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【本】綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出」感想・レビュー・解説

僕がブログを書き始めてから、16年のようだ。


その時々でたぶん、感想の書き方は変わっていると思う。意識的に変えているつもりはないのだけど、その時その時で、何を伝えたいか、どう伝えたいかということが変わっていっている感覚はある。


今僕は、「出来るだけ本の雰囲気を伝えられるような文章を書けたらいいな」と思っている。もちろん、到底そんなことは出来ていないのだけど、意識としてはそんなことを考えている。その本を読んで、僕がどう感じたのか、何を考えたのか、ということが伝わることよりも、その本を読んでいない人が、その本の雰囲気を感じ取ることが出来るような文章が書けたら素敵だ。

淀川長治さんが、「この映画はこういう構成で、こんな人が出てきて、こんなところが面白いんですよ」と喋っているような、そういう文章を書きたいのではない。僕は、映画の予告編のような、それを見るだけで映画そのものの雰囲気を感じ取れるような、そういう文章が書けたらいいなぁと意識だけはしている。


なんでこんな話をし始めたのか。


それは、本書を読んで、本書についてはそんなこと、どうやっても出来ない、と感じたからだ。本書について、どんな風に何を書こうと、本書の雰囲気はまったく伝えられないだろう。きっと、ほとんど、何も。読み始めてすぐ、そう思った。この作品は、実際に自分がその前に立って向き合わなければ、作品が持つ圧力みたいなものは一切感じられないだろう、と。もちろんどんな作品だってそうだろう。実際に対峙しなければ伝わらないだろう。しかし本書は、それが圧倒的だと感じた。


そして同時に僕は、きっと著者もそう思ったのに違いないと思った。これも、読み始めてすぐ思った。著者は、圧倒的な現実を目にした。その場にいて、目だけでなく、鼻でも耳でも舌でも皮膚でも、常に何かを感じ続けた。その経験を文字に変換する。


無理だよ。たぶん、そう思ったはずだ。


それでも著者は、自分が感じたことのほとんどを伝えることが出来ないと分かっていて、それでも文章を書いた。まずそのことだけでも称賛に値するだろう。よくぞ書いてくれた、と思う。


第三章で著者は、Tさんという編集者と共に福島入りをする。本書の担当をしてくれた人だ。その人に、第一章「川と星」で書いたある場所へと行った時のことだ。

『おそらくTさんは、日本で一番「川と星」に目を通してくれた人だろう。そんなTさんにすら、見たものを伝えられていない、書けていないのだと、その横顔を見ながら痛感した』

著者はそう述懐する。さらに別の現場での編集者の反応に対して、こんな思いも抱く。

『衝撃を受けた様子で壊れた家々を見上げるTさんを見ながら、私は妙な歯がゆさを感じた。人の手で片付けられた後の風景を見て、ショックを受けないで欲しい。はじめの状態は、もっともっとひどかったんだ。そう思った後すぐに、私があまり手をつけられていない地区にボランティアに行ったことなんてほんの偶然じゃないか、と自省する。けれど、もっと、違うんだ、もっと、見えないものがあった、今見ているものよりも辛い状態だったんだ、と袖をつかみたくなる。もちろん、Tさんにはなんの落ち度もない。難癖をつけているのは私の方だ。混乱したまま、私は無口になった』

それでも著者は、文章を書いた。雑誌に書いた文章を書籍化した。感じたことをすべて表現しきれるわけがない、それでどれだけのものが伝わるだろうか、さらに自分は一旅行者として被災地を通りがかっていただけだ、そんな人間が書く文章などどんなものなのだろう。そういう葛藤が渦巻いただろう。それでも著者は、文章を書いたし、書籍化した。まずそのことを、称賛したいと僕は感じた。


著者は3月11日のあの日、二泊三日の東北旅行の二日目だった。あるきっかけで知り合った福島の友人と待ち合わせをしていたのだ。


線路沿いが燃えている、というアナウンスの後、電車が揺れた。横転するかと思うほどの強烈な揺れだった。看板で駅名を確認する。「新地」という、知らない駅名が書かれていた。


それから著者は、電車から離れ、津波から逃れ、避難所で向かい、縁あって個人宅へとお邪魔させてもらい、数日被災地に留まった後、どうにか命からがら自宅へと戻った。

『私はこのとき確かに自分の死を思った。全身の血の気が引き、凍え、それなのに頭は痛いくらいに冴えていた。死ねない、死ねない、と鐘を打つように頭の中で繰り返して、死にものぐるいで坂の上の中学校に辿りついた。』


『なるべく人のいない方向へ向かった。暖房の入っていない渡り廊下へ出ると、さすがに誰も眠っていない。壁にもたれて、携帯を開いた。家族との最後のメールを眺め、「新規作成」の項目を押す。
がくがくと震える指で遺書のはじめの二行を綴り、私は携帯の画面を閉じた、書けなかった。いやだった。どうしても、どうしても。』

著者は、この作品を書くのに、多くの決断をしたはずだ。その一つに、「出来るだけ、自分の気持ちを、嘘偽りなく、正直に書く」という決意があったはずだ。


一旦落ち着いた後、ボランティアに参加することにした著者は、こんな不安を抱く。

『出発前夜、支度を終えると少しずつ腹の底が冷たくなり、落ち着かない心地になっていった。
こわかった。二泊三日。また、なにかが起こるのではないか。家に帰って来れなくなるのではないか、ひどい目に遭うのではないか。根拠のない、条件反射のような不安感だ。これからたくさんの人が住み、日々生活している場所に行くというのに、なんて失礼な感覚なんだろう。頭ではわかっている。けれど、止まらない』

『車を降りたときから、私は防塵マスクをつけていた。うすぼんやりと、怖かったのだ。いくら線量が低くても、やろうと自分で決めたことでも、怖かった。二十七キロという数字がただ怖い。』

『無意識に息を細めてしまうことが申し訳なくて、やるせなかった』

また著者は、ボランティアを終えた後、農家の方からタマネギをもらう。

『笑ってお礼を言いながら、わたしは一つのことしか考えられなかった。原発三十キロ圏内のタマネギ。依頼主の男性には、善意しかなかった。全国から無性でやって来たボランティアに、自慢の野菜をせめて土産に持たせようとしてくれたのだろう。グループのメンバーは貰う人、貰わない人、半々だった』

『ボランティアセンターへ戻り、解散した後も、私は手にしたタマネギのことで頭がいっぱいだった。正直なところ、原発三十キロ圏内で作業をしたこと、さらに線量が高いと言われる側溝の掃除を行ったことで、心がすでにすくんでいた。食べるか、食べないか、どうしよう。おそらくこのタマネギを食べたぐらいで私の人生に変化が起こることはない。それでも少し胸が濁る。』

『善意で野菜をくれた男性の「安全だよ」を信じきることが出来ない。つまり私は「出来る限り福島県の農家の方を支援したい」などと言ってきたにも拘わらず、「原発から五十キロ離れた農家の野菜は食べても、二十七キロの農家の野菜は食べたくない」と根拠のない差別を行なっているのだ』

正直、書かないと決めれば、書かないでいることも出来たことではないかと思う。自分が目にしたもの、人から話で聞いたこと。それだけでも、十分圧倒的な力を持つ。自分の嫌な部分は、汚い気持ちは、隠したままでも、きっと文章は書けたはずだ。でも著者はそうしなかった。自分の弱い部分、揺れている部分、迷う部分、決めかねる部分、理性ではわかっているけど感情がついてこない部分。そうしたことを、出来るだけ忠実に、嘘をつくことなく書いていく。


これは、辛い作業だったはずだ。傷口に刃物を突き立てて無理やり膿を出すようなものだろう。しかもその行為は、膿を出してスッキリするためになされるわけではない。膿は恐らく、これからも長いことずっと出続けるだろう。ちょっとした処置をしたぐらいで止まるものではないと、著者もわかっているはずだ。それでも、傷口に刃物を突き立てずにはいられない。

『震災後、関東に帰りついた私は日々重苦しい自責の念にとらわれることとなった。あんなに親切にして貰った人たちを置いてきてしまった、という罪悪感だ。自分だけ安全圏に逃げた、という後ろめたさもある。理性では、あそこに残っていてもなにもできない、そばにいる人の負担になるだけだ、とわかっている。けれど憂鬱は晴れず、罪悪感を払拭するように震災にまつわるルポを書き、募金にためにと仕事に打ち込んだ。

ひと月経ち、ふた月経つにつれて、今度はだんだん自分の意識が被災地から遠ざかっていく恐ろしさを感じるようになった。まるで薄皮のむこうの出来事のように、ニュースや新聞でいくら被災地の情報を目にしても、「大変そう」と平面的に思うばかりで、感情が伴わなくなって来たのだ。』

そんな罪悪感を抱く必要はない、と答えるのは簡単だ。それに、著者だって、それはわかっている。けれどもそれは、まるで刻印のように、著者に焼き付けられてしまったのだ。刻印は、洗っても拭いてもこすっても消えない。そういうものを著者は内側に抱えてしまった。刻印のある者とないものの差、そしてさらに、被災地に生きる刻印を持つ者たちとの差。そうした差異を著者は、刻印を持つ者の一人とした感じ、生きていくことになる。

『私の内側の、世界とはこういうものである、という認識の安定を司る部分がばらばらになってしまった気分だった』

被災地で著者が感じること、また、そこに生きる人たちが感じること。日常になってしまっていることと、それが日常になってしまっていることへの強烈な違和感。それらを著者は、素直に切り取っていく。

『震度三ぐらいの揺れは、もう会話にすら上らない』

『それぞれが見てきたもの、感じたことを語れば、すぐに誰かの死や恐ろしい虚無に行き着いてしまう』

『蠟燭の細い火は、余計に室内を暗く感じさせた』

『あんなにおいしいご飯は食べたことがなかった』

『けれど、エトウさんを探す伝言板のメモは、その後もずっと剥がされなかった』

『店内に残っている食べものは駄菓子のグミが三袋とホワイトデー用だろうラッピングされた六百円のチョコトリュフが一箱だけだった』

『つまり、私がショックをうけている光景は、すでにたくさんの方が三ヶ月かけて片付けをした後のものなのだ』

『「解体撤去」の紙が貼られた玄関の板壁には、黒のマジックで丁寧な字が大きく書き込まれていた。
「カタフチ家 築百年 長い間、お世話になりました」
別れの言葉のそばには、箒が三本、きちんと並べて立てかけられていた』

『一つ一つ、転がる品を手にとって捨てていくうちに、家主の像が浮かんでくる』

『捨てていいものだとは思えなかった。どうすればいいのか分からなくて、手に持ってしばらくうろついた後、ためらいを押し殺して燃えるゴミの袋にそっと入れた』

『少しずつ見えるスペースが増えてきた室内を眺めながら、家というのは記憶の蓄積なのだ、と痛いくらいに思った』


その中で、著者がもっとも衝撃を受けたのが、自宅でしばらく面倒を見てくれたショウコさんの弟さんの言葉だ。

『はじめは、なにも気づかなかった。景色を見ながら、弟さんが言った。
「本当は、ここから膿は見えなかったんだ。防風林に完全に隠れていた。それに林の手前には、住宅地があった。もう、なんにもないな」
ぞっとした』

著者は被災地で、無数の善意に助けられてどうにか生き延びた。そしてその人達が語る言葉の強さもまた、心を打つ。

『私たち、あの津波を生き残ったんだから、ぜったい運が良いわよ。だいじょうぶ、死なないわ』

『恩なんて考えないで、向こうに帰ったら、こっちのことはきれいさっぱり忘れていいよ。しんどい記憶ばかりで、思い出すのも辛いでしょう』

『放射線量の低い地域の作付けについては、補償は行き届かないでしょうから。補償がされないってことは仕事を続けない限り無収入になるってことです。でも、作ったお米が仮に安全基準を満たしていたとsても、売れるかどうかは分かりません。それでも、補償の範囲が明確にならない以上、やっていくしかないんです』

著者は、震災で強烈な体験をし、被災地と少しずつ関わる中で、自らの内側で様々な考えを渦巻かせて、こんな風に考えるようになる。

『私は逆に、無理なのだ、と思った。この、放射性物質という見えない恐怖に、国民全員が「理性的に、落ち着いて、差別が起こらないよう冷静な対応をすること」は、出来ないのだ。安全か、安全じゃないか、どこまで安全か、何年経っても安全か、その情報は、本当か。こんなグレーゾーンを抱え込み、それでも全員が理性的に振るまい、被災者と苦痛や不安を共有できるほど、きっと私たちの社会は成熟していないのだ妄想がふくらみ、不信が起こり、その鬱憤がこうして、ただでさえ日々辛い思いをしている人へ向けられる』


虚しい結論だ。しかし、刻印を持つ著者は、その結論の絶対性に、抗うことが出来ない。刻印を持たないものは、きっと、なんとでも言うことが出来るだろう。良い悪い、すべきすべきでない、正しい間違っている。しかしそれは、たぶん、極限状態では意味をなさない言葉だし、そして被災地は、まだ、極限状態が継続しているのだ。極限状態から脱する日など、果たしてくるのだろうか。


本書を読んで何を感じるか、それは自由だ。著者も、気持ちや価値観を押し付けるつもりはないだろう。何をどう感じてもいい。何も感じたくなければ、読まなくてもいい。僕は、まだまだ知りたい。自分の可能な範囲で、知りたいと思う。そして、ささやかにではあるけれども、自分が知ったことと同じことを、誰かも知ってくれたらいいな、と思う。


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