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【本】木原音瀬「箱の中」感想・レビュー・解説

BLを読む時はいつも、「それが起こりうること」がどう描かれているかに着目してしまう。


僕は、同性愛的な傾向はないけど、BLを時々読む。読み物として興味深いと思えばなんでも読む人間なので、BLだからと毛嫌いすることもない。


ただ、そうたくさんBLを読んできたわけではないが、自分の中で、こういう作品はちょっとあまり好きになれないな、と感じる部分が分かってきた。
それは、「男同士の関係に陥ってもおかしくない状況設定であるか否か」である。


これは、誤解されないためにも少し説明が必要だろう。


先に書いておくと、僕は、「男同士が関係を持つことを不自然に思っている」というのではない。そうではなくて、「物語の中で、男同士が、理由なく関係を持つことを不自然に思っている」のだ。


BLの場合、要素として必ず「男同士が関係を持つ」というものを含む。肉体関係まで描写されるかは作品によるけれども、男同士の恋愛が描かれているものがBLなのだから当然だ。しかし、その描かれ方には様々なものがある。
大別すると、「一方(あるいは両方)がノンケ(つまりホモやゲイではない)」か、あるいは「両方ノンケではない」となる。もちろんこれに当てはまらない作品もたくさんあるだろうけど、ざっくりとこんな風に分けられるはずだ。


そして僕は、前者のような作品は受け入れられるが、後者のような作品はあまり好きではない。


「一方がノンケ」の場合、そこに男同士の恋愛関係が生まれることに、何らかの状況設定が存在しないと物語として成立しえない。これは当然、「社会の中で、同性が恋愛をすることはおかしいと思われている」という点に立脚する。様々に意見はあろうが、事実として、同性の恋愛がマイノリティであることは確かだろう。


そういう中で、ノンケとの間に恋愛関係を成立させるのは、なかなか難しいように思う。僕は、現実の世界のゲイやホモの人のことをよく知らないけど、おそらく、ノンケに手を出そうとする人はそう多くはないのではないかと思う(少し前に読んだBLのコミックに、そんな描写があった)。何よりも、リスクが大きい。ゲイやホモ同士で関係を持つ方が、社会的にも安全だろうし、恋愛としてもうまく行くかもしれない。内面はどんな風なのかわからないけど、少なくとも外面的には、ノンケにはなかなか手を出しにくいだろう。


だからこそ、「一方がノンケ」の場合には、そこに物語が生まれ得る。


一方で、「両方がノンケではない」場合はどうか。そこに、物語が生まれ得るだろうか?


これは、「男同士が関係を持つことを不自然に思っている」という話ではない。寧ろ、自然であるからこそ、そこには物語が生まれにくいと僕は感じるのだ。


これは、男女の恋愛の場合でも同じだろう。


恋愛を扱った物語で、お互いがお互いを好きで、相手を好きになることになんの障害もなければ、そこには物語は生まれにくいはずだ。相手が自分のことを好きでなかったり、好きになることに障害があるからこそ、そこに物語が生まれる。


僕自身はそういうBLを読んだことはほとんどないけど、BLの中には「ただセックスしてるだけ」に近い作品もたくさんあるという。男同士の恋愛関係に葛藤するとか、障害を乗り越えようとするとか、そういう部分なしにひたすら肉体関係だけが描かれる。それはそれで、女性版官能小説なんだろうと思えばいいし(まあ、何で男同士なのか、という疑問は残るわけだけど)、否定するつもりもないけど、個人的にはそういうBLは面白くないだろうなと思う。


BLというジャンルがもし嫌悪されるとすれば、そういう、「ただセックスしているだけ」という作品がBLのイメージになっているからだろうという気がする。そういうBLしか知らない人であれば、確かに不快かもしれない。けれど、BLにも、もっと違った作品がある。


「一方がノンケ」であるBLは、BLにしか描けない世界観を作り上げると僕は感じる。男女間の恋愛とは比べ物にならない障害やハードルがそこにはある。ノーマルであるノンケに恋をしてしまったら、その狂おしいまでの障害をどうにかして乗り越えなければならない。この障害を、男女間の恋愛で描こうとすれば、相当な舞台設定を用意しなくては難しいだろう。兄弟姉妹との恋愛、というようなかなりのタブーを犯さなければ、男女間でそれだけのハードルを設定することは難しい。

でも、BLの場合は、日常的な設定の中で、そのハードルを設定することが出来る。それをどんな風に乗り越えて行くのか。同性愛者というわけではない僕がBLを楽しむ余地は、そこにある。


本書は、どちらかに分類すれば「一方がノンケ」なのだが、本書の場合、さらに特異な状況設定がされていて一筋縄ではいかない。その特異さは、ある一人の人物の造形によって生み出されるわけなのだが、その話は後で書こう。

本書は、「箱の中」「脆弱な詐欺師」「檻の外」という3つの中編で成り立っている。世界観はすべて共通している。時系列順に並んでいて、「箱」「檻」は刑務所を指している、と書いておこう。この感想の中では「箱の中」の内容紹介だけすることにする。

「箱の中」

堂野は、痴漢の冤罪で実刑判決を受けた。数万円の罰金を払えば釈放されたはずだが、やってもいないものを認めたくはなかった。最高裁への訴えが棄却され、一貫して否認し続けたために「反省の色がない」として執行猶予がつかなかった。堂野は拘置所から刑務所へと移され、仮釈放までの10ヶ月間、この「箱」の中で過ごすことになる。


『まともなのは自分だけだ』と堂野は思っていた。『強盗や覚せい剤の話が当たり前のように飛び交う中にいると、どこからが間違いでどこからが正しいという自分の物差しが狂いそうになる。自分まで「悪いこと」に影響され普通の感覚をなくしそうだ』と感じていた。自分以外の人間は、すべて、犯罪者なのだ。ここで、気を許してはいけない。


『悪いことなんて何一つしなかった。中学、高校とも無遅刻無欠席で、皆勤賞をもらった。大学ではエチオピアの恵まれない子供を支援するボランティア団体に入っていた。市役所に就職してからも、休んだのは風邪をこじらせた一日だけ、ひたすら真面目に、真面目にやってきた。そんな自分のどこが悪くて、こんな目にあうのだろう。すべては「運が悪かった」の一言で片づけられるのだろうか』 堂野は、苦しんでいた。両親と妹にも、自分のせいで多大な迷惑を掛けている。その上、自分の失態で、さらに両親に迷惑を掛けてしまった。


もう嫌だ。死にたい。堂野は、崩壊しかけていた。


ここからどんな風に男同士の恋関係が生まれるのか。その展開は、是非本書で読んでほしい。ここには、それまで僕が読んだ数少ないBL作品とはまた違った展開で、男同士の関係性が生まれていく。それは、刑務所という特異な環境だけによって成立しているわけではない。僕自身は知らないが、刑務所内のBLというのもきっと、世の中にはたくさんあるのだろう。本書を特徴付けているのは、刑務所という空間の特異性に加えて、ある人物の人間的な特異性による。


それが、喜多川だ。


喜多川は、堂野と同じ房に、堂野が来る遥か以前からいいた。無口な男で、誰ともほとんどコミュニケーションを取らない。人づてに、人を殺したのだと耳にしたこともあるが、まったくそんな雰囲気を感じない。よくわからない男だった。


この喜多川が、物語を深いものにしていく。喜多川という男の存在が、この物語を、ただのBLに収めてしまわない。こんなことを書くのは恥ずかしいが、この物語には、「愛とは一体なんなのか?」という問いかけが、喜多川の言動によって常に意識されることになる。

解説で三浦しをんはこんな風に書いている。

『堂野の目には、そんな喜多川が、本当の意味での愛を知らぬ獣のように映る。しかし、実はそうではなかったのだ、ということが、読み進むうちに明らかになる。常識や世間体に縛られ、愛の本質を深く考えたことがなかったのは、喜多川ではなく堂野のほうだった。』


本書を読んでいると、まさにそう感じさせられる。喜多川は、パッと見、「愛とはなんなのか?」を知らないように見える。それは、喜多川の生い立ちを考えると仕方ないと思える。喜多川は、誰かに愛されたことがなかった。だから、「愛する」ということがどういうことなのか、もっと言えば、他人と人間関係を取り結ぶということがどういうことなのか、理解できないでいたのだ。


方や、堂野は、ごくごく普通の男だ。冤罪で収監されたという意味で、刑務所の中ではどちらかと言えばまともではない部類なのかもしれないが、堂野は間違いなく、世間一般の、ごくありきたりな男である。つまりそれは、常識や世間体にどっぷり浸かっているということでもある。

堂野は、「愛ってなんだろう?」と考える機会は、恐らくそれまでなかったことだろう。それは、常識や世間体が支えてくれているからだ。思考によって自ら支えを生み出さなくても、常識や世間体が勝手に支えてくれるのだ。だから、常識や世間体を持たない喜多川と対峙して、堂野は困惑する。今まで考えたこともなかった「愛ってなんだろう?」という問いを、喜多川という男を理解するために、そして、喜多川と適切な距離を保つために、自らに問いかけ続けることになる。


堂野の困惑は、よく理解できる。この作品がBLであるが故に、その困惑には様々なものが入り混じる。当然そこには、男から好意を寄せられていることへの困惑もある。しかし、決してそれだけではない。堂野は、これほどの愛情を他者に注ぐことなど出来るものなのか?という困惑にもさらされることになる。ここに、本書の特徴がある。ただのBLには収まらない特色がある。二人の関係は、「男同士の関係」として特異なのではなく、「人間同士の関係」として特異なのではないか。そんな風にも読者を揺さぶってくるのだ。

『好きでいるのは、辛いな。俺は崇文が好きな間、ずっとこんな気持ちでいないといけないのか』

『ここにいる間だけでいいからさ。恋人より、俺のことを考えてよ、あと一ヶ月もいないだろ。その間だけ』

『同じ雨の降っている場所にいるんだって思うぐらいいいだろ。顔が見たいって思う時に、歩いていける場所にいたっていいだろ』

『まあな。でも、あんたに相談してみたかったんだよ』

僕には、堂野の困惑が分かるように思う。たぶん、多くの人が、堂野の困惑を理解するだろう。何故なら、喜多川から向けられる好意は、幼い子供からのそれのようなのだ。大人になればなるほど、多くの人が、そんな純粋な好意を持てなくなっていく。打算とか諦念とかそういうもので凝り固まった好意を、皆、純粋なものであるかのように見せかけてやり取りをしているだけだ。そういう「お約束」を、疑いもせず、不自然でもないと感じる堂野のような「常識人」には、喜多川のような好意は不可解だし、困惑させられる。

『どうして友達ではいけなかったのだろう。友達だったらずっと付き合っていけたような気がするのに。恋愛よりももっと、長続きしたに違いないのに』

堂野はそんな風に感じる。堂野は、喜多川を拒絶出来ない。そこには、喜多川の不幸な生い立ちが関係していると感じるし、何よりも、喜多川からの好意は決して不快ではない。しかし、過剰ではあるのだ。その過剰を、喜多川はコントロールできないし、それが過剰であることを喜多川は理解しない。

『みんな出たいって言うけど、ここの何が嫌なんだろうな』

刑務所の中で、喜多川はそんな風に言う。喜多川には理解できない感情がたくさんある。理解できない感覚がたくさんある。常識に流されることもなければ、「間違っていること」に対して罪悪感を抱くこともない。その喜多川の真っ直ぐさが、僕らに、常識や世間体を、僕らが存在すると感じてもいない前提を疑わせる。


喜多川という特異点が、物語を異質なものに変える。本書は、「BLだから異質」なのでは決してない。本書がBLであるというのは、寧ろ背景でしかないのではないかと思える。喜多川の異質さが、「BLの異質さ」をなぎ倒していく。そして読み進めていく内に、喜多川の方が正しいのではと思える瞬間もやってくる。堂野が、喜多川が、どんな経験を経て変わっていき、二人の間にどのようにして何が生まれるのか。その過程に、強く打ちのめされる作品だ。


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