応援の話

かつて岩手(東北?)の高校では、新年度のスタートとともに「恐怖の」応援歌練習が行われた。新入生に応援歌を教えるための行事なのだが、これがものすごく怖かった。おどろおどろしい太鼓が鳴り響く体育館で応援団にならい声を枯らして歌っていると、うろうろ歩き回る上級生が何度も目の前にやってきて、いくつもある応援歌の歌詞を訊ねてくるのだ。

3年生「応援歌3番!!!!」(なぜか怒っている)

新入生「わかき血潮の…たぎる…丘? われらの意気は…天を…てんを…」

3年生「聞こえなーーーいっ!!!!」

元々あやふやなのに輪をかけて、恐怖が脳をフリーズさせる。ひとしきり怒鳴られた挙句「前に出ろ!」と言われる。狂気の大合唱を繰り返す新入生たちの前に、半泣きで正座して歌詞を読み上げる生徒が並ぶ。物を覚えるのにこれほど向かないシチュエーションがあるだろうか。思えば窓には暗幕を張って、のどかな春の陽光までシャットアウトしていたような記憶がある。まったくひどい話だ。

応援といえば、昨年、生まれて初めてのフルマラソンに挑戦した。地元で開催される第一回の大会で、沿道には沢山の人たちが集まっていた。

大きな大会なので仮装で参加する人も多かったようだ。しばらく隣り合って走ったセーラームーン姿の男性なんかはものすごい人気で、ちょっと妬ましいくらいに声援を独り占めにしていた。あれを味わってしまったらそりゃあやめられないだろう。ただでも辛いマラソンを、どうして彼らはわざわざ走りにくい格好で挑むのか。おかげで長年の謎が解けた。

実際に走ってみるとわかるけれど、マラソンほど応援がはっきりと力になる競技はない。見知らぬ子供に「がんばれー」なんて言われて手を振り返すだけで、「もう歩いちゃお…?」という心の誘惑はちろん、足の痛みまできれいさっぱり消え去って、なんならスピードだって持ち返す。あれを声援ゼロ、応援なしで走ったら、コースはあっという間にランニングシューズを履いたカラフルなゾンビで埋め尽くされるはずだ。紙ぺら1枚の完走証に飢えた生ける屍。おお怖い。

そんなわけで沿道の力を借りまくった僕も、なんとかゴールまで1、2キロというところまで辿り着いた。疲れと痛みがピークを迎え、「あと少し!」「がんばれ!」という声援に押されてどうにか前へと進む。そんな限界ギリギリの奮闘を続けていると、目の前にランナーを拝むようにして優しく声を掛け続けるひとりのお婆さんが現れた。

「ありがとう。おかげで1日楽しませてもらったよぉ。本当にありがとうね」

4時間近くも自分に喝を入れ続けて疲労困憊した心に、彼女が放ったまさかの労りがズブリと刺さる。どっちかっていうとお礼を言うのはこっちなのだ。見ず知らずのランナーを、なんの見返りもなく応援してくれるだけでありがたいのに、おばあちゃん、あなたって人は…。その無垢な御心に打たれ、鼻の奥がツーンとして力が抜ける。叱咤激励しか燃料にできない精神状態の中、突然繰り出された愛の膝カックン。まずい、このまま崩れ落ちてしまいそうだ。優しさでは尻は叩けない。まさかの落とし穴に苦戦を強いられつつ、それでも幸せな気持ちでゴールまで辿り着いた。

無事に着替えを終えて友人と合流した後は、ゴール手前で知り合いを待った。次々と帰ってくるランナーを見ていると、自然と大きな声が出る。コースですれ違った快速の韋駄天たちもかっこ良かったけれど、制限時間との闘いに走る力を使い果たしたぼろぼろのランナーにもシビれた。必死に覚えた高校の応援歌はとうに忘れてしまったけれど、応援、いいな。そんなことを感じた1日だった。

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