__な暮らし

「ていねいな暮らし」に一時期かぶれた/嶋津 輝

先週公開した短編「スナック墓場」著者の嶋津 輝(しまづ・てる)さん。
「ていねいな暮らし」「持たない暮らし」に一時憧れた嶋津さんが、自身の学生時代を振返ったライトエッセイを公開します。

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「〇〇な暮らし」

 「ていねいな暮らし」に一時期かぶれた。映画「かもめ食堂」を観たのがきっかけだっただろうか。好きなものだけに囲まれた気持ちのよい暮らしを推奨する生活系雑誌を読み漁り、洗練された風貌の料理研究家やスタイリストたちが楽々と家事をこなしている姿に憧れた。なぜ憧れたかといえば、私自身がズボラな人間で、料理も掃除も苦痛で仕方なかったからだ。
 だらしのない性格だったのは子供のころからで、学校の机にはいつのかわからない丸められたプリントやカチカチに硬くなった給食のパンを溜めこんでいたし、通学カバンの底には持ち帰ろうとしたミカンがつぶれて干物状になったものが貼りついたままになっていた。理科の授業で一個ずつ配られた蚕の繭をカバンの外ポケットに入れたまま存在を忘れ、それが授業中に羽化して教室を騒然とさせたこともあった(非モテ女子の典型のような行動様式で泣けてくる)。
 そんな私の「ていねいな暮らし」は、せいぜいが素敵な料理研究家たちの愛用するキッチン用品を真似するなど形だけのものだったが、ブームは何年か続いた。たまには凝った料理も作ったし、掃除をがんばることもあった(自分比)。それが終わったのは、もともとの素質のなさもあろうが、憧れの人たちが、よくわからない食材のさっぱりしてそうな料理ばかりをインスタに上げているのを見て、「この人たちってマルちゃんソース焼きそばとか食べたりしないのかな」と疑問に思ったからである。月に三回はソース焼きそばを作る自分との断絶を感じたのだ。

 そのあとは「持たない暮らし」ブームが来た。断捨離、ミニマリスト、フランス人は10着、などである。
 これは性に合った。ただモノを減らせばいいのである。効果もしっかりあって、気に入ったものだけを残すことによって収納に余裕が生まれ、クローゼットに下げた服も皺になったりしないので気分がいい。好きな服は週に何回着たっていい、という考えもズボラな私にはぴったりだ。質のいい、好きなものだけを少しだけ持っていることで心が満たせるので、無駄な買い物も減る。買うときにはよくよく吟味していいものを買う、という姿勢もなんだか大人っぽい。いいことだらけなので、これは続けていきたいと思っている。

 厳選された少しのものを大切に使う――という姿勢に該当しないものがある。下着である。もっと絞って言えば、パンツである。私はパンツだけは、安くていいからとにかく新しいものを常に揃えておくようにしている。
 高校生のときのことである。引き出しの奥からしばらく穿いていなかったパンツが出てきた。なかなか可愛い柄で、買ったときは気に入っていたのに、なんとなく引き出しの奥まで追いやられて忘れ去られていたものである。「そういえばこんなパンツ持ってた♪」と私は嬉々として身に着け、そして学校に向かった。
 パンツは、家からの最寄駅に着いた時点ですでにお尻の半分ぐらいまでずり下がっていた。長期間引き出しの隅で放置されているうちに、生地もゴムも劣化していたのだろう、ほとんど伸縮性がなかった。どこかでパンツを上げたかったが、だらしのない私は常に通学は遅刻ぎりぎりだった。トイレなどに寄っている暇はない。
 その後、巨大ターミナル駅でJRから私鉄に乗り換える。この乗り換えは結構距離があって、走らないと始業時刻に間に合わない(ズボラなくせに絶対に遅刻はしたくないところが小者っぽい)。私は走り、そしてこの段階でお尻は完全に露出していた。こうなるとあとは落ちる一方で、私鉄を降り、駅を出て歩きはじめたあたりでパンツはいよいよ下がってきた。
 駅から学校までは10分ぐらい歩く。周囲には、私と同じ遅刻ぎりぎり組の生徒たちがたくさん歩いている。みな急ぎ足だ。私も急ぐ。伸縮性を失ったパンツはどんどんずり下がってくるが、膝の上でなんとか止まった。
 歩きにくいことこの上ない。遅刻したくないから大股で歩きたいが、なにしろ膝を拘束されている。しかも、あまりがしがし歩くとスカートの裾がはね上がる。制服はプリーツスカートで、動けば揺れる。丈は膝がちょうど隠れるぐらいで、裾が乱れると膝の上で止まったパンツが見えてしまう(いまどきの女子高生のスカート丈だったらこの時点でアウトだ)。
 だからと言って、あまり小股で歩いていると、パンツが膝より下に落ちてきてしまいそうでそれも怖い。私は大股小股とり混ぜながら歩を進めた。歩きながら、いま強い風が吹いたらどうなるんだろう、ということに思い至り、軽くパニックになった。ここでプリーツスカートがバーンと舞い上がったら、大事なところが丸見えである。いや、大事なところを見られるだけならまだいい(イヤだけど)。問題は膝までずり落ちたパンツだ。女子高生が、朝の通学路で、膝までパンツを下ろして歩いている。その状況の異様さ、変態っぽさ。いっそノーパンのほうがいい。周囲を見たところ顔見知りの生徒はいないが、茶髪でガン黒の私は、水泳部員であるということはわかってしまうだろう(スカートがめくれたら水着の跡もくっきりだし)。蚕を授業中に羽化させたどころの騒ぎでなく、たぶん高校生活が終わってしまう。
 今思い返しても人生で5本の指に入るくらいのピンチだったと思うが、パンツはなんとか膝の上にとどまり、強風が吹くこともなく私は無事に学校にたどり着いた。スカートの下にジャージを穿いたときの安心感といったらなかった。
 以来、劣化したパンツだけは絶対に穿かないし、品質なんてどうでもいいからとにかく新しいものを身に着けるようにしている。この点に関しては、丁寧もミニマムもどうでもいい。

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家政婦の姉とラブホテルに勤める妹、スナックの店員と客……。日常のやりとりから生まれる違和感が、クセになる全7編。

スナック墓場_書影

スナック墓場
著・嶋津 輝
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