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Responsibility for Nothing(空っぽの責任社会)

ある天才科学者によって創り出された破滅兵器、原爆。
それが投下された日、アメリカは歓喜に沸いていた。
オッペンハイマーは祝福され、大いに讃えられた。
3時間ある映画の中で、私が覚えているのはたった1分のこのシーンだ。
彼らが何に喜んでいたのかははっきりと描かれていない。
一つはっきりと分かったのは、戦争とは日常であるということだ。


学校で第二次世界大戦を学んだとき、
戦争とは"非常事態"であると思わされていたように思う。
平和の反対語として学ばされていたように思う。
日々の柔らかな日常に突如として現れる"特殊"な"歴史的"出来事。
それが戦争であると。


だがそうじゃない。戦争とは日常であり、平和の同義語であるのではないか。
オッペンハイマーを見れば明らかだ。
彼らは戦争をしていたのではない。
仕事をしていたのだ。
原爆が何に使われるか、その殺傷能力がいかほどなのか、
彼らは確かに分かっていた。だが決してそれが原爆を造る第一目的ではなかった。
実験。科学者としての競り合い、好奇心、プライド。
戦争がなくならない理由はここにある。
生活、仕事、経済。この3つが人間社会に結びついている限り、
戦争はなくならない。戦争とは生活だからだ。
普段何気なくやっている対象が戦争に置き換えられるだけだ。



Responsibility for Nothing (空っぽの責任社会)

そして、戦争とは仕事であるからこそ責任者がいない。
仕事とはチームだ。
そこに会社員だとか自営業だとかは関係ない。
チームで動いている以上、一人一人にタスクがあり、
その全員に責任がある。逆を言えば、実は責任なんてものは言葉だけで、
私たちの社会で機能していないのが現実だ。


原爆の父であるオッペンハイマーは戦争の全責任者か?
原爆を落とせと指示を出したトルーマンが全ての元凶か?
違う。彼らはその一人に過ぎない。徴兵されて駆り出された一般兵士も、
原爆制作に携わった下っ端も、降伏に反対した国民も全員が責任者だ。
そうなったらどうだ。
誰が責任を取るのかなんて、話し合うだけ無駄だろう。
責任者なんていないのだから。

私たちは責任社会で生きている。
学校や会社で耳にタコができるほど言われてきた
"責任"という言葉。
私はずっと言語化できない違和感を覚えていた。
オッペンハイマーを観た今ならはっきりと言語化できる。

責任とは、最大の"社会保険"だ。
責任が取れる人がいないこの社会で、しくじらない為にお互いがお互いを牽制し合うための保険だ。そう思うと面白くないか?
責任とは非常に重たいもののように見えてきた。
ところがその中身は空っぽなのだ。
"しくじるなよ。誰にも責任は取れないのだから"
その程度の鉄の鉛に包まれた空っぽの責任を
私たちはずっと大切に持って生きているのだ。
なんとまあ今日までしっかり機能してきたものだ。
この世にフェイクは溢れかえっているが、これほどまでに
完璧な意味を持って役割を果たしている社会的ダミーは
"責任"以外にないのではないか。
そう思うほどによくできている。


物語終盤、天才科学者は言った。
"我は死なり、世界の破滅者なり”
映画を観終わったあと、
"戦争はいけないことだなと思いました"なんて言えるような
軽い作品だったら良かったのにと心の底から思う。
それすら言わせて貰えないほど、
あの映画はたった1分のシーンで私に絶望を与えた。

今、私はこう思う。
"オッペンハイマーは死なり、社会の破滅者なり"

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