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【本】ハル・グレガーセン「問いこそが答えだ! 正しく問う力が仕事と人生の視界を開く」感想・レビュー・解説

まず、本書のエピローグに載っている、本書の中で最も好きなエピソードを紹介しよう。これは、「自分がそれまで指針にしてきた問いが間違っていたことに気づいた」という、チャールズ・シュワブのCEOであるウォルト・ベッティンガーのエピソードだ。

大学時代、経営学を専攻していた彼は、猛烈に勉強して常にトップクラスの成績を収め続け、三年生の時には卒業を早めるために取得単位を倍に増やしたがオールAを維持した。しかし最後の最後、オールAが崩れてしまったという。経営学部の別館で週2回、夜の6時から10時まで、10週に渡って行われる経営戦略のコースで、最後のテストで彼はAを逃した。

最後のテストで教授が配ったのは、真っ白な一枚の紙だった。そして、こう告げた。

【「もうみなさんは実際のビジネスの世界で仕事を始められるだけの知識を持っています。ですが、そこで成功するためにはもっと別のことも必要になります」。教授は学生たちに氏名を記入するよう指示してから、最後のテスト問題を発表した。それは次の一問のみだった。「この建物の清掃を担当しているのは誰か。彼女は何という名前か」】

この出来事をきっかけに彼は、その後の人生で最も役に立つことになる教訓を得たという。

【どうすれば優秀な戦略家として頭角を表せるかと問うのではなく、この会社の成功は誰の働きにかかっているか、それらの社員全員に卓越した働きをしてもらうには何が必要か、問うべきだと】

本で読んだだけの僕も、一生忘れないんじゃないかと思うくらい、インパクトのある話だった。


本書は、「問うこと」の大事さを説く本だ。マサチューセッツ工科大(MIT)のリーダーシップセンターの所長であり、これまで様々な企業のCEOなどに話を聞き、様々な企業で講演を重ねているという。その中で、多くの人が「問うこと」の重要性を語っていることに気づき、その事実をもっと広く伝えるために本書を著した。

【本書の核をなしているのは、よりよい問いが生まれるかどうかは―仕事でも私生活でも―環境に左右されるという主張だ】

確かに本書には、子ども時代の親からの教育などで、「問うこと」が習慣になっていたり、「問うこと」に馴染んだ思考法が身についたという人も出てくる。しかし、それ以上に、どういう環境の中に身を置くかによって、「問うこと」に対する人々の行動が変化する、ということを明らかにしていく。そして本書では、個人や組織が、どのように「問うことを活発化させる環境を作り出しているか」という点を、様々な観点から取り上げていく。

本書は、実例の宝庫と言っていい。本書の記述のほぼすべてが、著者自身が自ら話を聞きに行ったCEOたちの言葉や経験で占められている。普段であれば、本文から様々な話を引用して感想を書いていくのだけど、今回それをやってしまうとキリがなくなるので、最小限に抑えたいと思う。

本書を読んで僕は、自分はどうだろうか、と考えた。僕自身は、本書が主張する「問うことが何よりも大事だ」という感覚は、割と最初から持っていたと思う。「唯一の正しさ」を求めることはないし、「自分が間違っているかもしれない」と常に思っているし、「問いを生み出すために安定した場から出ていく」という意識もある。「問うこと」について、本書に登場する人たちほどの有能さを発揮することはまだ出来ていないし、本書にある「問いの資本」も僕にはない。この「問いの資本」というのは、「問う」だけではなく、その問いから生まれた解決策を実現させる力のようなものを指す。僕は、「問うこと」は得意かもしれないが、その先は不得意だ。そういう意味で、本書が示唆するレベルで「問うこと」が出来ているとは言えないが、前提についてはあっさり超えられているだろう、と思う。

一方、僕は、「問いを生む環境を作る」という方は、あくまで個人レベルの話だけど、得意だと思う。詳しくは後で触れるが、本書を読んで僕が思い出したエピソードがある。何の本で読んだのか記憶がないが、「手術ミスが報告される手術チームと、手術ミスが報告されない手術チームのどちらに手術をしてもらいたいか?」という問いから始まるものだった。詳細な情報がないので、これだけでは答えようがないだろうが、素直に考えれば、手術ミスの報告がないチームの方がいいと思うだろう。しかし実際には、手術ミスの報告がないチームの方が問題を抱えていることが多いという。それは、「手術ミスがあっても隠してしまう」からだ。手術ミスが報告されるチームは、ミスを申告することに対する心理的障壁が低いため、コミュニケーションもきちんと行われていて、チーム全体としてのまとまりは非常に良い。一方、手術ミスが報告されないチームでは、仮にミスがあってもそのことを申告できないような雰囲気があるため、ミスは隠蔽されてしまう。だからこそ、手術ミスが報告されるチームの方が、実際のところは安全である可能性が高い、というのだ。

【つい最近も、革新的な企業の労働者の研究が注目を集めた。グーグル社の数百の作業チームを対象に、数年を費やして実施された「アリストテレス計画」だ。この調査では、成績の優秀なチームとそうではないチームとでは何がちがうのかが具体的に探られた。ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌の記事によると、その結果は研究者たちを驚かせるものだった。IQの高さも勤勉さも関係なかったからだ。チームの成功といちばん強い相関が見られたのは、先に紹介した心理的安全性だった】

まあそうだろうなぁ、と僕は思う。

何か思いついた時(それは、アイデアでも批判でもなんでもいい)、「これを言ったらバカにされるかな」「こんなことを言ったら無能だと思われるかな」という集団にいたら、それが口に出されることはない。しかし、そういうことを全然理解できないタイプの人というのは散見されるし、しかもそれは、組織の上の方にいる人間であることが多い。絶えず他人や状況をバカにしていたり、常に発言が否定から入るような人は、誰かの発言を制約している。しかし本人はそのことにまったく気付いていない。結果的に、素晴らしいアイデアの種も、改善すべき不備や不満も、表に現れないことになる。

そうでなくても、上の立場にいる人間には「生の情報」は入ってきにくい。

【わたしの研究で最も深刻な隔絶が見られるのは、大企業のCEOや幹部という地位においてだ。その理由は、部下に情報の収集と取捨選択を任せてしまうことにある。それらのリーダーたちがほかの一般の人に比べて、心地よさを求める傾向が強いわけではないはずだが、日々、極度の重圧にさらされる中で、自分は有能だという自信を揺るがされたくないという心理が働く。しかも周りには、上司を不快な情報から守ることを自分たちの仕事と心得ている部下がいる】

だからこそ、「未加工の情報」がどうしたら手に入るのか考えなければならないのだ。

ネット証券大手チャールズ・シュワブのCEOであるウォルト・ベッティンガーはこんな風に言っている。

【重役として成功を収められるかどうかは、意思決定の優劣で決まるのではありません。どんな重役も優れた判断を下せる率はだいたい同じで、60パーセントか、55パーセントぐらいです。ではどこがちがうかといえば、成功する重役は40パーセントないし45パーセントのまちがった判断にすばやく気づいて、それを修正できるのに対し、失敗する重役はしばしば事態をこじらせ、自分がまちがっていても、自分は正しいと部下を説き伏せようとします】

こんな風に、「正しく問うための環境」というのはあっさり崩れてしまう。より一般的には、次のような指摘が分かりやすいだろう。

【(政治家たちが問いを使うのは)相手に立場をわきまえさせるためか、相手の無知を暴いて、面目を失わせるためか、あるいは相手に今していることをやめて、こちらに応じるべきであることを思い出させるためだ。権力に飢えた者は、相手より優位に立つことを求め、真実を求めようとはしない。
このことからは、なぜふつうの人があまり問いを発しようとしないのかが見えてくる。問いが権力の追求者たちによってそのように使われているのを目にしているせいで、問うことが攻撃的な行為だという印象を植えつけられてしまっているからだ】

これも納得感のある話だろうと思う。だから本書では、創造的な企業のトップたちが、「問うことの心理的安全性をいかに生み出すか」という課題に常に取り組んでいることが、様々な実例から明らかにされていく。

例えばピクサーでは、制作中の映画の監督に対して容赦のない意見を浴びせる「ブレイン・トラスト」というミーティングがある。これは監督にとって相当過酷だそうで、「ブレイン・トラスト」が終わったら、その日は監督を家に帰すという。とても仕事にならないからだ。なぜそんなことをするのか?

【制作初期の映画は、みんなゴミだからです。もちろん、そんないい方は身も蓋もないわけですが、あえてそういういい方をするのは、オブラートに包んだいい方をしていては、最初のバージョンがどうよくないかが伝わらないからです。わたしは遠回りにいったり、控えめに行ったりはしません。ピクサーの映画は始めから傑作というわけではありません。それを磨いて傑作に仕上げることがわたしたちの仕事です。つまり”ゴミだったものをゴミではないものに”変えることです】

誰もが口を揃えてキツイという「ブレイン・トラスト」だが、しかしいい映画を作るためには欠かせないと皆がいう。そして、この場において、「作品への批判」が「作品をできるかぎりよいものにしたいという気持ちから発せられたものである」ということが参加者全員で諒解されるように工夫されている。

【わたしが提唱しているのは、自分の考えを覆される情報にもあえて耳を傾けられる場、その結果ひらめいた問い―ひねくれているとか、腹立たしいとか、的外れだとか思われそうな問いでも―を口にしたり、聞いたりできる場としてのセーフ・スペースだ】

僕は、個人レベルでは、こういう心理的安全性やセーフ・スペースを生み出すことが得意だと思う。だから色んな人から、普通他人には話さないだろう話を聞く機会もある。本書には「触媒としての問い」という表現が何度か出てくる。僕は問いそのものではなく、僕自身の存在を触媒にすることで、問いが生まれやすい雰囲気を作れている、と自分では思っている。

また、問う力を高めるために行うべきことも、元からやっていることが多い。知らない人ばかりの場に行くとか、やったことがないことに手を出してみるというような形で「不慣れな環境」に身を置くこともやっているし、「正直な意見を言ってくれる人」を求めていることが伝わるような振る舞いも出来ていると思う。また本書には、組織において「問うこと」が浸透しないのは、理想とする従業員像を「どんな問題が発生しても、手早く処理し、上司や同僚を煩わせない従業員」としていることに問題があると指摘し、その後こう文章が続く。

【しかしタッカーとエドモンドソン(※組織学習の研究者)にいわせると、それでもまだ足りない。同僚のミスをかばって、和を保つ者ではなく、めざとくミスを見つけてはいい立てる「うるさいトラブルメーカー」こそ、理想の従業員だという。この章の話に合わせるなら、それは「確信犯的エラーメーカー」といえる。完璧に業務が遂行されているというイメージを築こうとするより、公然とミスを認める従業員だ。そういう従業員は、ものごとをそっとしておくことのない「破壊的な質問者」でもある。「従来のやり方を受け入れたり、守ろうとしたりする前に、まずはそれでいいのかどうか、たえず問う」者たちだ】

程度はともかくとして、僕はこういう「確信犯的エラーメーカー」のような振る舞いをしている部分があると思う。僕は、頑張れば状況を整えられてしまうかもしれない場合であっても、そんな現場レベルの奮闘で急場の穴塞ぎなんかしてる場合なのか?とか考えて、「やりません!」とか反抗しちゃうタイプの人間で、だから、うまく使えば組織に役立てるはずなんだけど、なかなかそううまくはいかない。

さて、本書の内容に関して、ほぼほぼ何も伝えられていないと感じるほど、この感想では書けてないことの方が多いのだけど、最後にいくつか印象的だった話に触れて終わろうと思う。

【いちばん重要で、なおかつむずかしいのは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを見つけることだ。誤った問いへの正しい答えほど、むだなもの―危険ではないにしても―はない】(ピーター・ドラッカー)

【シーリグはアインシュタインのよく知られた逸話を紹介して、そのときにいわれた言葉を引用している。「もし問題を解決する時間が一時間あり、自分の人生がその問題の解決にかかっているなら、わたしは適切な問いを導き出すことに最初の五五分間を費やすでしょう。適切な問いがわかれば、問題は五分で解けるからです」】

問いの重要性についてはやはり昔から言われていた、という話。

また、『たった一つを変えるだけ―クラスも教師も自立する「質問づくり」』という本の中で、学校では質問づくりのスキルを身に着けさせるべきだという提案がされている、という紹介がある。この部分を読んで僕は、小説家の森博嗣を思い出した。森博嗣はかつて国立大学の助教授であり、その際受け持っていた講義で、試験をする代わりに生徒に質問を提出させていたという。その質問については、「臨機応答・変問自在」という本になって出版もされている。どういう質問をするかで相手を評価する、というのは非常に面白いと、同書を読んで当時感じたけど、やはりそれは学術的に考えても合理的なことだったのだなと改めて感じさせられた。

「正しく答えること」にばかり重点を置いている人は、「正しく問うこと」の大事さに気づけていないかもしれない。本書は、何よりも「問うこと」こそが大事であるという考え方をこれでもかと植えつけ、そのために何をすべきかという行動の指針や実例を大量に示してくれる作品だ。


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