教師からのいじめ①~予感篇~

私が生徒として当校(通信制高校)と関わってから数年経過している。そのため、その生活における様々な被害が風化しようとしているのだが、そこは記憶を頼りに思い出してみよう。

そういえば、そもそも入学する前、入学願書提出のために学校に行った時点で「何か嫌な予感」がしたことを思い出した。そしてその予感の要因は、学校の駐車場の白線が剥がれ落ち、薄く汚ならしいものになっていたことと関係している。

私は自身の関わる学校だけでなく様々な共同体や集団と関わりを持ってきたが、私の経験上、その内部で実効的に働く共同体原理を見極めるためのポイントは「線」である。(広義には記号)

つまり、その共同体が所有もしくは利用する施設内において、線や記号といったものが明確に画かれているか否かという点に、その共同体における統治の性質=「法治的か?人治的か?」という性質が表れていると考える。

では、その考えの論理的整合性を証明するため、まず「法治」と「人治」の異なる点を明確にしよう。

どんな共同体や集団であれ、人間同士がそこに共存共生しているということは、そこには何らかの「掟」が存在する。

そして、掟は「法・ルール」といったものと「道徳・マナー」といったものに分類することができる。

両者の異なる点とは、その掟が適用されうる人間同士の関係性、もしくは個人と集団の関係性に、利害や価値観の対立の存在が前提されるか?否か?という点である。

もし、それらの関係性に利害や価値観の対立の存在が「前提される」のならば、そこでは法やルールといった掟が支配的となり、逆に「前提されない」のならば、道徳やマナーといった掟が支配的となる。

このことは例えば、サッカーの試合を想像して考えてみるとわかりやすいだろう。サッカーをしているとき、そのフィールドには両チームメイト合わせて22人の選手がいる。

ルールという掟が適用されうる主な対象は、ある一人の選手と、そのチームの対戦相手となるチームの選手とのやりとりに対してである。反対に、マナーという掟が適用されうる主な対象は、ある一人の選手と、その選手と同じチームの選手とのやりとりに対してである。

大会などの観客がいる試合では、選手は対戦相手となる選手にも「マナー良く」振る舞うことが周囲の者たちから要請されるが、それは、そこに「観戦者」という存在が出現することによって、同時に、サッカーを競技する人たちの集団=「競技者集団」という、一つの利害や価値観を共有することが前提される集団が形成されるからだ。

要するに、法やルールに厳しい集団(=法治共同体)というのは、その構成員らの関係性は本質的には「敵対関係」であるということが前提されているのに対し、道徳やマナーに厳しい集団(=人治共同体)というのは、その構成員らの関係性は本質的には「仲間関係」であるということが前提されているのである。

そして、壁や仕切り、あるいは駐車場の白線といった広い意味での「線」は、人と人、あるいは個人と集団を分け隔てる存在である。したがって、集団内に存在する「線」を明確にしない集団というのは、その集団の人と人、あるいは個人と集団は分け隔てられるべきではないという前提に基づいた掟・原理が存在しているといえる。

たとえば、その集団の成員たちの間で何らかの対立が生じた際には、いかにしてそれを係争問題として取り上げ、公正・公平にその問題を解決するかということに焦点を置くのではなく、いかにしてそもそもその対立自体を発生させないようにするかということに焦点を置いているといったふうにだ。

話を戻すと、私に「嫌な予感」がしたことの核心とは、当校の駐車場の「線」が薄汚れているのを発見して「人治共同体であることを予感したから」ではない。

ポイントは、線が「引かれていること」ではなく、引かれた線が「薄汚れていること」にある。

このことは、論理的には、本来ならば問題として取り上げ、解決しなければならないはずの学校成員間の係争を、その解決に当たるべき者(教員)たちがその存在を否認・無視している、ということを示唆している。

いわば、集団の成員間における敵対性の存在を否認しているということであり、換言すれば「個人」や「公共」といった概念を敵視しているということである。

それにより、私が入学してからどんなハラスメントを受けたのかについては、次回以降記事にする。以上。





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