【映画】「女神の継承」感想・レビュー・解説

凄かった。

映画を観ながら、何度か混乱した。フィクションなのか、ドキュメンタリーなのか、分からなかったからだ。

映画を観る前、僕はこの映画のことを「フィクション」だと思っていた。その理由は、プロデューサーが映画『哭声』のナ・ホンジンだという情報だけ知っていたからだ。だから、それ以外の情報は特に知らずに観に行ったが、当然「フィクション」なんだろうと思っていたのだ。

しかし映画が始まってすぐ、「あぁ、ドキュメンタリーだったんだ」と感じた。映画の冒頭で、ニムという名の霊媒師(巫女)が出てきて、彼女にカメラが密着することが明らかにされる。その説明として、「2018年にドキュメンタリー映画の撮影でタイの霊媒師を取材し、その中でニムに密着することに決めた」と字幕が表示される。なるほど、フィクションだと勘違いしていたが、ドキュメンタリーだったのか、と思った。

しかし映画を観ていくと、時々「ドキュメンタリーでこれはあり得るか?」と感じる場面が出てくる。しかし、ドキュメンタリーだとしてもあり得ると言えばあり得る範囲の描写でもある。全体としてはドキュメンタリーの作りだが、ところどころ「フィクションなのか?」と感じさせる場面があり、しかしそういうシーンもドキュメンタリーの範囲に収まると言えば収まるという感じの映画だったのだ。

さて、あとでどちらなのか触れるが、今の時点ではこの映画がフィクションなのかドキュメンタリーなのかは書かない。もし知らないまま映画を観たいということであれば、ここでこの文章を読むのは止めた方がいいだろう。

とりあえず内容を紹介しよう。

タイ人は、「精霊(ピー)」の存在を信じているそうだ。それは、「宗教」よりもさらに古い存在であるという。そしてタイの中でも、タイ東北部では、「精霊」の扱われ方は他の地域と異なる。よりリアルな存在として認識されているそうだ。

彼らは、「自然を超越したもの」をすべて「精霊」と呼んでいる。死んだ人間の霊だけを指すのではない。精霊はあらゆるものに宿るとされている。家々、森、山、木々、水田など、どこにでもいる。そういう存在が、共同体の中で強く信じられている村が舞台である。

村には、「女神バヤンの巫女」であるニムがいる。彼女は巫女であるが、「霊に取り憑かれたように身体を揺する」「違う声色で喋る」など、よくある霊媒師のイメージを否定する。インタビューアーに対し、「テレビの見すぎよ」とたしなめるのだ。また、病気を治すが、ガン患者が来たら病院へ行ってと伝えるとも語る。彼女が治せるのは、「見えない力」が原因の病気だけなのだ。

彼女は「女神バヤンの巫女」として、村の人々を守っている。日々祈りを捧げ、村の祭事にも関わっている。では、そんな「巫女」に彼女はどうやってなったのか?

それは、「継承」されていくのである。

彼女の家系の女性は、代々巫女を輩出している。ニムが知る一番古い巫女は祖母であり、その後巫女は叔母に継承された。その後、本来であれば、ニムの姉であるノイが巫女を継承するはずだった。

しかしノイは、巫女になることを全力で拒んだのだ。それ故に、ニムが巫女を引き継いだ。彼女自身も昔は巫女になりたくないと考えていたが、今となっては、何故あんなに嫌がっていたのか思い出せないという。

巫女の継承は、身体の変化として現れる。初めはノイだった。女神バヤンに選ばれたのだ。体調が悪くなり、生理が5ヶ月も続いた。しかしノイは不屈の精神でバヤンを拒み、その後ニムの身体が同じような変調を迎える。ニムは巫女になる決意を固め、代替わりの儀式をしてもらった。それからニムはずっと巫女として生きている。

ニムは、姉ノイの夫の葬儀に出席するために車を走らせている。ノイの夫の家系であるヤサンティア家は、不幸な死に方をする者が多い。ノイの夫の父親は、経営していた紡績工場に保険金目当てで火をつけ、その後獄中死。ノイの息子マックはバイクの事故で亡くなっている。ノイは未亡人となり、娘のミンと、ニム・ノイの長兄夫婦と生活が始まる。

ニムは、姪のミンの様子がおかしいことに気づいた。彼女の部屋に押し入ると、ウコンで作られたお守りのようなものが見つかった。ニムはミンを問い詰める。最近誰かに話しかけられなかったかと……。

というような話です。

冒頭で「ドキュメンタリーなのか」と思ってから、マジでしばらくドキュメンタリーだと思い込んでいたのだけど、さすがに最後まで観ればフィクションだと分かる。しかし、2時間強の映画の半分を超えるくらいまで、フィクションなのかドキュメンタリーなのか分からなくて、それもちょっとドキドキさせられた。こういう体験が出来るからやはり、なるべく映画について調べずに観に行くのがいいなと思う。

この映画が凄かったのは、「ドキュメンタリーじゃないと分かっても、リアリティ・面白さともに減じなかったこと」だ。

僕はドキュメンタリー映画もよく観るのだが、やはり「これが事実だから凄い」という評価はどうしても含まれてしまう。フィクションはフィクションの面白さがあるが、ドキュメンタリー(や実話を基にしたフィクション)の場合は、「これが本当に起こったことなのだ」という要素がプラスされる。同じ内容がフィクションで描かれていても震えないかもしれないが、こんなことが実際に現実に起こったのだ、という感覚とセットになることで、心が震わされることになる。

さて、この感覚を踏まえると、「ドキュメンタリーではないと分かった時点で、受け取り方がちょっとマイナス方向にズレる」という感じも分かってもらえると思う。フィクションであると分かった時点で、「現実に起こったことではない」という感覚になるわけで、それは、物語を受け取る上でどうしてもマイナスになる。まあ、多くの人はこの映画を「フィクション」だと思って観ると思うので、こんな話は関係ないと思うが、僕としては結構重要なポイントだ。

そして、ドキュメンタリーじゃないと分かってからも、この作品の面白さは変わらなかった。これは僕の中で結構稀なケースだと思う。特にこの映画の場合、途中まで完全にドキュメンタリー映画だと思い込んでいたので、フィクションだと分かってからも変わらず面白く観れたのは意外だった。

その理由は自分の中でもうまくまとまっていないが、やはり映像の力かもしれないと思う。明らかにドキュメンタリーではないと分かってからも、映像的にはどう考えてもドキュメンタリーにしか見えないような作りになっていた。最後の最後まで、徹底して「ドキュメンタリー風に撮る」という姿勢が貫かれていたのだ。だから、頭では「現実に起こったことではない」と理解できていても、映像の力によって錯覚させられた、ということかもしれないと思う。

もちろん、役者がタイ人であり、少なくとも僕が顔を知っているような人が出てこなかったことも影響しているだろう。これが日本や韓国の役者が出てくる映画だったら、感じ方はまた違っただろう。とにかく、フィクションだと分かってからも、リアリティが圧倒的だったことが、最後まで面白さが続いた要素だったと思う。あととにかく、悪霊に取り憑かれたミンの演技が凄かった。人間じゃないような動きは圧巻。

あとは、特に説明がなされない点もリアリティを増していると思う。特に、最後の「儀式」の場面など、「意味不明」のオンパレードだし、その儀式に至るまでの流れの中でも、よく分からない描写はたくさんある。そしてそれらについて、あーだこーだ説明しない。「何かよく分からないことが起こっていて、それをカメラで記録しているだけなのだ」というスタンスも、リアリティを下支えしているなと感じる。

全体としては「フェイクドキュメンタリーホラー映画」という感じなのだけど、最後の最後、ニムのインタビューが挿入され、映画全体を根底から揺るがすような、ある意味で”深い”問いかけがなされる。このラストのインタビューまで含めて、非常に「ドキュメンタリー的」だった。冒頭からしばらくニムが主人公だが、途中から明らかに焦点がミンへと移る。しかし最後まで観ることで、やはりこの物語は全体を通してニムの物語だったのかと感じさせられた。

さらに、このラストシーンを踏まえると、ニムがある場面で口にした「代替わりの儀式は出来ない」という言葉についても考えさせられる。これはつまり、ある種の「優しさの発露」ということなのだろうか? ニムの、「因習は断たれるべき」という決意の現れだったのだろうか? 最後の最後で、物語全体をひっくり返すような構成になっているのもまた非常に面白い作品だと思う。

なんか凄いモノを観たなという感覚が非常に強い作品だった。非常にアジアっぽい、「土着」という言葉がぴったり来る舞台設定の中で、徹底的にリアリティを追求しながら、「ぜんぶ悪霊のせい」というエクスキューズで理解不能な物語展開を成立させている、見事な作品だった。

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