なぜ党首公選制を訴えるのか?「日本共産党が党首公選を実施すれば日本の政治がマシになる」【新刊ちょい読み】
はじめに
「風が吹けば桶屋がもうかる」
一見、関係なく見える事柄であっても、よくよく考えてみると何らかの因果関係がある場合に使われる言葉である。風が吹く→砂が舞い上がる→砂が目に入って目が悪くなる→かつて視覚障害者の仕事だった三味線弾きが増えて三味線が売れる→三味線の製造に必要なネコの皮の需要が増えてネコが捕らえられる→結果として繁殖したネズミが桶をかじるので桶が売れる、という筋道が成り立っていると説明がなされる。ただし、実際にはあり得ないことを無理矢理こじつけている、という使われ方をされる場合もあるようだ。
この言葉をもじって、次のようなことが言えないだろうか。
「日本共産党が党首公選を実施すれば日本の政治がマシになる」
実は、日本の主要な政党のなかで、党員による党首選挙をしていないのは共産党と公明党のみである。公明党はいざしらず、共産党がこれを実現すれば、あとで述べるように、その影響は党内にとどまらないものになると思うのだ。
党首選挙で自分なりの安保・防衛政策を訴えたい
大学に入学した翌年、一九七四年の七月に日本共産党に入党した。一家四人が六畳間で暮らすような貧しい家庭で育ち、親に楽をさせてあげたいと、銀行か商社に入ることを基準に大学(一橋大学)を選んだ。ところが当時は、大学の生協に入るといちばん目に付くところに『資本論』が山積みされているような時代であり、自分だけでなくみんなが貧しさから解放される社会主義の理論を知った。また、そういう社会を実現するために献身している共産党員が身近におり、その誘いで入党したのである。結局、大企業に入社しないどころか、卒業後すぐに専従活動家の道を選んだ。その決意を親に伝えたところ、「お前が銀行に入る夢を本当に見たことがあるよ」と笑いつつ、反対するようなことはなかった。
それから半世紀近く、共産党員として真面目に生きてきて、党本部にも勤務した時期があり、政策委員会(他党の政策審議会、政務調査会、政策調査会にあたる)では安全保障や外交を担当していた。安保外交部長という荷の重い肩書きをもらったこともある。
その肩書きの頃、ある問題で志位和夫委員長との間に大きな意見の相違が生まれ(後述)、二〇〇六年に退職し、京都のかもがわ出版で編集の仕事につくことになる。それでも共産党員であることの誇りと志は変わらなかったし、毎月欠かさず収入の一パーセントを党費として納め(カンパはもっと多額だが)、所属する支部(職場、地域、学校などで組織される共産党の基礎組織)の会議に欠席したことはない(週に一回開く決まりだが、実際にはそれほど頻繁に会議が開かれていないという事情もある)。
党本部を退職後、「超左翼おじさんの挑戦」というタイトルのブログを開設し、いくつかの書籍も上梓することとなり、各種の政治問題でも自由に意見を表明している。そのため周りの人からは、「こんなに自由気ままに書いていると共産党から処分されるのではないか」と心配されることもあるが、幸いそういうことは一度もなかった。異なる意見を外部に表明したからといって処分されるほど、日本共産党は抑圧的な組織ではない。そんな組織ならば学者の党員は自分の学説さえ公表できないことになってしまう。
そうやって自由に生きてきた私であるが、共産党に対して自分の意見を好き勝手に表明するにとどまらず、自分自身が共産党の改革のために一肌脱ぐべきだと考えるに至った。具体的には、共産党に全党員による投票が可能な党首(共産党の場合は委員長)選挙を実施してもらい、私が立候補できるような選挙制度になるならば、党首になるために立候補したいと考えた。その選挙では、安保・防衛政策を中心に共産党が進むべき道筋を訴えたいと思うようになった。
野党共闘を活性化するカギの一つにならないか
自民党政権、自公政権が長く続いている。「失われた三〇年」という言葉があり、世界の主要国で日本だけが働く人々の給与が増えないことも知られているので、この三〇年に責任のある自民党政治の転換を求める人は少なくない。自民党政権の継続を願っている人であっても、政治にもう少しの緊張感が必要だとは感じているはずだ。ところが、安倍晋三氏(故人)の政権が国政選挙で六連勝を記録したのに続いて、岸田文雄政権になって以降の二つの国政選挙でも、自民党一強と言われる状態は変わらなかった。
なぜそうなってしまうかの答えは、私が書かずとも、誰もが分かっている。国民は自民党政治の対抗軸になれるような野党の出現を望んでいるが、現在の野党にはそれが期待できないからである。立憲民主党は、他の野党を糾合することも、自民党の対抗軸としてふさわしい政策を提示することもできていない。得票を増やすために野党が候補者を一本化することが望ましいと誰もが理解しているが、共産党と他党とでは安保・防衛政策の溝があまりに大きく、それを放置したまま政権共闘にまで進むことには、国民民主党はもちろん立憲民主党のなかでも抵抗があるし、この両党を支える労働組合の連合(日本労働組合総連合会)の批判も強く、有権者である国民の不安も消えない。
だから、野党共闘成立のカギの一つは、他の野党が懸念を感じている安保・防衛政策に共産党がどういう態度をとるかにある。しかし、共産党のなかでは、それを抜本的に見直す動きが見えない。岸田政権が二〇二二年末に「敵基地攻撃能力(反撃能力)」の保有を政策とする国家安全保障戦略の大転換を行ったが、ロシアがウクライナをミサイルで破壊する様を連日見せつけられている日本国民は、「敵ミサイル基地への反撃は許されない」とか「外交努力で何とかなる」という従来型の安保・防衛論では納得しない。「自衛隊活用論」(後述)には党員の反発も根強いし、中途半端であるが故に幅広い人々を惹きつけるわけでもない。共産党に求められるのは、野党共闘を主導できるような安保・防衛論を打ち出すことである。
「共産党は怖い」という見方にも変化が生まれる
野党共闘成立へのカギは、もう一つある。共産党のいわゆる「体質」である。
二〇二一年一〇月の総選挙のきびしい結果をふまえ、田村智子政策委員長が翌月末にツイッターで、「野党としての共産党なら良いけれど、政権に関わったらどうなるの?という不安は、私たちの想像を超えて広がった」と述べて党内外で共感が広がったが、ただちに削除されてしまった。二二年、ウクライナ戦争が起こり、日本から防弾チョッキを供与することが決まったのに対して、同じ田村氏が三月四日の記者会見で「反対と表明することは考えていない」と答えたのに、翌日には「党内で相談しないで(発言を)行った」と釈明して「我が党として賛成できない」と態度を翻した。
他の政党を見ていると、複雑な問題が起きた際、賛否が分かれて議論され、やがて対応がまとまっていく過程が可視化されるが、共産党の場合、賛否が分かれているだろうに、どういう根拠で結論が導かれるのかが外からは見えない。そして、田村氏の事例から分かるように、根拠が示されないまま発言撤回ということになるので、「偉い人の考え方次第で態度が決まるのではないのか」「民主的な議論が尽くされていないのでは」という感覚が国民には生まれる。そのことが、田村氏が言うように国民の不安も増幅させるし、政権共闘に対する他の野党の消極的な対応にもつながっていく。
もし、共産党が党員投票の党首選挙を実施できるほどに変化すれば、野党共闘の障害となっている安保・防衛政策を全党的に議論し、抜本的に見直すきっかけになる。また、そういう議論が国民の目の前で公開で行われ、国民が目にすることによって、共産党とは異論の存在を許さない「怖い」政党だという認識に変化が生まれ、共産党を含む政権共闘への国民の不安感も和らぐのではないだろうか。再びこの言葉に登場してもらおう。
「日本共産党が党首公選を実施すれば日本の政治がマシになる」
共産党が党員投票の党首選挙を実施する→共産党には自由も個性もあることが国民に知られ、共産党への国民の抵抗感が和らぐ→党首公選を通じて安保・防衛政策で他の野党と「共通の土俵」が生まれる→野党の間で安保・防衛政策はもちろん経済政策も含めて自民党との対抗軸となるような議論が開始される→野党の政権共闘が確立し自民党政権を脅かすような存在として次の国政選挙(二五年予定)に臨む→政権交代の可能性が現実のものとなり、自民党政権が存続する場合も野党の存在と主張を無視できない政治状況が誕生する。これが本書で提示したいことの道筋である。
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