは「空形」においての個々の有形物としての部分
*26 「犬」のような「物」と一対一対応しない抽象事象は概念として分類され、自分の前に"刺激"として知覚されないものは"幻想"でしかありえず「空形」に属する「物」ではない。これは自分の前に"刺激"として知覚されないものは有形物でも概念として分類されることを意味する
*27 単語を明確表概語として再定義したところでその単語にその定義が仮想付与されたということが絶対なだけで内容が絶対だということではない。そもそも、[6]より事実に意味属性というのがない以上絶対な定義など実在しない
*28 一般的に非言語的な恣意概念から包括的性質を見つけ出し明確概念として再定義したりする
五
1 世界は確かな基で思考されねばならない
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