【映画】「ピアノ・レッスン 4Kデジタルリマスター」感想・レビュー・解説

何も知らずに観ていたら、もしかしたら、「男の妄想」みたいな捉え方をしてしまっていたかもしれない。ただ本作については、たまたま、「監督であるジェーン・カンピオンが、カンヌ国際映画祭で女性監督初のパルム・ドール受賞を成し遂げた」という情報だけ知っていた。「女性が撮った映画」ということを知った上で観れたのは良かったかなと思う。

まずはざっくりと内容紹介から。

物語は、1852年のスコットランドから始まる。一人娘のフロラを育てる未亡人のエイダは、父親が決めた結婚相手の元へと嫁ぐためにニュージーランドの孤島へとやってきた。彼女は6歳の頃から自発的に喋ることを止めた。理由は自分でも分からないそうだ。ただ、後に娘が、かつて母親が言っていたこととして、「聞くべきおしゃべりは少ない」と話していた。

エイダとフロラは、大量の荷物と共に、1台のピアノも持ち込んだ。彼女は、「自分に声が無いとは思っていない」と考えているのだが、その理由がこのピアノだ。彼女は、ピアノを通じて雄弁になる。だから彼女にとってピアノは、何よりも大事なものだった。

孤島の浜辺に下り立った2人だが、天候のせいか迎えが来ず、荷物を浜辺に散乱させたまま一夜を過ごすことになった。翌日、先住民の荷物運びを連れた、彼女の夫になるスチュアートがやってきたが、彼は「あまりにも運ぶのが大変だ」とピアノを浜辺に置き去りにしてしまう。

スチュアートの家は、沼地を超え、山を登った先にあり、ピアノが置かれた浜辺に自力で向かうことは難しい。そこで、近所に住む、先住民との通訳を務めるベインズに「浜辺まで連れて行ってほしい」と頼む。最初は渋っていたベインズだが、結局2人を浜辺に連れて行った。そこで、それまで黙りこくっていたのが嘘のように生き生きとピアノを弾く姿を観たベインズは彼女に惹かれてしまう。

そこでベインズは、スチュアートとある交渉をする。自身が持つ土地とピアノを交換しようと持ちかけたのだ。こうしてピアノを手に入れたベインズは、エイダにピアノのレッスンを頼むという名目で自宅に呼んだ。そして、「1回のレッスンにつき、鍵盤を1つ返す」と約束し、自身の思いを遂げようとするのだが……。

設定としてなかなか凄まじいと思ったのが、エイダとベインズがピアノ・レッスンをするに至る過程だ。1852年という舞台設定、孤島の山奥に家がありピアノを運べなかったという事情、妻の持ち物を夫が勝手に処分出来てしまう時代背景、ピアノを弾く以外に自己表現の手段がない主人公、などなど、かなり色んな要素を積み上げることで成立している状況で、まずこの状況を作り上げたことが見事だと思う。普通にはこんな設定、リアルには成立しないだろう。

そして、そんなムチャクチャなやり方で始まった2人の関係性の展開もまた、なかなか驚くようなものだ。正直僕はこの点が、「女性監督だと知らなかったら、『男の妄想』だと考えていた部分」である。「そうはならんやろ」と感情的には思うのだが、しかしまあそれは人それぞれだ。そうなったというのなら、それでいい。

その展開をリアルなものに感じさせるのが、これまた当時の時代背景だろう。「父親が決めた、会ったこともない人物と結婚させられる」「命の次と言っていいぐらいに大事なピアノを浜辺に置き去りにされる」「あまつさえ、そのピアノを勝手に土地と交換されてしまう」など、エイダの「自由意志」はなんの意味も持たない生活を送らざるを得ない。6歳の時に喋るのを止めた理由は分からないにせよ、その後ずっと喋らずにいた理由には恐らく、「許容できない社会的な抑圧への抵抗」みたいな感覚があったのではないかという気がする。

エイダがどの瞬間に心が入れ替わったのか、その辺りのことは正直僕には掴みきれないのだが、その気持ちを後押ししたのは間違いなく、このような「抑圧に対する鬱屈した気持ち」だっただろう。

そしてなんというのか、そういう捉え方をすると、一層、「このような形でしか『抑圧』に抵抗出来ない」という点に、虚しさみたいなものを感じさせられる。「そういう時代だった」と言えばそれまでなのだが、そういう時代にあって、かなり無謀な「抵抗」を続けるエイダの姿にグッと来る人もいるのではないかと思う。

正直、「メチャクチャ良かった」みたいな感じではないのだが、どことなく惹かれる作品ではあった。あと、全体的に、娘のフロラがとても良かったなと思う。


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