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第二の故郷(ふるさと)

飛騨の地
自己紹介にて少し触れましたが、入社後から約一年岐阜・高山にて生活をしていました。わずか一年の生活でしたが、社会人として初めて仕事をし、一人暮らしの日々を過ごしたとても思い入れのある土地なのです。
当時は観光写真現場で、観光のお客さんが相手であり当然土地のことを尋ねられることが多く、調べ事も度々していました。離れてからも登山なり温泉なりでちょくちょく遊びに行きますが、図書館をウロウロすることもあります(流石に登山の時はしませんが)。専門分野にかなり偏りがありますが、今でも案内ができるかも。
また、調べてみると地元であり今も暮らしている滋賀と高山の関連性も見えて面白いです。まあ今回は観光案内みたいなものです。ちなみに行政区分の名称は、高山を「飛騨」滋賀を「近江」と旧国名で表記する方が案内上適当な感じがするので、以下そのように表記します。

政治史と文化から
中世の政治史を見ると、近江ゆかりの為政者が多く見つけられます。室町時代初頭に近江の守護職であった佐々木氏が飛騨の守護職を兼ねると、その後も飛騨の地において一族が長く統治を司ります。戦国時代に守護の力が衰退し、佐々木氏の末裔であった三木氏が羽柴秀吉傘下の金森氏に攻略され、守護家・佐々木氏の流れを組む統治は終焉を迎えました。ところが、変わって飛騨の領国統治を担った金森氏も近江にゆかりを持っています。飛騨へ入府した金森氏の初代国主は金森長近ですが、もとは美濃・土岐氏の一族で、長近の父・定近の代に美濃を離れ近江・守山(金ヶ森)へと移った経歴がありました。長近は、織田信長の下で守山新興に尽力の後、羽柴秀吉の傘下となり飛騨の地に入ることとなったわけです。
飛騨と近江は険しい山脈に阻まれていますが、東山道(飛騨へは支路・位山道)を経由し都(奈良、京都)へと繋がり、古来より文化の往来が行われていました。律令時代に庸・調(※1)の免除し代わりとして、匠丁として職人が徴発された技術力は飛騨匠として後世にも広く周知されています。近江における紫香楽宮造営、野洲・三上神社、甲良・西明寺の建立に飛騨匠が従事した記録が残っています。
さて、飛騨匠の技術力が豪華絢爛の「屋台」に見られる春・秋の高山祭(春の山王祭、秋の八幡祭の総称)は飛騨における最も有名なものの一つ。春に行われる山王祭は、高山城下における安川通り以南の氏神を司る日枝神社の例祭のことです。日枝神社は、永治元年(1141)三仏寺城(高山・三福寺)城主・平時輔が近江の日吉大社より日吉山王宮を片野・石浦境の山上に勘請し創建されました。その後焼失し御神体が他所へ移転されるのですが慶長10年(1605)に前述の金森長近が飛騨統治に際し高山城を築城、その鎮守として奉遷し現在に至っています。その後に生まれた祭の起源は定かではなく、また「屋台」が登場したのは江戸時代中頃のようです。
ちなみに金森氏は、元禄5年(1692)に徳川幕府より突如転封を命じられ飛騨統治に幕を下ろすことになります。

繋がっている
毎回のことながら、ざっくりばっさり。大丈夫なのか。
別段、飛騨と近江における特異性の話ではないのです。どこでも繋がっている、という話です。
梅雨前線の停滞は各地に被害をもたらし、高山の被害も伝わってきます。Masaの希薄な人間関係の中でも知己(※2)を得ることもあり、彼の地にも居る。「大丈夫なん?」と連絡して「このままなら大丈夫のはず」とのことでとりあえずは安堵。全国においても少しでも被害が小さくと願います。
第二の故郷を思ったりする今日この頃です。

では、また。

Masa

※1 税制度。労働力と繊維、地方特産物を意味する。
※2 知己・・・しゃあないやつやな、とわかってくれている人。です。

参考文献
高山市編集(1981年4月30日)『高山市史』上(復刻版)
高山市教育委員会(2017年3月)『高山市史』金森氏領国時代編(上)(下)高山市史編纂資料 第63号1、2
高山市「高山の見どころ」(最終閲覧日:2020年7月13日)
飛騨山王宮 日枝神社 (最終閲覧日:2020年7月13日)
JTBパブリッシング(2016年8月1日)「マニマニ 飛騨高山 白川郷」中部⑥

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