【映画】「ジョーンの秘密」感想・レビュー・解説

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歴史というのは、常に一方的に、つまり、未来(今)から過去を見て、未来(今)の基準で物事を判断していく。もちろん、今を生きている僕らにとって、歴史が価値を持つためには、そういう視点しかあり得ない、とは言える。ただ趣味として、楽しみとして歴史を知る分には様々な視点がありうるだろうが、「歴史を教訓に」という時の「歴史」には、そういう一方的な側面がある。

それはやはり、非常に暴力的だ。何故なら、その時、その状況でしか出来なかった判断というものがあるからだ。

コロナ禍を生きる僕らは、コロナウイルスの巧妙さを日に日に理解するようになっても、心のどこかで、自分だけは大丈夫なはず、と思っている。心理学的に「正常性バイアス」と名付けられたこの感覚は、全員とは言わないが、人類の大多数が持つ性向だ。「自分だけは大丈夫なはず」という考えが、コロナ禍ではすべきではない行動を誘発することは当然あるだろう。

現代でさえ、そんな行動に対して「軽率だ」「恥を知れ」など、散々な言葉を浴びせられる時代だ。同時代を生きている者同士であっても、「その時その状況でしか出来なかった判断」があるということをなかなか共有できない。ましてや、遠い過去の歴史の話であればなおさらだ。

ソ連に原爆の秘密を流したという実在した”スパイ”を基に作られたこの映画。2000年5月に発覚したこの出来事を、もしヤフーニュースで見たとしたなら、きっとこんな見出しだっただろう。「英の原爆を盗んだ女スパイ逮捕」 で、きっとその見出しと、記事の最初の方の文章を読んで、僕はこう感じただろう。「あーあ、アホなことやっちゃったね」 で、次の瞬間にはもう、このニュースのことは頭から消えているだろう。

今、僕自身も、こんな感じの情報処理が多いな、と思う。意識していないと、断片的で恣意的で扇情的な情報だけパパパっと取り込んで、終わりにしてしまう。それが嫌で、本を読んだり映画を観たりしているが、本や映画を通じて改めて理解することは、どんな行動にもその人なりの理屈がある、ということだ。

単なる金儲けとか、誰でもいいから貶めたいというような愉快犯はともかく、誰かを傷つけたり世の中に迷惑を掛けたりする人の中にも、その人なりの理屈がある。その理屈が正しいかどうかというのは、最終的には結局、法律(あるいはルール)によって決定するしかない。治療法の存在しない難病を患っている人の苦痛を取り除くために死に至らしめるというのは、正しいだろうか?個人的には、正しいと思いたいが、法律は、安楽死の厳しい要件を定めた上で、それを満たさないものは殺人と判断する。

しかし、僕が言いたいことは、それが法律的にどう判断されようが、重要なことは、その行為をどういう理屈で行ったか、ということだ。

歴史にifは禁物だとよく言うが、もしジョーンがソ連に機密情報を流していなければ世界はどう変わっていただろうか?世界情勢を分析するほど知識のない僕には難しい話だが、現代のような「世界大戦と長らく無縁の世界」は実現できなかったのかもしれない、と映画を観て思わされた。であれば、ジョーンの行動は、“スパイ”という悪評で捉えるべきではないのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
夫に先立たれ、一人静かに余生を過ごしていたジョーン・スタンリーは、ある日突然MI5に逮捕される。それは、外務事務次官のウィリアム・ミッチェルの死の矢先のことだった。ミッチェルが遺した資料から、ジョーンに関するある驚くべき疑惑が浮上したのだ。
それが、原爆の情報をソ連に流出させたというスパイ容疑である。
「誰に影響を受けて共産主義になったのか?」「ウィリアムとはどこで出会ったのか?」など取り調べを受ける中、ジョーンはケンブリッジ大学時代を回想する。物理学を学んでいた彼女は、ふと知り合ったソニアという女性に連れられて、「映画の会」という共産主義の集まりに連れ出される。そこで出会った、ソニアの従弟であるレオに惹かれ、恋に落ちる。レオは集会で人を惹きつける演説をするなどリーダー資質で、共産主義と共に大きな野望を抱いていた。ジョーン自身は共産主義とも、彼のいる団体とも距離を置いていたが、レオにはぞっこんで、レオが三ヶ月もソ連に行くと知ると寂しさを滲ませる。しかし社会情勢もあり、ジョーンはソニアともレオとも関わりの薄い日々を過ごすことになってしまう。
ジョーンはそんな折、ある研究所での職を見つける。仕事はタイピングや書類整理だが、科学の知識が不可欠だという。秘密保持契約に署名をし、何の研究をしているのかもわからないまま働き始めるが、次第にそこが原爆の研究拠点であることを知る。彼女は、所長であるマックスに知識と発想を認められ、一介の事務員としてではない、研究員のような扱いを受けることになる。
しかし、どこから話を聞きつけたのか、ジョーンの元にやってきたレオが、研究内容を横流ししてくれ、と頼みに来る。ジョーンは、レオとの間にあったと思っていた愛が幻想であるのだと、何度も思い知らされることになる。一方でジョーンは、既婚者であるマックスに惹かれるようになっていく。原爆の研究に生涯を捧げているマックスと共にカナダへと渡り、さらに研究を進めることになるが…。
というような話です。

さて、まず書いておくべきは、この映画のモデルとなった「メリタ・ノーウッド」という人物は、この映画の主人公であるジョーン・スタンリーとはだいぶ違った人間みたいだ、ということです。詳しく調べたわけではないけど、とにかくこの映画は、事実にかなり忠実であるというものではなく、「ソ連に情報を渡していた女スパイで、割と最近になってそれが発覚した」という設定だけ借りてきた、と考えた方が良さそうだ。映画では、ジョーンは共産主義とは距離を置く存在として描かれるが、実際の「メリタ・ノーウッド」は共産主義に積極的に賛同していた、ということのようなので、この一点(これは、物語にとっては非常に重要な点だ)だけ取ってみても大分違う。

映画の構成としては、1930年代以降のイギリスを舞台にしたパートがメインで、その合間合間に、2000年に逮捕され取り調べを受けているジョーンの描写が挟み込まれる、という形だ。戦時中のジョーンのパートは、戦争映画とかスパイ映画というよりは、時代に翻弄されつつも恋に生きる女性を描くという要素が結構強い印象で、ノンフィクションっぽい感じの硬質なタッチではありません。

ジョーンの行為を好き勝手に論評することはいくらでも出来るのだけど、実際に自分が、あの時代の生きる女性科学者で、期せずして原爆の製造に関わり、望んだわけではなく恋人が共産主義にどっぷり浸かった人だったとしたら、どう行動するだろう、と考えてしまう。これは本当に難しいことだと思う。そもそも、当たり前の話だけど、ジョーンが原爆開発に携わっている時には、まだヒロシマにもナガサキにも原爆が落とされてはいない。机上の空論でどれほどの被害をもたらすかイメージすることは出来ても、それを現実のリアルな脅威をして認識することは難しかったはずだ。マックスがある場面で、「科学者は物理で結果を出そう。政治のことは政治家に任せよう」と発言するけど、その通りで、科学者は「求められるもの」を必死で作り上げただけだ。

では、なぜ原爆は「求められるもの」だったのか。そこにはナチス・ドイツの脅威がある。この映画の中で、その点に触れた場面はほんの一瞬しかなかった。高齢のジョーンが、原爆製造に関わっていた母親を非難する息子に対して、「ドイツに先を越されたらマズかった」という発言をする。僕は、アインシュタインに関する本を結構読むことがあって、その関係で原爆の記述も読む機会があるが、マンハッタン計画に携わっていた科学者たちも、「ドイツが先に原爆を開発してしまったらこの世の終わりだ」という共通認識があったという。アインシュタインもそう考えたために、ルーズベルト大統領に原爆開発を推進するよう手紙を出している。

状況は今も大差ない。今も、コロナウイルスのワクチンを世界で初めて作った国が世界をリードする、という認識が少なからずある。そして、やはり少なくない認識として、中国に先を越されるのはマズイ、という意識はあるはずだ。もちろん、ワクチンを製造している人たちは、世のため人のために研究をしているだろうが、しかしそれは、「我が国が一番乗りを果たす」という国家の戦略に巻き込まれてしまっている。この映画でも、イギリスの副大統領が、「一刻も早くイギリスの国旗が付いた原爆が必要なのだ」と発言する場面がある。しかし何よりも重要だったのは、ドイツよりも早く開発することだった。

「ドイツよりも早く原爆を開発しなければ世界が終わる」という感覚は、現代ではもはや共有不可能なものだが、当時としてはリアルで避けがたいものだったはずだ。そういう背景の中で、絶望的な被害が予想される原爆ではあるが一刻も早く完成させなければならない、と考えることは合理的だったはずだ。

現実には、ドイツは先に降伏する。この時点で、原爆開発の大義名分は失われたはずだったが、「じゃあ全部ストップ」となるはずもない。その原爆は、日本に投下され、「この規模の被害は世界で初めてです」というような甚大な被害をもたらすことになる。

ジョーンは、ヒロシマとナガサキに原爆が投下された後の世界を想像した。そして、彼女なりの理屈に従ってソ連に情報を流した。当然、誰かに相談できる話ではない。彼女は、彼女が知ることが出来る範囲の情報を元に、自分一人で判断を下さなければならなかった。

そう考えた時、一線を踏み越える決断をした、ということそのものに、僕は凄さを感じる。

正直なところ、彼女は何もしないでいることは出来た。彼女は、スパイ組織は共産主義の組織にいたわけではない。スパイ行為が任務だったわけではない。任務を遂行しないことで命を狙われる立場でもない。彼女が何もしなかったところで、誰も彼女を責めないし、そもそも彼女が何もしなかったということが誰かに知られるわけでもない。映画では、少なくとも、レオへの愛情から我を忘れて情報を流した、という描かれ方もされていない。一方、リスクを犯してスパイ行為をすることで、自分の身を危険に晒すし、予期せぬような未来を招くことになるかもしれない。どう考えたって、スパイ行為をすることの方がリスクが高すぎる。それでも彼女は一線を超えた。ここには、よほどの決意と覚悟が必要だ。

だからこそジョーンは、自身の過去の行動を理解してくれない息子に対し、悲しみを見せる。

現代パートでは、弁護士として活躍するジョーンの息子が、原爆製造に母親が関わっていたことなどまったく知らずに驚く。そして、母親が自らの意思でソ連に情報を横流しにしたとい事実を受け入れられずにいる。

この映画ではこの、母親と息子のやり取りも軸の一つだ。僕は、例えば自分の親が実は殺人犯だったとしても、まあ俺にはかんけーねーな、と思えるし、僕自身に直接の害悪(誹謗中傷など)が無ければノーダメージだけど、人によっては、自分の親族が過去に許されざる(とその人が思う)行為を行っていたとすれば、受け入れられない感覚が強くなってしまうかもしれない。今まで知っていた「母親」の姿が、すべて嘘だったという感覚になって、何を信じていいのか分からなくなってしまうのかもしれない。

ジョーン自身、自らの過去の行いについては、背筋を伸ばして、疚しさを覚えることなく、「自分はスパイではない」と言い切れる。しかし、自分の過去の行いによって、家族に対して動揺を与えてしまっていることに、非常に心を痛めることになる。自分が信念を持って行ったことを、自分が大切だと思う人が理解してくれないとしたら、非常に悲しいことだろう。その悲哀が、短いながらもしっかりと描かれていて良かった。

そして。映画を観ながらずっと頭に去来していたことは、何よりも、戦争を始めた人間や、原爆の投下を決定した人間が悪い、ということだ。戦勝国であれば、そうした人間は裁かれない。ジョーンが非難を受けるのであれば、ジョーンなどより圧倒的に悪であるそういう人間が非難されないことは、やはりおかしい。

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