【映画】「千年女優」感想・レビュー・解説

いやーーーーーーーー、これはメチャクチャ面白かった!!!「作中で描かれている状況」だけ取り出したら全然大したことないのに、「演出」によってこんなに面白くなるのかと驚愕させられた。

しかし、観てる分にはなんにも難しい話ではないんだけど、この作品、人に説明しようと思ったら凄まじく難しいなぁ。「説明しようと思ったらこんなに難しいのに、観るとするっと理解できる」というのも、この作品の凄まじさだと思う。

というわけで、僕が書く内容に関する説明を読んでもたぶんよく分からないとは思うが、なるべく頑張って紹介してみよう。

まず、先程「作中で描かれている状況」という風にまとめた、本作で描かれている「最も外側の設定」だけ触れておこう。

映像制作会社「VISUAL STUDIO LOTUS」の社長である立花源也は、若手カメラマン・井田と共にあるインタビューを撮りに山奥にある家に出向く。そこに住んでいるのは、藤原千代子という女優である。関東大震災の日に生まれ、映画会社「銀映」の看板女優として活躍した、立花世代の人間では知らぬ者のいない有名女優だが、ある出来事をきっかけに唐突に女優を引退し、30年以上も一人で山奥に籠もっているため、カメラマンは彼女の存在をほとんど知らない。とにかく、「どうやら社長が、昔有名だった女優に憧れているらしい」ぐらいの情報だけで、このインタビュー撮影に臨むことになる。

このインタビューは、銀映創設70周年の節目の年であり、かつ、長年様々な作品を撮ってきた撮影所が老朽化したこともあり、「日本映画史を記録しておこう」という名目で企画されたものだが、実際には立花には別の目的もあった。そしてそれこそが、普段まったく人に会おうとしないという千代子のインタビューが快諾された理由である。

立花は、かつて千代子が大切にしていた「鍵」を渡しにやってきたのだ。彼女はその「鍵」について「一番大切なものを開ける鍵」と表現し、「もう手元に戻ってくることはないと思っていた」と感慨深げだった。

そしてそのまま、千代子のインタビューが始まる。女学生だった時分、彼女は「銀映」の専務に気に入られ、女優にならないかと誘われたが、しかし、亡き父が遺したお菓子屋を、婿を取って継いでくれないと困ると、母が猛反対する。専務は、「次の作品は満州を舞台にしたもので、戦争で闘う者たちを鼓舞するものだ」と説得を試みるも、母の考えは変わらない。

その日の帰り道。雪が積もる中歩いていると、後ろから走ってきた男性にぶつかられ、千代子は倒れてしまう。手を差し伸べて起こしてくれたその男性は、どうやら憲兵に追われているようだった。咄嗟に彼のことを匿い、さらに千代子は、自宅の蔵にその男を隠してあげた。

鍵は、その男性からもらったものである。満州で仲間が闘っていると語る彼は、どうやら絵描きであり、「いつか故郷に戻って、今描いている絵を完成させるのが夢なんだ」と彼女に語る。

しかしその後、蔵にいたことがバレてしまい、どうにか番頭が上手く逃してくれたものの、千代子はその男性に会えないまま、彼が乗ったと思しき列車が走り去ってしまった。

この出来事をきっかけに、彼女は女優になることを決意する。満州で撮影となれば、あの人に会えるかもしれないという邪な想いを胸に……。

さて、これが基本的な設定。これだけなら全然難しくないだろう。この、「山奥の家で、千代子がカメラの前で過去を改装する」という「外枠の設定」は、物語のほぼ最後の最後まで崩されることなく続く。最後の最後、少しだけ舞台は映るのだが、物語は基本的に「千代子の自宅」内で展開していると考えていいというわけだ。

しかしこの、「物語は基本的に『千代子の自宅』内で展開している」という設定、観客の視覚的にはそのように映らない。映画の中で、「実際に千代子の屋敷内が映るシーン」は、全部足しても5分ぐらいじゃないだろうか。映画は約90分あるので、残りの85分については、観客の視覚的には「千代子の自宅以外の場所で起こっている」ことになる。

で、要するにそれは、「千代子が語る回想が映像になっている」ということである。まあ、別にこれも普通の構成だろう。わざわざややこしく書くような話ではない。

しかし問題はここからである。まず奇妙なのは、「『千代子が語る回想』シーン内に、立花とカメラを持った井田がいる」のである。この演出が、まずはとても面白い。立花は目の前で展開される「若い頃の藤原千代子の物語」を観ながら色んな感情に翻弄されるし、井田の方も、まさに目の前でその出来事が展開されているかのように起こっていることをカメラに収めようとする。

もちろんこの「回想シーン」は、「千代子が語る話を観客向けに映像化しているだけ」であり、実際には千代子も立花も井田も千代子の自宅で座っているだけである。ただ一方で、「立花と井田がまさに回想シーン内に存在している」みたいな演出も多々なされる。電柱に隠れて千代子に見られないように振る舞ったり、あるいは井田が「どんな取材なん」「しんどい取材やわー」と、「まさにタイムスリップして過去にいき、映像を撮っている」かのような反応を随所で繰り返すのだ。

さて、この辺りの話からちょっと文字では伝わりにくくなっていると思うが、しかしまだ理解できる範囲だろうと思う。しかしさらにややこしいことがある。なんと、この「回想シーン」の中に、「映画撮影シーン」と「幻想シーン」がシームレスに接続されるのである。この辺りになると、もはや僕が何を言っているのか理解できなくなると思う。

映画の冒頭は、宇宙飛行士に扮した千代子がロケットに乗るシーンから始まる。もちろんこれは、千代子がかつて経験した「映画撮影シーン」である。そして同じように、「恐らくかつて千代子が出演したのだろう映画のワンシーン」が、「回想シーン」の中にシームレスに接続される。「シームレスに」というのはどういうことかと言えば、「『回想シーン』だと思っていたものが、いつの間にか『映画撮影シーン』になっていた」みたいなことである。

さて、今僕は「”恐らく”かつて千代子が出演したのだろう映画」という表現をした。なぜ「恐らく」と書いたのかと言えば、作中には明らかに「妄想シーン」も含まれているからである。この「妄想シーン」は概ね、「千代子扮する様々な役柄が、想い人を追いかける」という描写になっている。つまりこれは、千代子がかつて経験した「鍵をくれた男性」との思い出を、戦国時代や明治時代など様々な時代背景に落としこみながら再帰的に描き出すような描写なのである。

このようにして、「回想シーン」の中に「映画撮影シーン」と「妄想シーン」がシームレスに挿入されていく。

さらにカオスなのは、立花が途中から「傍観者」の立場を捨てて、「妄想シーン」の登場人物の1人として振る舞い始めるということだ。カメラマンの井田は最後まで「傍観者」のままなのだが、立花は武将になって闘ったり、番頭になって千代子を逃したり、車夫となって千代子を載せた車を引いたりするのである。

何を言っているか理解できるだろうか? まあともかく、こんな感じで物語がかなりカオティックに展開していくのである。

長々と文章を費やして、このややこしい物語を文字で紹介してみたが、冒頭で書いた通り、別に観ている分にはまったくややこしくない。もちろん、「立花と井田が回想シーンに普通にいる」とか、「立花が妄想シーンの登場人物になる」みたいなのが描かれる最初はちょっと面食らうのだが、すぐに慣れる。「なるほど、こういうシステムの作品なんだな」とスッと理解できるのだ。その「システム」がこれでもかと折り重なって、文字で説明する分には凄まじくややこしくなるのだが、映像的にはもの凄く分かりやすくて、たぶん誰でもスッと理解できるんじゃないかと思う。

そんな、物語の構成と演出がとにかく凄まじい物語だった。

しかも、一応書いておくと、「物語の構成と演出にめっちゃ感心させられたから良かった」みたいなことでは全然ない。いや、もちろんそういう側面もあるのだけど、とにかくシンプルにストーリーがメチャクチャ良いのだ。別に構成とか演出を分析に捉えようとしなくたって、ただただ物語に身を委ねていたら、「良い話だったな!」ってなるんじゃないかと思う。

構成・演出がメチャクチャ凝ってて、それ単体でも素晴らしいのだけど、それが「藤原千代子という女優の一生」を描き出すのに最適な使われ方をしていて、だからこそ物語全体がもの凄く良いものに受け取られる、という点が何よりも素晴らしい。テクニカルな部分が感性の部分を下支えしているからこそ感覚だと思うし、そのバランスがメチャクチャ素晴らしいと感じた。

ちょっと違う話かもしれないが、以前何かで読んだ東野圭吾のエピソードを思い出した。ミステリ作品を多く出版している東野圭吾だが、彼は「トリックから物語を考えることはない」と、以前何かで書いていた(あるいは答えていた)と思う。これは要するに、「トリックをまず用意し、そのトリックに合うように状況・人物などを決める」のではなく、「描きたい人間ドラマや想いなどをまず考え、それが実現できるようなトリックを考える」というやり方をしているというわけだ。

そして本作も、ちょっと似たような雰囲気を感じた。この感想の中で説明してきたような構成・演出は、別のアニメ作品(あるいは実写作品)でも使えるとは思う。しかしそれは、「トリックを用意し、それ以外の要素をトリックの都合の良いように設定する」みたいなことに近いと思う。本作はそうではなく、「藤原千代子の物語を描くのに、このような構成・演出が最適であると考えた」みたいな印象がある。だからこそ、テクニカルな部分と感性の部分が絶妙に折り合っている感じがするし、テクニカルな部分単体に対する感動以上に、物語全体がもたらしてくれる感動の方が一層強いのだと思う。

しかし、少し前に同じくリバイバル上映されて初めて観た『パーフェクト・ブルー』もそうだったけど、「現実」と「映画撮影」と「虚構」を織り交ぜる構成がマジで天才的だと思う。凄い。「現実」と「虚構」を織り交ぜるだと選択肢が狭まってしまうけど、そこに「映画撮影」も組み込むことで、組み合わせのバリエーションがかなり広がることになる。さらにそこに、「千代子扮する様々な役柄が、想い人を追いかける」という繰り返し構造を含めることで、「視覚的には時代が異なっているのでまったく別物に映るが、ストーリーの本質はまったく同じである物語がリフレインされることで、千代子の想い人に対する気持ちの強さが視覚的にも理解できる」という形になっている。これがホントに上手いと思うんだよなぁ。普通にやったら「同じ話じゃん」となってしまうところ、「千代子が女優であること」を利用し、「かつて千代子が関わっただろう作品の中に、想い人を追いかけるストーリーを組み込んでしまう」という構成にすることで、まったく違う見た目になっていることがとても良い。メチャクチャ新鮮に感じられた。

さらにそこに、「立花が登場人物の1人として関わっていく」という設定が組み込まれ、コメディ的な幅も広がっている。もちろんここにはちゃんと、「立花が千代子に憧れを抱いている」という前景があるし、「想いの強さがこのような状況を生んでいるのだ」みたいな説得力を担保してもいるから成立しているように見えるのだと思う。実際にはかなりムチャクチャな作りなのだけど、細部の要所を押さえているからそれらが「粗」として浮かぶことはない。そして純粋に「面白いことやってるなぁ」という受け取り方が出来るようになるのだ。

いやホントにメチャクチャ感心したし、メチャクチャ感動した。冒頭で書いた、「『作中で描かれている状況』だけ取り出したら全然大したことないのに、『演出』によってこんなに面白くなるのかと驚愕させられた」という感想がすべてであり、ストーリーのシンプルさと演出の巧妙さ、そしてそれらが絶妙にミックスされたことによる力強い感動に圧倒されっぱなしだった。

メチャクチャ良かった。

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