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【本】三島邦弘「パルプ・ノンフィクション 出版社つぶれるかもしれない日記」感想・レビュー・解説

読み始めてしばらくの間、「なんだ?この本」とずっと思いながら読んでいた。


なんちゅーまとまりのない本だろうか、と思った。


何が書いてあるかはもちろん分かるけど、それがどうした、という感じだった。


「タイトルだけ頭に降ってきたから、とりあえずまえがきを3つ書いてみた」とか、「忍者が菌を使って忍びの世を生き抜いていた」とか、なんだそれ、という感じだ。


正直、半分ぐらいまでは、これはちょっと無理ある本だろ、と思いながら読んでいた。

しかし、中盤ぐらいから少しずつ、なるほどな、と思い始めてきた。


それは、書かれている内容にまとまりが出てきた、ということではない。


内容は、相変わらず混沌としている。なんのこっちゃ分からない、ということに変わりはない。

ただ、混沌として、なんのこっちゃ分からないのは、当然なのか、と感じたのだ。

僕は理系の人間だったので、歴史には不真面目な生徒だったが、しかし、教科書に「歴史的事実」が書かれている、ということは知っている。そこには、「◯◯のせいで△△が起こり、それを✕✕で抑え込んだが、その時の禍根がその後の▲▲に繋がった」みたいなことがもっともらしく書いてある。

しかしそれは、その歴史的事実よりも大分時間が経って、振り返ってみたからこそそう記述出来るのだ。

例えば、まさに現在信仰の出来事を記述するとしたら、どうなるだろう?韓国でデモがあったり、北朝鮮が飛翔体を飛ばしたり、サウジアラビアのジャーナリストが総領事館で殺害されたりと、後に歴史の教科書に載るかもしれない出来事は様々に起きている。しかし、今それらを、歴史の教科書に載せられるように正しく順序よく記述出来るだろうか?

無理だろう。

本書は、それと同じことをやろうとしているのだ、ということに途中で気がついた。だから、混沌は当然なのだ。著者は、出版業界において、誰も踏み入れたことのない荒野へと突き進もうとしている。まさに、その挑戦の最中なのだ。だから、彼に出来ることは、彼がその時々で感知したものを記録していくことだけだ。それらを、意味のある形に繋げて解釈を施すのは、後にその道を通る誰かの仕事なのだ。

と思いながら読んでいると、巻末に著者自身が同じようなことを書いていた。

【定義とか、したくないんです。
ある言葉を定義する。それを土台に話をすすめる。
これが、正しい論の進め方とされているのは承知だ。だが、これはアスファルトの道だけがただしい、と言っている感じがしてならない】

【そして忘れてはならないのは、走りながらしか考えられないのだ。答えがない時代に生きているのだから。そんな時代に生きて、手探りで、先が見えないまま走り、それでも何かをつかもうとして、つかみ、つかんだと思ったら手からこぼれおち、そうしたことをくりかえしながら言葉ができる。できたと思ったら、また思わぬ方向へ動き出す。
生きた言葉であろうとすれば、定義なんぞできるわけがない】

(まあとはいえ、忍者の話は要らなかったと思うけど…)

本書は、著者の迷走の軌跡である。そして、「迷走したという記録を明確に残しておくため」に本書は出版されているのだろう、と感じる。言わば、行き止まりの場所も著した洞窟の地図のようなものだ。そっちに進むとどう行き止まりなのか、あっちに進むとどう立ち往生するのか、書いてくれている地図だ。

残念ながら、宝の地図ではない。しかし、著者が親交を持つ装丁家の寄藤文平氏の、こんな言葉印象的だ。

【ミシマさんが大きくふりきって走ったとき、大きくは、そっちに何かある。それは間違いないと思います】

著者は、ミシマ社という中小出版社の社長だ。彼には経営に関する確固たる仮説があった。それは、

【おもしろい本を出す。それを届ける。さすれば会社は必然まわっていく。太陽が昇り、太陽が沈む。雨が降り、川が流れる。やがてその流れは海へ。自然の運行と同じこと】

事業計画の立て方も決算書の読み方も分からない「編集バカ」が、それでもこのムチャクチャな仮説だけを手に、長らく「不況」と言われ続ける業界において、10年以上も会社を存続させてきたのだから、そういう意味で、彼の直感力には「何かある」と考えてもいいのかもしれない、と思わされはする。

著者には、狭義のビジョンと、広義のビジョンがある。
狭義のビジョンは分かりやすい。それは、「ミシマ社という出版社を、楽しく面白いことができる環境のまま存続させる」ということだ。
そして広義のビジョンは、「出版を、本を、未来に残すこと」だ。

著者は冒頭から、意味不明な言動を連発するが、しかしその根底には、この2つのビジョンが常に横たわっている。この2つの実現のために何が出来るかを四六時中考え、そのために、酒蔵にも、神社にも、周防大島にも行く。一般的に「出版」と関係するだろう場所以外にも、どんどんと首を突っ込んでいく。そういう過程で、見えてくるものがある。

著者は、様々な右往左往をする中で、2つ重要な見地にたどり着く。1つは、「困難は、歴史をたどり直すことで乗り越えられる可能性がある」ということ。そしてもう1つは、「日本の出版業界には、たどり直せるような歴史が存在しない」ということだ。ある酒蔵で、「ごせんぞ」という言葉をたくさん聞いた著者の、こんな文章は、非常に印象的だ。

【なにか見えない大きな存在に守られている。その感覚がないと、仕事で結果が出たら、すべて俺の手柄。俺の実力になってしまう。
成果主義が蔓延したとき、そっちに思いっきり流されたのは、あるべきものがなかったから。恐れ慄くもの。そうしたものがあるだけで、たやすく「自分さえよければいい」とはならずにすむのではないか。「そっち」へ流される歯止めとなるまいか。
先祖とのつながり、先達からの継承。その流れに今、自分がいる。いま、自分もその流れの一部になろうとしている。
このような感覚が、エゴの暴走を抑制する。
すくなくとも、自分の仕事が神事のひとつである。そう感じることができれば、悪事を働こうという意識が薄れるではないか。日々を謙虚に働こう。自然とそう思えるだろう】

出版となんの関係があるんだ?と思われるだろうが、そもそも本書は、出版とは関係なさそうな記述ばっかりなんだから問題ない。こういう感覚を得た上で著者は、自社の組織変革について、紆余曲折を経た上であるやり方にたどり着く。

ちょっとした贈与経済の循環の仕組みを、会社に持ち込んだのだ。

その仕組みそのものは、説明がちょっと煩雑なのでここでは省略するが、「自分の働きによって誰かの給料が生まれ、誰かの働きによって自分の給料が生まれる」ということを「見える化」した、と表現するのが早いだろうか。

僕は、本書の中で一番面白いと感じたのが、この組織変革の話だ。

本書にはそうは書かれていないが、僕は、この贈与経済を組み込んだ組織変革は、当初から「洋紙」を使っていたために「先祖」を持ち得ない出版業界や、自身が創業者であるために「先達」を持ち得ないミシマ社が、「なにか見えない大きな存在に守られている」という実感を擬似でもいいから持ち、「エゴの暴走を抑制する」ための面白い方向性なのではないかと思う。もちろんこれは、小舟(小規模な会社)だから可能なやり方だろうが、出版業界はそもそも小規模な会社が多い。単なる猿真似では失敗するだろうが、採り入れてみたらうまくいく可能性はあるのではないかと思う。

【組織になったとたん、個人の意見がまるでなかったかのようになり、機能停止に陥ってしまう。
個人の問題意識が、個人に閉じられたまま、現場に反映されない。組織としての動きにまで高まっていかない。そうして、現場が居着き、トップの判断を待つだけの組織に成り果てている。
かくして、未来が漠然と奪われていく。】

本書は、出版業界やミシマ社についての話だが、この文章は、どんな会社であっても心当たりを感じざるを得ないものではないかと思う。著者は、出版と自社の未来のために右往左往する中で、結局、出版や自社だけに限らない普遍的な問題にぶち当たる。

それは、本書の言葉を使って端的に説明すると、「マグマ」だ。熱量、ということだ。

そもそも個人に熱量がないなら、それは話にならない。しかし、個人が熱量を有していても、組織になった途端消し合ってしまうかもしれない。あるいは、あまりにも熱くなりすぎて新人が入り込めないかもしれない。あるいは、熱がバラバラに点々としているだけで大きなマグマになりきれないかもしれない。

だから著者は、個人が持つ熱量を、組織として正しく的確に掬い上げる仕組みこそ、何よりも大事なはずだ、と直感するのだ。本書は、そういう直感に至るまでの著者の迷走が記録されていると思ってもらえればいい。

とはいえ、著者の迷走は、間違いなくこれからも続く。「走りながらしか考えられない」のだから。これからも正解かどうか分からない道に飛び込んでいくことだろう。彼をどう評価するかというのは、別の人間の仕事だ。10年後、20年後、著者の迷走にどんな意味があったのか分かるだろうし、その時には、ミシマ社も出版業界も世の中も大きく変わっているだろう。

未来の変化を認識するためには、「今」と比べなければならない。その、比較対象としての「今」を、壁にぶつかりまくりながら可視化してくれる一冊だ。


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