【乃木坂46】文章を書くことは、煙幕にもなるー「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」を読んでー

『ここに並んだ文字を読んで、私という人間を見透かされるんじゃないか。文章を書きながらふとそう思いました。
が、読み返し、安心しています。いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』

「別冊カドカワ」で1冊丸々乃木坂46が特集された号が出た。定期的に出るようで、次号は初夏の発売予定だそうだ。

その「別冊カドカワ」に、僕がずっと待望していた齋藤飛鳥のエッセイが掲載されている。齋藤飛鳥は絶対に文章を書ける人だと僕は思っている。だから今回の機会はとても嬉しい。齋藤飛鳥は、ブログでも文章は書いているはが、全体的に「報告」感が強い。今回のエッセイのタイトルは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だ。常に内省的な雰囲気を漂わせ、自分自身も含めて様々な事柄について思考しているだろう齋藤飛鳥がどんなことを書くのか楽しみだった。

冒頭の引用は、そのエッセイの後半部分に登場する。『いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』という一文は、凄くいいなと思う。『私は私を信用していないのです。』『私は自分に自信を持つことができていません。』と語るように、齋藤飛鳥は自分をとても低く見積もっている。その気持ちは、とても良くわかる。そして、自分を強く出しきれないその弱さみたいなものが、先の一文に色濃く現れているのだろうと思う。

ただ僕は知ってほしいと思った。
文章を書くことは、ある種の煙幕にもなるのだ、ということを。

先の一文は、「自分自身を表に出すことの怖さ」から来ている。文章を書くことは、確かにある一面では「自分自身を表に出すこと」だ。しかし、文章を書き続けることは、「自分自身を隠す手段」にもなりうるのだ、ということを齋藤飛鳥には感じて欲しいと思う。

文章を書き始めの頃は、書いた文章の少なさのせいで、文章が孤独を感じる。スクランブル交差点に一人で立っているようなものだ。しかし、文章を書き続けることで、スクランブル交差点に“自分という名の他人”が増える。それが増えれば増えるほど、自分が“自分という名の他人”に紛れ込み、自分自身を見えにくくしてくれる。僕はそう思っている。

何故文章を書き続けることで“自分”ではなく“自分という名の他人”が増えるのか。
それは、人間の価値観は常に変化するからだ。

その時々の価値観に沿って文章を書くと、それぞれの文章が違った自立の仕方をする。そして、それぞれの文章が他者に与える印象も、文章ごとに変化する。一徹した価値観でブレずに文章を書き続けられる人が、そう多くいるとは思えない。僕は、自分が昔書いた文章を読み返して驚くことがしばしばある。だから、文章を書くという行為を続けることで、“自分という名の他人”の中に紛れることが出来るのだ。

文章は、文字という形で定着して残る。だからこそ“自分という名の他人”が消えずに自立し続ける。喋った言葉ではそうはいかない。


もちろん、アイドルのような人に見られる仕事をしていれば、喋った言葉が文字として定着する機会も多いだろう。そういう意味で言えば、わざわざ文章を書かなくても“自分という名の他人”を生み出すことが出来る稀有な立ち位置であるとも言える。しかし、齋藤飛鳥は文章を書くべきだと思う。

何故か。

『乃木坂46に加入して約5年。私は、人に見られることはすごく怖いことだと感じています』

その通り。だからこそ、文章を書くべきなのだ。何故なら、書いた文章は「見られる」ものではなく「見せる」ものだと思うからだ。

姿形の場合、映る自分のすべてをコントロールすることは難しい。

『動画で撮影された自分を見たとき、自分の容姿について気になる部分がありました。
しかし、鏡で自分を見るとき、それはさほど気になりません。
ならば写真はどうでしょう
【盛る】という言葉の通り、うつりによって見え方が変わります。
動画だって、うつりかたさえ覚えれば見せ方は変えられます。』

そう齋藤飛鳥は書くが、しかし、自分の姿形がどう映るのか、完璧にコントロールするのは不可能だと思う。だから、姿形の場合は、「見られる」という行為になる。

文章は違う。チャットや速記をしているならともかく、文章というのは、何を見せるのか自分がかなり完璧にコントロールすることが出来る。書き、推敲し、チェックし、それから表に出すことが出来る。だから、文章の場合は「見られる」ではなく「見せる」になる。

「見られる」ことに恐怖を感じるならば、「見せる」ことに強くなればいい。姿形よりも文章の方がやりやすいはずだ。そういう意味で、文章を書くというのは齋藤飛鳥の武器になる。鉾にも盾にもなりうるのだ。だから是非これからも、齋藤飛鳥には文章を書き続けて欲しいと思う。


齋藤飛鳥の文章からは、“読者である齋藤飛鳥”の存在が見え隠れするように思う。

『私はわたしを信用していないのです。
なので、ここにある情報も、信じすぎないでくださいね!』

“書き手である齋藤飛鳥”が文章を書く。そしてそれをすぐさま“読書である齋藤飛鳥”がチェックをする。そして“読者である齋藤飛鳥”のチェックを通った文章だけが表に出る。そういう“読者である齋藤飛鳥”の存在を強く感じる。

だからエッセイを読んでいてもどかしさを感じる。もっと書けるだろう、と思えてしまう。

『先程述べた、周りがつけた私のイメージ。否定する気は一切ありません。見た人がそう感じたならばそれでいい。実際は全然違うとしても、自分の本性を見せる必要はそこまでないのかも』

齋藤飛鳥には、文章を書くことへの躊躇がある。というか、自分を見せること全般に対する躊躇がある。文章だけに限らない。これは、“自分が自分をどう見るか”という客観視の話なのだ。


“他人からどう見られるか”という客観視をする人は多くいるだろう。むしろ現代は、その客観視に多くの人が縛られている時代だと言ってもいいかもしれない。他人に対して自分をどう見せるか、その文脈の中で様々な言動が選び取られていく。

しかし齋藤飛鳥がやっているのはそれだけではない。僕もそうだが、“自分が自分をどう見るか”という客観視も同時に行っている。芸能人が時々テレビで、「もう一人の自分が(頭の後ろの方を指して)この辺からいつも見ている」みたいなことを言うことがある。その感覚は、僕も凄く分かる。恐らく齋藤飛鳥にも、その“もう一人の自分”がいるだろう。そしてその客観視している“もう一人の自分”が常に自分の行動をチェックしているのだ。

僕は、“他人からどう見られるか”という呪縛からは、以前と比べればかなり逃れることが出来るようになったと思う。しかし、“自分が自分をどう見るか”という呪縛からは、恐らく一生逃れられないだろう。

『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』

“もう一人の自分”が、文章を書く時には“読者である齋藤飛鳥”となって、“書き手である齋藤飛鳥”の邪魔をする。“書き手である齋藤飛鳥”は、恐らくもっと書けるのだけど、それを“読者である齋藤飛鳥”が止めている。
その“読者である齋藤飛鳥”をどうやって制御するか。今後文章を書く上での最大の障壁となるのがその点かな、と感じた。“読者である齋藤飛鳥”を打ち破る日が来てくれるといいなぁ。


語尾が統一されていない印象を受けたり、接続詞のセレクトに違和感があったりと、惜しいなと感じてしまう部分もあるのだけど、でもそれらは瑣末な部分だ。文章を書くというのは、一面では単純に技術の問題であって、その部分は書き続ければどうにかなる。

その上で、“文章を書く”というのは、“考える”と同義だと僕は感じている。考えたことを文章にする、のではない。書くことを通じて考える、あるいは、書くという習慣を手に入れることで考える習慣を持つということだ。文章という形に落としこむ行為は単純に技術の範疇だが、文章という形に落としこむ以前の部分は思考力に依存している。

そして齋藤飛鳥は、考えられる人だ。自分自身を客観的に捉え、内側に生じた感覚に最も近い言葉を選び取る。そしてさらに、読書を通じて常に、自分の内側の言葉の豊かさを更新する。そういう行為の繰り返しによって、文章というものが生まれうる場が生じる。そこに技術が加わることで、文章が生み出されるのだ。

だから齋藤飛鳥は、もっと書けると思う。
しかし、そういう風に期待されるのは嫌だろう、とも思う。僕もそうだ。

『私は世の中に期待をしていません。
どうしてか。それは、ストレスが怖いからです。』

いつも同じようなことを書くが、齋藤飛鳥のこの感覚はとても共感できる。
僕も、いつの頃からか、期待をしないようになった。

『そこで。
もしも元から期待をしていなかったら?
それならば、失望感もストレスも起こらないと思うのです。』

僕もずっと、そんな風にして生きてきた。
『期待をするという行為は、人間の勝手な支配欲でしか無い。はず!』と齋藤飛鳥は書く。齋藤飛鳥は、その支配欲自体を否定することはない。しかし、『勝手な』ものなのだから、本来的に「支配欲が満たされなくて絶望する」というのは身勝手なのだ、と悟るのだ。とはいえ、そういう自分を押しとどめることは難しい。『私は自分に自信を持つことができていません。なので執着をしてしまうのだろうと思います』と、自分自身をきちんと分析している。

「期待する=支配する」という行為をすれば、それが満たされなかった時の絶望は回避出来ない。そういう自分の性質のことは知っている。だからこそ、「期待する=支配する」という行為そのものを手放そうと決意する。僕自身がそういう価値観を選択してきたこともあって、17歳という若さで、しかも現時点でトップアイドルである乃木坂46のメンバーでありながら、一方でそういう後ろ向きな決断をする齋藤飛鳥に、僕は惹かれる。

ただ、先程少し書いたように、僕は「期待する」ことだけではなく、「期待される」ことも苦手だ。

「期待される」ことは、ありがたいことだ。そう思うことは出来る。しかし、「期待される」ことで、「裏切ることになるかもしれない」という選択肢が生まれてしまう。齋藤飛鳥が『私は私を信用していないのです。』と言うように、僕も自分のことをまるで信用していない。人生のあらゆる局面で逃げ続けてきている自分自身のことを、信用することは出来ない。誰かの期待に応えている自分ではなく、誰かの期待に応えていない自分の方が真っ先に思い浮かぶ。だから「期待される」ことが怖くなる。

「期待される」ことから逃れるために、自分を低く見せようとしてしまう。絶対的な評価で高いか低いか、そういうことはどうでもいい。現時点で自分がどこに立っていようと、現時点の自分よりも自分自身を低く見せる。そういう態度が染み付いてしまっている。


齋藤飛鳥も同じはずだ。しかしこのエッセイで、「期待される」ことについては触れていない。そういう性質が齋藤飛鳥にはないのか、あるいは敢えて書かなかったのか。分からないが、後者だとすれば、それはアイドルという『見られることが仕事』であるが故の自制なのだろうと思う。

アイドルであるということは、期待してくれている人の存在の上に立つ、ということだ。それはもう、アイドルという存在の宿命だろう。期待してくれる人の存在を、ないものとして扱うことは出来ない。だから、自分がどう思っているかはともかくとして、「期待される」ことは引き受けるしかない。このエッセイの中で、「期待する」ことには触れ、「期待される」ことには触れない理由を、僕はそんな風に想像した。


『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』

他人とは分かり合えない。これは僕の基本的な価値観だ。だから僕にとってコミュニケーションの目的や到達点は“共感”ではない。“共感”は、なくても構わない。分かり合えなくても同じ空間にいられる。それこそが一つの理想なのだと、僕は考えている。だから現代の、“共感”を通貨として他人との関わりが成立していくような雰囲気にどうも馴染めない。

齋藤飛鳥の『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』という文章は、自分の性格を表現している文章ではない。それは一つの宣言だ。“共感”という通貨に手を伸ばしません、という宣言だと僕は捉えた。『誰かに褒められると嬉しい。相手が誰であれ好意を持たれると嬉しい。でも、それらを信じすぎてしまうという(意外とピュアな、子供らしい)癖があります。』と書く齋藤飛鳥だが、それは、「自分は“共感”を拒否しているのだから共感されにくいはずだ」という思い込み故の反動だろうと感じる。

僕は齋藤飛鳥に“共感”を抱く。しかし、齋藤飛鳥の“共感”を求めているつもりはないし、齋藤飛鳥に共感できない部分があっても自分の気持ちが揺らぐことはない。むしろどんどん、共感できない部分が出てきて欲しいと思いさえする。齋藤飛鳥に対しては、こういう捻れた、複雑な感情を抱きたくなる。


さて、ここまでで齋藤飛鳥のエッセイについての文章は終わりだ。この時点で既に僕の文章は5000字強。恐らく齋藤飛鳥のエッセイの字数を超えていることだろう。

「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」は、様々な方向から乃木坂46を描き出す。インタビューや著名人からのコメントや絵、メンバー同士の対談や趣味を突き詰めた企画、お気に入りの曲紹介やメンバーが撮った写真など、様々な企画が載っている。僕自身は、乃木坂46の視覚的な部分ではなくて、内面に迫る言葉に惹かれる部分があり、そういう意味で、写真がメインではなく文字がメインであるこの特集号はとても良いと感じる。

その中で、齋藤飛鳥のエッセイ以外で非常に面白いと思ったのが、「ミッツ・マングローブ×生駒里奈」の対談と、「乃木坂46のクリエイションについて考える」の「タイポグラフィ」の話だ。どちらの企画にしても、惹かれたのは乃木坂46のメンバー自身の言葉ではなく、その点が少し残念だったが、乃木坂46というものを外から捉えた時に出てくる言葉もまた非常に興味深いものがあるな、と感じた。


ミッツ・マングローブという人に特段のイメージは持っていなかったが、物事を見る視点や、目の前の現実を切り取る言葉が実に素晴らしかった。感覚で捉えたものを論理の力で言葉として放出する、その凄さみたいなものをこの対談から感じた。

『今はステージと客席の“段差”が無いようなもので、テレビ画面とお茶の間の距離も無くなってきてるでしょ。これは大きい意味で、芸能の質を下げちゃうと思う。シビアに“区別”しないと、お客さんが楽しみ方を忘れちゃうから。こっちでピシッと線を引いてあげることが、芸事をする上の義務だと思う。線を引いた上で「観たいならお金を払って!」「お金を払っていただいたらキッチリ満足させますから」って仕事をするの』

「会いにいけるアイドル」としてAKB48が生まれ、そのライバルとして登場した乃木坂46としては、『ステージと客席の“段差”が無い』という話は、スッと入ってくるものではないだろう。何故なら彼女たちにとって、そういう時代がもう当たり前だったからだ。当たり前であることに違和感を持ったり、腑に落ちたりという感覚を抱くことは難しい。専用の劇場を持たない乃木坂46には、その段差の無さを如実に実感する機会は少ないかもしれない。しかしそれでも、感覚的には段差が無い状態の方が自然に思えるだろう。そういう時代なのだ。生駒里奈も、『そういう発想は全然なかったです』と言っている通り、これは新しい視点を獲得するきっかけになっただろう。

昔のアイドルとの違いでは、ミッツ・マングローブがこんな風に言う場面もある。

『ひとつの課題をクリアするとすぐに次の課題を自分の中で持たなきゃいけないなんて、今のアイドルは過酷だよね。』

昔のことは僕はよく知らないが、昔のアイドルの場合、「アイドルとしてデビューする」ことが一つの目標であっただろう。さらにそこから「どう芸能界で残っていくか」「アイドルを辞めたら何をするか」という問いが突きつけられる日が来るのだろうけど、それまでは目の前にある仕事を全力でこなせばいい。


ただ、モーニング娘。の成長がテレビ番組で逐一放送されたり、選抜という仕組みによって競争が激しくなったりする中で、「アイドルとしてデビューする」というのが一つの通過点に過ぎない現実が徐々に明確になっていく。彼女たちは、常に何かに追われているのだ。

さらに、現在の選抜が基本にあるシステムの中では、必ずしも努力が結果に結びつくわけではない、という点も彼女たちを苦しめる。選抜されるかどうか、という場は与えられる。しかし、何をすればそこで選抜に残れるのか、という具体的な指針はない。そういう中で彼女たちは、自分で課題を発見し、それを克服し、さらに別の課題を見つけ…という繰り返しの中に自分の身を置かざるを得なくなっていくのだ。

『ただ、それは聖子ちゃんが制服を着るために“一生懸命に頑張っている”ってわけじゃないの。本当のアイドルって、“アイドルになろうと一生懸命に頑張らなくてもいい人”なのよ。
もちろん努力はするんだよ。だけど、「一生懸命やってるからアイドルとして認めてください」っていうのは矛盾でしかなくて。アイドルって“存在”や“在りよう”だからね。俳優でもスポーツ選手でも、努力した上で他の誰にもない力を発揮して、それを観たお客さんが「この人はアイドルだ」って感じるものなんだよ。例えば、羽生結弦くんは存在の仕方としてアイドルだと思うし、古いところでは長嶋(茂雄)さんだってそうだから』

努力を否定はしない。しかし、努力を超えた先にあるものがアイドルなのだ、という話を明確にする。
現代では、『一生懸命やってる』ことが、アイドルを推す一つの理由になっているようには思う。そこは時代の変化なのだろうけど、でもそうであるが故に、誰の中にも当然存在するような“アイドルとしてのアイコン”のような存在がいなくなった、と見ることも出来るかもしれない。もちろん今のアイドルのありようを否定するわけではないけど、アイドルというのは存在そのものがアイドルなのだ、そこには努力だけでは決して辿り着けないのだ、という話には納得させられた。

今のアイドルにはあまり興味はないし、パッと目に入ってくる子じゃないと覚えられない、と語るミッツ・マングローブは、しかし生駒里奈のことはすぐさま覚えたと言う。

『芸能の世界の勝負ってそういうことだと思うの。まずは覚えてもらえるかどうか。そこは努力してどうにかなるものじゃなくて、天賦の才なんだよね。』

『最近のアイドルには、いわゆる“アイドル性”が無いからこそ、昔のアイドルを知っている大人たちが面白がれるんじゃないかな』と言うミッツ・マングローブは、生駒里奈の中に何らかの“アイドル性”を見出し、注目した。僕にとっても、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で最も強いインパクトを残したのが生駒里奈だった(僕はその時点で、生駒里奈がデビュー当時センターを連続して経験した、という事実さえ知らなかったので、メンバーそれぞれをフラットに見れていたと思う)。確かに生駒里奈は、取り上げられる場面がとても多かった。その回数に比例して印象に残った可能性もあるけど、でも僕も生駒里奈に、何か持ってる子なんだな、という雰囲気を感じたのだと思う。

ミッツ・マングローブが、「トップアイドルであるということ」を、非常に面白い表現で語っている部分がある。

『乃木坂のファンじゃない若い子たちが、社会人になってカラオケに行った時に、「なんか昔、シャンプーの歌あったよね」って。
そういうふうに残っていくことがトップアイドルの宿命だし、義務でもあると思うの。』

意識を向けていない人にも残る存在。それがトップアイドルだと、ミッツ・マングローブは指摘する。そしてそこに向かうためには、時には非情にならなければならない場面も来るはずだ、と生駒里奈に語る。

『幸福論を語るつもりはないけどさ、本当にこの世界で幸せになりたいなら、人を出し抜くことも必要だと思うのね。でも生駒ちゃんはそういうことに抵抗を感じるタイプの人間でしょ?もし、そんなふうに感じてしまうことがあったら、そのときは私とご飯でも行きましょう』

ミッツ・マングローブのことがとても好きになる対談だった。


さて、もう一方の「タイポグラフィ」の話に移る。正直この部分を読み始める前は、「いくら乃木坂46に関係する話とはいえ、タイポグラフィの話はないでしょ」と思っていた。しかし予想以上に面白かったので、ある意味で拾い物だったと言えるだろう。

タイポグラフィに関しては、3名(3グループという表記の方が正確だろうか)の登壇者がいるのだが、その中で、有馬トモユキ氏の考察が非情に面白かった。

有馬トモユキ氏は、乃木坂46のCDジャケットについて考察をするのがど、その中で非常に面白い指摘だと感じた点が2点ある。「ウェブ時代のジャケット制作」と「ルールの明示」だ。

「ウェブ時代のジャケット制作」に関しては、言われれば確かにその通りと思うし、むしろ、こういうことを他のクリエイターがまだそこまでやっていないとすればその方が意外だ、と感じるものだった。

乃木坂46のCDジャケットは、ウェブ上で見られることを大前提にして制作されている、と有馬氏は指摘する。

『今、いちばん見ている媒体はスマホの画面ですから。それに最適化したジャケットって何だとなれば、最新のスマホのフレームにあてはめて美しいのはどれだということになる。乃木坂46のCDジャケットはそこをすでに捉えています』

なるほど、と思った。CDのジャケットは、確かにCDのジャケットとして認識されることもあるが、それ以上に、何らかの形でウェブ上で見られる機会の方が圧倒的に多い、そんな世の中になっている。その中で、ウェブで見た時に最も美しいデザインになるように作る、というのは、非常に納得感のある話だった。

もう一つの「ルールの明示」は少し説明が必要になる。

『デザインがルールを語っている。ファンに対してどこで遊んでいいのか、どうコミュニケーションしていったらいいのかということをジャケットで提示しています。デザインが、ルールブックとしても機能している気がします』

そう有馬氏は主張する。

有馬氏はまず、「乃木坂46」というロゴそのものの分析をする。その分析も面白いのだが、さらにそこから、「乃木坂46では、CDジャケットごとにロゴを作り変えている」という点に着目する。

僕はほとんどCDを買わないし、CDジャケットもちゃんと見ることがないので分からないが、本書の書きぶりでは、ミュージシャンの公式のロゴを、それぞれのCDジャケットにも統一で載せる、というのが一般的なやり方なのだろう、と理解した。しかし乃木坂46はそうではない。CDジャケット毎に違ったロゴを作り出している。その作品の世界観やCDジャケットの雰囲気に合わせて、「乃木坂46」というロゴが毎回変わる。

そしてこの点が、「どこまで遊んでいいのかというルールを明示する」という機能になっているのではないか、と有馬氏は言うのだ。

実際に乃木坂46のCDジャケットを制作している人たちがそういう意図でデザインをしているのか、それは本書からだけではわからないが、その指摘自体にはなるほどと思えた。

『乃木坂46の場合、“学校”っていうフレームから飛び出さない限りはほぼ自由なのでしょう』

その点がファン側にきちんと伝わっているかどうかはともかくとして、作り手側がそういう意図を持ってデザインをしているとしたら、凄く面白いなと思った。専用の劇場を持たない乃木坂46は、常時ファンと接する場を持てるわけではない。その交流の不足を、CDジャケットのデザインで補おう、という発想なのだとしたら、専用の劇場を持たなかったことが乃木坂46というグループをさらに特異にする要素になるのだな、と思わされた。

『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』

これは有馬氏の言葉ではなく、大日本タイポ組合の塚田氏の言葉だ。今までデザインというのは、センスがなければ捉えられないものだと思っていたけど、芸術はともかく、商業デザインであれば、デザインの意味を言葉で捉えることが出来るのか!という新しい発見のある企画で、実に面白かった。


他に気になった言葉をいくつか拾ってみる。
まず、イベントで乃木坂46とコラボしたことのある騎士団の綾小路翔。

『(乃木坂46にオファーをした理由を問われ)この時期、いろいろな意味で飽和化し始めたような空気が漂っていたアイドルシーンにおいて、「真っ当である」ということで逆に違和感や異質感を放つ彼女たちに興味を持ち、活動をチェックするようになりました』

『(乃木坂46の魅力を問われ)実は泥臭いとこ。何かそこはかとなく野暮ったいんですよね。全員ルックスが良過ぎて世間的には騙せてるのかもしれないけど、実は田舎者臭がほんのり漂う感じ。あのギャップがいいですね』

次は、ロックバンド「THE COLLECTORS」のボーカリストであり、多くのアーティストに楽曲や歌詞を提供している加藤ひさし。

『(「君の名は希望」を聞いて)アイドルはおちゃらけてて、ロックバンドのディープなヤツらが文学的だと持てはやされた傾向があったけど、そんな連中も太刀打ちできないぐらいすごいところに来てると感じました、乃木坂46自体が。また、歌ってる本人たちがそれに気付いてなくて歌ってるような純真さ、イノセントぶりが余計恐ろしさを生んでるんです。もしロックバンドがこういう歌詞を歌ったら、「これが俺の青春だ!」と言わんばかりに感情移入して暑苦しくなると思うんです。気持ちが空回りしちゃって、聴いてるほうも「ハイハイ、わかったよ。ずいぶんツラかったんだね」って。でもアイドルってそういうところが二次元的だから、気持ち悪いぐらい真っすぐ心に入ってくるんです。』


全体的に、乃木坂46以外の人間の言葉に惹かれてしまったな、という印象だった。でも、僕もそうだが、乃木坂46の魅力の一つは、そういう、なんか語りたくなる部分がある、っていうことなのかな、という気もする。それは、一つの個性としてとても魅力的だな、と。本人たちがあれこれ語らなくても、周りが語りだしてしまう。そういう魅力を持った乃木坂46に、これからも注目していこうと思う。

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