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曽祖父の会社~栄枯盛衰編②~ 田中氏(仮名)のこと

実は今回この記事を書こうと思った原動力となる思いがもう一つある。
三年で辞めてしまった、日本でも有名な経営者、田中氏のことである。名前の部分はフィクションにした。またまた、私の勝手なつぶやきだと思って大目に見ていただけるとありがたい。

一般的に学生から初めて社会人になったとき、全てが初めての事、壁にも沢山ぶち当たるが、そのころ経験した事が自分の血となり肉となり、その後社会人として働くための礎となったりもする。

だから振り返ればあの時良い経験をさせていただいた。あの時があったからこそ今の自分がある。また、研究の場を松工業に置いていたのだから、戦後で大変な時期だったけれど研究できたことへの喜びなどどこかに記載はないものか。

松工業の創業者と遠いけれど、少しは血の繋がりのある私としては、勝手ながらそんな欲が出てしまう…。どこかにこの初めて勤めた会社に感謝する一文は無いだろうか。その思いを原動力として、今できる限りの本を探した。京都にも出向き、あまり出回っていない田中氏がのちに設立した京会社の社内報も見せていただいた。

結局のところ、本当に限られた時間で少しの本しか読みきれてはいないのだが、その数少ない本の中にも当時の松工業の事が書かれている部分があった。
曽祖父のいた頃の松工業は、今や有名となった田中氏が大学卒業後初めて入った会社。彼は松工業に3年間いたことになる。田中氏が4年目に課長になったころ、当時の部長や労働組合と仲が悪くなりはじめ、松工業を辞めてしまうことになる。自分の研究に試行錯誤していると、お前には無理だ、などと当時の部長に言われて受け入れてもらえない。また、研究の手柄を引き継ぐから田中氏にはこの研究から退くようにと言われたり、労働組合員から狙われて痛い目にあった不憫な記述もある。やはり、決して松工業のことは褒められてはいない。

九州男児ゆえの決して意見を曲げない所、悪いものを良いとは消して言わない気持ちの強い部分も拝見することができ、そうそう松工業を良くは言ってもらえないな…。また、時代背景や会社の環境によるもので私は少しも係わっていないのだが、なんだか本当に申しわけない気分になり、その時の経験を良く言ってほしいなんて、勝手な願望は胸の奥にしまった。

しかし月日を重ねた田中氏の著書より嬉しい解釈がなされている部分があった。

「もしあのとき、いい会社に入っていたら、その後は全く違った人生を送っていただろうと思います。哲学的なことにも、それ以上は傾かなかったでしょう。大企業のエリート集団の中で一生懸命にやっていたはずです。

ところが私のケースでは、過酷な環境を生きざるを得なかった。そして幸いにもその環境を乗り越えていくために自分自身を鍛えることになり、それが立派な哲学を身に着ける糧になったと思っている」
と話している。

また、ある所には
「『なんでこんなにいっぱい苦労をしなければならないのか』
と恨み節を口にしたこともありましたが、いま改めて考えてみますと、手を合わせて拝みたくなるくらいの素晴らしい逆境を与えてくれたと思います。
苦労に直面すればそこから逃げるのではなく、真正面からそれを受け止めて自分の糧にしなければならない。苦難は受けとめ方によって、マイナスにもなるしプラスにもなると思うのです」
と話されています。
あの時の経験を、良くとらえてくださっている。なんというありがたいお言葉なのだろうか。私は嬉しくて仕方がなかった。

この文を読んで私は気づいたのだが、自分が逆境の時には、それどころではなく受け止め方などは考えたこともなかったが、確かに、何事も真正面から経験を受け止めないと、その結果は自分のものにはならない気がする。自分のものにするほどに悩んで悩んだからこそ、その結論は自分にしっくりくと馴染み、納得いくものとなる。

他の偉人達もそうだ。若い時やそのあとも、どうにもならない、なぜ私に?と思うような過酷な経験をした後に、偉くなっているケースが多い。誰もが経営者として成功する可能性を持っているのではなく、その過酷な運命を共にする宿命を背負ったものしか経営者にはなれないのかもしれない。と、田中氏の事を書いた別の本の中でも、その著者は書いている。

人生のステージのレベルが全く違うので書こうか迷うところだが、私の人生の中でも忘れられない苦しい経験があった。

父方の家訓に個人事業主には遣われない方が良いというのがあった。私の父は個人事業主であるが、人を雇ったり、雇われたりは最たる苦手なので一人で全て仕事は行ってきたが、ずっと一人でやってきたのには、やはり家訓の影響もあるかもしれない。

個人に遣われると、逆らえず自分の考えを曲げなければいけない。どんなに嫌な仕事でも断ることができない。そんな環境に身を置くのは良くない。という意味での言葉。自分の意思や考えの芯の部分がしっかりした家系なので、どうしてもその部分は譲れないと思って祖父から常々言われてきた言葉。

ずっと私も思っていたけれど、子育てをして自分も随分丸くなり、嫌な仕事でも多少の事は出来るようになったし、子供のためなら、相手が間違えていて、はらわたが煮えくり返るくらい頭にきていても謝れるようになっていた。ただ怒りが絶対に顔と目には出ていると思うのだが…。(笑)

このくらい平気で生きていけるようになっていれば、近所の個人事業主のもとで働いても良いか、と軽い思いで自転車で10分の開業医のもとで医療事務として働いた。(当時は資格なしでもできる部分を仕事にして)

医療という特有の世界に飛び込んでしまったのが、そもそも間違いだったのか、その個人事業主にあたる医者はとにかく変わっていた。自分では常識はある方だと豪語していたが、私と相性が合わないと最悪な毎日になってしまう。

私はデパート出身。この場だけだし、言わせていただけたら接客の鏡。(笑)その丁寧な接客があだとなる。こんな事ってあるのか?世の中は丁寧で悪いことなんてないと思っていたので、驚いたし、自分の今までの仕事で培ってきたものを全否定されたのだから結構落ち込んだ。詰まるところ、医療の世界で丁寧すぎてなめられたら、医療ミスだとクレームをつけられやすいのではないかという院長の不安からくるものだった。もしかしたら医療業界では当たり前のことかもしれないので、その場合は私が無知だったという事で、大目に見ていただきたい。
でも当時は私の腹の中で、あの人は間違えているけど仕方がない、と思うしかない。変わった先生だったので他にも数えたらきりがないが、とにかく自分を曲げてまであの場にいるのが苦痛となり、1年頑張ったけれど辞めてしまった。

もう一つ、その後に友達の看護師の働いている開業医のもとで働いたこともある。もういい加減この業界は合わないのだからやめればよかったのだが、この時も知り合いもいるし大丈夫だろうと思って働いた。

ここでは3人の事務員の人間関係が、外からは見えない3人だけの中で行われているという事。とても閉鎖的だ。
先輩は常に自分は医者によく見られたいと思っているし、新しく来た新人さんを初めからいじめにかかる。どうでも良い小さいことを注意して、それもたいそう怖く。私は怖すぎてビクビクしてしまい余計間違えるという悪循環。

その時通信教育で、医療事務の資格を取り終えたが、資格のないその先輩には怖くて言う事も出来ず、また、その方の境遇があまり良くなかったのか、毎日の生活や今までも苦しそう。私みたいに知り合いのつてで、面接はあったものの守られてはいってきた人への妬みがすごかった。

とにかく、私の過去の仕事や境遇を、悪いものだと否定して唱えている。これから先もうまくいくはずが無いと、本当に驚くくらい決めてかかって唱えている。この毎日呪文のように唱えていることが、本当に私の体と心には良くなかった。

そして極めつけが、雇った側から辞めさせることは法律上できないはず。でもこの開業医の方は知らなかったのか、私に辞めてくれと言ったのも驚いた。どう考えても先輩の方が悪いと思っていたから。

これにはさすがに参ったが、毎日その環境にいると自分もそれが当たり前になるというか、ずいぶん洗脳されたのか普通の仕事に付くことも怖くなり1年位どの職種でも怖くなり、仕事に就けなくなった。
それこそ、真面目に人に意地悪もせず生きてきた。むしろ、いじめられている子に堂々と話しかけたり、物を貸してあげたり、あまり気にせずその人を守ってあげた。そのことを、後になってお礼を言われたりするほど、理不尽ないじめや嫌がらせに関しては腹の底から嫌いだったのだ。

だからなぜ私がこんな目に合うのかと考えだしては止まらない。やったことが返ってきたのなら納得がいくのだが、やったことの無いことが返ってきたのだから、どうしても納得ができず、家で考えては泣いての日々。本当に暗くて子供や家族には申し訳なかった。

でも、1年そんな日々を通して、職業訓練でも好きなモノづくりを教えてもらったり、何とか今は普通に過ごせるようになった。あの時の助けてくれた人々にも感謝です。

えっ…、でも田中氏の言うようにあの時の経験が自分を鍛えた?
手を合わせて拝みたくなるくらいの素晴らしい逆境を与えてくれた?

自分で納得しないと前には進めないので、1年一生懸命なぜなのかを考えては泣く日々だったけれど、自分で出した結論は、相手のせいでも自分のせいでもなく、運命という流れの一部だったのかな、というもの。本で買った占いから、その時期は試練の時期だったかな…?もう忘れるくらいに回復できているのだが、原因は私の中にもなく、どうすることもできない流れの一部だったのだろう…という漠然としたもので納得していた。

それを、手を合わせて拝みたくなるくらいの素晴らしい経験かぁ。あの時の経験が自分を鍛えてくれたと、とらえるのか…。それにしてもそれは、すごい考えだな…。
経営者になりたいわけではなかったので、初めて読んだ田中氏の何冊かの本からこんな目からウロコのお言葉を頂戴できるとは…。あの時納得した自分以上に、初めてもう一つ上の新たなステージへ上がれそうなありがたいお言葉だった。

当時、自分なりに納得して前に進み思った事は、言葉で人を傷つけないということ。後遺症が一年も残る言葉なんてもってのほか。昔の自分がいじめから人を守ること以上に、悩める人を励ましたいという気持ちは強くなったかもしれない。

この納得した自分の気持ちよりも、田中氏のお言葉でもう一つ上のステージに上がれるとしたら…。
ちょうどフリーライターを目指して会社のサラリー生活を辞めようと思っていたところ。今後やるであろうライター業でも、この気持ちを活かせて行けたら良いな。いや、あんな思いをしたのだから、必ず人のためにこの気持ちを使っていこうと思う。必ず活かして見せます!
そんなことを思ったら、急に自信がわいてきて、ちょっとワクワクが止まりません。(笑)

最後に、本当はこの事にもう少し文字数を使おうと思っていたのですが…。
もう一つ田中氏が、松工業に三年間いてくださって嬉しかったことがある。

当時、松工業で寝食を忘れて研究に没頭していた頃。会社に寝泊まりをし、食事もおろそかになっていた。ところがある時から自分の席に体を案じた同僚からお弁当が届くように。初めは誰からの者か分からず食べていたが、そのうちそれは同僚の女性からだと分かる。後に聞いてみたら、あまりにも可哀そうだったから、とのこと。

自分のやるべき研究に没頭するあまり、寝食を忘れて働いても良しとしている田中氏の働き方は、労働組合側からすると面白くない。会社の事や仕事のためを思うと、この働き方を変えている場合ではないので、田中氏はそのままの考えを貫き、同じような形で働き続けていた。この潔い考え方が原因で、その後労働組合の全ての人を敵に回すことになった。
正しいことを言っても、行っても誰もついてこない孤独感、恐怖感の中、高い壁をのぼっていた感覚。その時信じられた唯一の人が、後に妻となったお弁当を作ってくれていた女性なのである。

また、この部分を読んだ時も、私は嬉しくてたまらなかった。本当に松工業で働いてくださってよかった。こんな素敵な出会いがあってこんなに嬉しいことは無い。本当に心から良かったと思う。
また、松工業であった辛い経験だけでなく、真の信じられる人を見つけられたのだ。私から申し上げるのは本当に恐縮なのだが、心からおめでとうございますとお伝えして、お祝いしたいくらいだ。

二人は同時に松工業を辞めて、その次の日にケーキとコーヒーでお祝いをしたそう。松工業を辞めることにより結婚も早めたそうだ。そして、田中氏はその後、自分の能力を世に試すべく自分の会社、京会社を設立。その自分の会社のモットーは「人の心をベース」にして建てたという記述もあった。やはり松工業での辛い経験をもとに、ご自身の会社をより良いものにすると誓って建てられたに違いない。

私は田中氏の身内の方以上に、彼女との出会いから結婚、そして京会社の設立を嬉しく思っている気がする。

また曽祖父の顔が脳裏に浮かぶ…。もうあきれて言葉にもならない様子で私を見ている。でも、眼だけは少し嬉しそう。この時代を生きていたのだから田中氏の力強い努力も近くで見ていただろう。でもどうすることもできなかった時代の流れや会社内の空気もあり、職場環境を良くすることも出来ず、辞めようとする彼を止めることしかできなかったかもしれない。もちろん彼が辞めることは松工業にとっては無念と落胆しか無かっただろうから、私のように、心からおめでとうなどと言って飛び上がって喜んでいるような平和な時代でもない。粛々と自分のやるべき仕事に戻っていたのだと思う。

それから約70年の月日が流れ、ひ孫の私から曽祖父に代わって、もう亡くなられてしまわれたが田中氏にお祝いの気持ちを伝える。当時は曽祖父は口数も少なく、何も伝えられなかったかもしれない。助けられなかったかもしれない。でも、根底に流れるものは田中氏と同様、真面目で日本のため会社のためを思う魂を、腹の底に持ち続けていたはず。
そんな曽祖父に代わって私はお伝えしたい。私は全く当時を生きていなかったからこそ軽いかもしれないが言えてしまう。
そんなミラクルな経験も出来てしまうなんてちょっと面白い。

「松工業では辛く大変だった経験が多く、その経験を知れば知るほど、私の心は痛みました。でもそんな中3年間も耐えて一緒に松工業で働いてくださりありがとうございます。松工業を去ってしまう…その決断は私たちからするととても悲しいものですが、当時の松工業での経験を良いものとして京会社にも活かしてくださって本当に良かったと思います。そんな大変な経験を良いものに変えたのは田中様の強いご意志とたゆまぬご努力が、あったからこそと思います。僭越ながらこのお手紙にて私の気持ちを伝えさせてください。
そしてこの場で誓わせてください。私も後に続いて頑張ります。」

また曽祖父の顔が脳裏に浮かぶ…。今度は顔全体が嬉しそうに微笑んでいる。そして温かい目で私を見守ってくれているのだ。

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