【映画】「ニトラム/NITRAM」感想・レビュー・解説

凄い世界観だった。映画を観る前の時点で、「オーストラリア史上最悪の銃乱射事件の犯人を描く」という情報だけは知っていたから、「最終的にこの主人公がどうなるのか」という結論は分かっていた。しかし、もしそれを知らずに観たとしたら、この映画が放つ「異様さ」をどう受け止めていいのか分からないまま映画のラストシーンに連れて行かれることになっただろう。

それぐらい、「いつどこで何が起こってもおかしくない」と感じる、「常軌を逸した世界観」が現出する。

一番衝撃的だったシーンは、主人公のニトラムの元に母親がやってきて、「父親が会いたがってる」と告げ家まで連れ戻した後の場面だ。父親は、自宅のソファで体調が悪そうに横になっている。ニトラムは、基本的に常にどのような感情でいるのか理解しがたいが、恐らく、父親を心配するような気持ちで寄り添っている。しばらくそのような、「不調の父親を心配する息子」という映像が静かに続く。

しかしその直後、ニトラムは唐突に父親を殴り始める。「父さん、起きて、起きるんだよ」と心配そうな声を出しながら、「叩く」ではなく「殴る」と表現すべき力で父親を何度も殴る。父親は、「分かった、約束する、起きる。起きると約束するから殴るのを止めてくれ」と叫ぶが、ニトラムは手を止めない。父親は、殴られ続けながらなんとか身体を起こし、ドライブに行こうというニトラムに「分かった、ドライブに行こう」と返す。

その様子を、何をするでもなく母親はただ眺めている。

凄まじかった。この場面で滲み出る「狂気」には、ちょっと震えた。それまでの描写で、「父親が息子を愛していること」が切に伝わる。子どもの頃から制御の利かない、かなりの問題児であったニトラムを、父親は深い愛情で受け止めている。ニトラムも、母親よりも父親の方が自分を愛してくれていると理解しており、母親の言うことではなく父親の言うことを素直に聞く。

そして、ニトラムと父親がそんな関係であることを理解しているからこそ、なおのことニトラムの殴打に衝撃を受けてしまう。

そして何よりも凄まじいのは、父親も母親を、そんなニトラムを「仕方ない」と受け入れている、あるいは諦めていることだ。観客にとっては「常軌を逸した」という風にしか映らないこの場面は、彼らにとっては「何十年も繰り返されてきた日常の一コマ」にすぎないのだ。だから父親は、息子を叱るでもなく従順に身体を起こし、母親は何もせずにただその光景を眺めているのだ。

この映画では、父親と母親のこのような振る舞いから、「彼ら3人の間にこれまで流れてきた『絶望的な時間』の堆積」が否応なしに押し寄せてくる。もちろん、ニトラムが発する狂気そのものも恐ろしいのだが、それ以上に、彼ら家族にとってはもはやそれが常態化してしまい、化石のように心が動かない、という状況に一番恐怖を感じた。

このような現実を知る度にいつも考える。ニトラムのような人間に対し、どのような形が「正解」なのだろうか、と。

事件を起こしたニトラムが、社会から退場させられるのは当然だ。しかし、こちらも当然の話ではあるが、事件を起こす前のニトラムを社会から退場させることは正しくない。彼も、この世に生を受けた1人の人格として、その権利が守られるべきだからだ。

ただ、ニトラムが社会に順応できないことは明らかだ。確かに、「社会」というのは「多数派が作ったルール」に過ぎず、そこから零れ落ちてしまう人は一定数いる。僕も、「社会」には馴染めなさを感じてしまう方のタイプだ。だから「人間は、社会に順応しなければ生きる価値はない」などと主張したいわけではない。

ただ、現実に「社会」という枠組みが存在し、そこを起点に人間の生活が成り立っている以上、「社会に順応できないこと」は実際的な問題を引き起こす。例えば私たちは、「暴力などで問題を解決する」という手段を手放す代わりに「警察権力や死刑制度などの『国家による暴力』を容認する」ことで社会を上手く成り立たせている。しかしニトラムのような存在は、凶悪事件を起こしたかどうかに関係なく、そのような社会の根底となるルールから逸脱してしまうはずだ。

そのような場面で「法治国家」はどのような対策を取れるだろうか?

このようなことを考える度に、僕は、「これは正解がある問いなのか?」と感じてしまう。もし「正解」が存在するなら、そこに至る道がどれほど細く険しくとも、その道を進むべきだろう。しかしそもそも「正解」が存在しないとしたら、このように問うことにはまったく意味がないことになる。

つまりそれは、「この映画で描かれるような凶悪事件を避けようがない世界に私たちは生きているのだ」と覚悟する、ということだ。人間による理解不能な暴力を、自然災害と同じようなものとして受け止める、ということだ。

そのような認識を、僕たちは持つことができるだろうか?

この映画は、そのように問いかけているように僕には感じられる。

内容に入ろうと思います。

先に次の点に触れておこう。通常、実話を基にした映画の場合、「この映画は実話を基にしている」のような表示が出る。しかしこの映画には、そのような注意書きはなかったと思う。

確かに映画を観ていると、「この場面は、ニトラム以外の誰かが客観的に証言を行うことは無理だろう」と感じる場面が多々ある。この映画がどのように作られたのか分からないが、「ニトラム自身の証言」に重きを置くのはなかなか困難があるだろう。

だから、全体として、想像・創作が多めの作品に仕上がっているのではないかと思うし、それ故に「この映画は実話を基にしている」という表記がされなかったのではないかと感じる。

ニトラムは、近所の迷惑ものだ。毎日自宅の庭で爆音で花火を打ち上げては、近所から怒鳴られている。両親は何も言わない。言っても無駄だと分かっているからだ。

冒頭の食事の場面で、息子に対する父母のスタンスが明確に理解できる。母親が「汚いズボンを洗濯機に入れてきなさい」と言う、父親が「そのままでいい」と言う。母親が再度ズボンを脱ぐよう促すと、父親が「行け」と短く口にし、それを受けてニトラムは食卓から一旦消える。その後母親は「食べましょう」と父親に言うが、父親は「いや、待とう」と言って息子が戻ってくるのを待つ。その後も父母は、このようなスタンスでニトラムと接する。

近所の家のドアを叩いて「芝刈りはどうですか?」と押し売りするが断られ、学校の敷地のすぐ外で花火をやって教師に怒られ、革靴のまま浜辺に立ってサーフィンをする集団を見ている。要するに、彼は何もしていない。

ある日、芝刈りの押し売りに行った家で、思いがけず暖かく向かい入れられる。ヘレンと名乗った年配の女性は、芝刈り機が動かず困っているニトラムに「明日は犬の散歩をお願いできる?」と頼み、ニトラムも彼女のためにと一生懸命に頑張る。

やがてニトラムは実家を出て、ヘレンと共に暮らすことになるが……。

というような話です。

先程も書いたが、「いつどこで何が起こってもおかしくない」という雰囲気が凄まじかった。だから、とても変な感覚ではあるが、映画のラストに差し掛かった辺りからは、「あぁ、あとはもう銃乱射事件が起こるだけだろう」という謎の安心感を抱いたりもした。それぐらい、「どんな事態が唐突に起こるかまったく分からない物語」だ。「ホラー」や「サスペンス」ともまた違った異様な緊迫感が、映画全体を完全に支配していたと思う。

映画館で見ていると、その「異様な緊迫感」が画面の外にまで染み出しているような感覚があって、自分が何かに絡め取られているような、そんな気分にもなった。

映画を観ていると、どんな狂気的な場面でも無表情で動揺を見せない母親の姿から、そのあまりの苦労が伝わってくる。彼女が一切感情を見せないからこそ、その辛さ・過酷さが伝わってくる。「感情を表に出す」という時期をとうに通り過ぎ、息子に対して感情的になることがまったく無意味であることを悟りきっている彼女の姿には、現実と向き合い続けて疲弊しきってしまった人間の悲哀が滲み出ている。ニトラム役の俳優の演技も凄まじかったが、僕としては母親役の女優の演技にも圧倒される思いだった。

映画には、ニトラムが、「今の自分にうんざりしている」と語る場面がある。彼は、常に狂気を孕んだ、普通ではない行動を取り続けるが、しかし、そんな自分の振る舞いを「嫌だ」「止めたい」と感じていることも伝わる。

ある種の犯罪は、病気のようなものなのだ、と僕は思っている。ニトラムの場合、最後の「銃乱射事件」はさすがに「病気」とは言えないが、「怒りや癇癪を抑えきれずに人やモノに当たってしまう」「他人の迷惑を顧みずに花火を上げたりクラスションを鳴らしたりする」などの行為は「病気そのもの」と言っていいだろう。薬物や性犯罪なども、「病気」としか言いようがないものもあるはずだ。

本人の、「止めたいけど自分ではどうしようもない」という感覚は、とても切実だと思う。彼が引き起こした事件に対しては、彼が責任を取るしかないのだが、そこに行き着くまでの過程にはやはり、何か出来ることがあったのではないか、と思いたい自分もいる。別に、ニトラムの両親に「もっと頑張れ」と感じているわけではない。福祉や公的な何かが手を差し伸べられる可能性はなかったのだろうか、と思うのだ。

しかし同時に、児童虐待のニュースを見て抱いてしまう違和感も思い出す。「児童相談所に相談していたが、痛ましい事件が起こってしまった」という場合に、アナウンサーやコメンテーターが、「もっと早く手を差し伸べてあげられなかったのでしょうか」みたいなコメントをするが、その度に僕は、「起こってしまった事件に対して、過去に遡って何かを言うのは簡単だが、膨大な案件がある中でそのすべてに完璧に目配りするのは無理だろう」と感じてしまう。僕が先程書いたことも、それと大差ないだろう。

ただ、映画を見る限り、ニトラムが何らかの公的な支援を受けている感じはしない。母親が、「新しい診断書がないと、援助金を受け取れない」と語っている場面があったくらいだ。お金は受け取っているが、実際的な支援を受けてはいない、ということなのだと思う。

公的な支援とまったくアクセスがなかったのだとしたら、やはり、せめて関わりやアクションぐらいはあってもいいのではないか、と感じてしまった。

映画の最後で、「ポート・アーサー事件」と呼ばれている銃乱射事件について文字で説明された。死者35人、負傷者15人(映画では「負傷者23人」と表記されていたが、公式HPとウィキペディアはどちらも15人となっている)という大惨事であり、この事件の後、オーストラリアでは銃規制の機運が高まったそうだ。事件から僅か12日後に銃規制法が成立し、国内すべての銃が国に買い上げられ処分となったそうだ。

ただし、1996年に起こったこの事件当時よりも多い銃器が、現在オーストラリアに存在するという。現実は、なかなかに厳しい。

とにかく、凄まじい映画だった。


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