【映画】「ハウス・オブ・グッチ」感想・レビュー・解説

映画を観ながらずっと、「なんでこんな映画が成立したんだろう」と考えていた。その疑問は、物語が進むに連れてどんどん大きくなっていく。

僕はこの映画を観る前、映画については予告で流れている程度の情報しか知らなかった。しかし予告の段階でさえ「殺人事件」というワードは出ていたはずだ。また、詳しくは分からないが、恐らく映画の中で、実際のGUCCIの店内を使った撮影が行われているんじゃないかと思う。というか、こんな映画を作るぐらいだから、GUCCIの許諾をもらっていないはずがない。

つまりこの映画は、「GUCCIのかなりスキャンダラスな部分が描かれながら、GUCCIの許諾は得ている作品」というわけだ。

普通に考えれば、それこそブランドの名前で商売をしているGUCCIが、そんなスキャンダラスな内容を認めるわけがない、と感じてしまう。

しかしその謎は、映画の最後で理解できた。これは映画本編の情報ではなく、恐らく元々オープンになっている情報だろうから書いても問題ないだろう。

現在の「GUCCI」には、グッチ家の人間は誰もいないのだという。なるほど、だからこそ、「グッチ家の醜悪さ」を描きながら「GUCCIから許諾をもらう」なんていう状況が成立するのか、と感じた。

映画の冒頭には、「実話に着想を得た物語」と表示される。この表記を見た時は、「GUCCIに配慮して改変した部分があるのだろうか」と感じたのだが、映画を最後まで観て考えが変わった。恐らくこれは、「この映画で描かれている内容について正しく語れる人間はほとんどいない」という事実を示しているのだと思う。

作品のネタバレにならないようにぼやかして書くが、この映画でメインで描かれる人物のほとんどが、「現在『語れる状態』にはない」ということが、映画を最後まで観ると分かる。つまり、グッチ家の確執を描こうとすれば、想像で埋める部分がどうしても出てくる、ということだ。

映画を観た後でたまたま目に入った記事には、「この映画の内容に、グッチ家は異議を唱えている」と書かれていた。さらにそれに対して、監督であるリドリー・スコットが、「原作本は優れているが、著者の意見が強く反映されている。情報を元に、様々な立場の人間に立って考え直した上で、私なりの解釈をした」みたいなことを書いていた。どのみち、「本人に話を聞くこと」はできないのだし、どうしても想像で埋めるしかないのだから、解釈に差が出て当然だ。異議を唱えているというグッチ家の人間にしても、別にすべての場面を目撃しているわけではないだろうから、その異議に意味があるようには感じられない。

とまあ色々書いたが、この映画は「創業者一族がGUCCIからいなくなっている」「メインで描かれる人物が皆『語れる状態』にはない」という特異さを踏まえた上で、その内容を捉えるべきだろうと思う。

創業者一族がいなくなった、と聞いて僕は「円谷プロ」を思い出した。以前『ウルトラマンが泣いている』という本を読んで、様々な事情から「円谷プロ」も、創業者一族が排斥されてしまったという経緯が書かれていた。

映画の中には、「同族経営には同族特有の問題がある」というセリフが出てくる。世界的な企業で言えば、まだ「TOYOTA」は同族経営なんじゃないかというイメージがあるが、やはり、規模が大きくなるにつれて創業者一族での経営というのは難しくなっていくのだろう。

この映画でも、一面では確かに「カネや権力に取り憑かれた女が暴走した」という物語だが、別の一面では「同族経営故の複雑さ」も描かれていく。恐らくそんなめんどくささを嫌ったのだろう、アダム・ドライバーが演じる、次世代のGUCCIを継ぐと目されていたマウリツィオは、映画の冒頭で父親と喧嘩し、家も家業も捨てるのだ。もちろんそのままだと話が進まないので、結局彼はGUCCIに戻るわけだが、マウリツィオはもう少し違う生き方が出来ただろうと思わされる人物なので、なんともやりきれなさはある。

マウリツィオが、

【今が一番幸せなのに、どうして変える必要がある?】

と聞く場面がある。まさにそれは、GUCCIに戻る前のことなのだ。彼は、GUCCIと関わりを持たない形でも幸せを感じることができる人間、というわけだ。そのことからも、違う人生があり得たのだろうなぁ、と感じさせられる。

なんともやりきれない。

内容に入ろうと思います。
レディー・ガガ演じるパトリツィアはトラックの運送業で材を成した家の娘であり、トラックが並ぶホコリまみれの敷地内にある事務所で父の仕事の手伝いをしている。ある日パーティーでマウリツィオ・グッチと出会うが、12時になったらそそくさと帰ってしまった。その後街で偶然見かけ、「私をデートに誘わないの?」とアピールする。2人は惹かれ合い、マウリツィオの父ロドルフォ・グッチにその結婚を反対されるも、マウリツィオは家を出て、運送業の仕事を手伝いながら弁護士を目指す生活を始める。
マウリツィオは父から、お前にGUCCIのすべてをやると言われたが、彼の触手は動かない。それよりも、パトリツィアと平凡ながら幸せな生活を続けることが望みだったのだ。
しかし妻のパトリツィアの方は、決してそうではなかった。
さて、ロドルフォは兄アルド・グッチと株を50%ずつ有しており、彼らがGUCCIのすべてを決めていた。ロドルフォは保守的で、GUCCIの伝統を守ることに価値があると考える人物だが、アルドの方はNYなど海外進出を積極的に推し進め、GUCCIを拡大させた人物だ。
マウリツィオがGUCCIから離れている内に父が亡くなり、それを機に、マウリツィオにとっては叔父に当たるアルドが彼に接近する。アルドにも息子はいるのだが、「バカで無能」だとアルドは考えており、今後のGUCCIのことを考えて、甥のマウリツィオを取り込んでおきたかったのだ。マウリツィオはGUCCIと関わることに逡巡するが、カネと権力に執着が強いパトリツィアがアルドと手を組み、マウリツィオをGUCCIに引き戻すことに成功する。
パトリツィアはさらに、マウリツィオを動かして、アルドとその息子を排除したいと考えるようになるが……。
というような話です。

誰もが知る有名ブランドで、こんな”大事件”が起こっていたとは知らなかった。もちろん、GUCCIでなくても、あるいは同族経営でなくても、企業内の権力闘争は様々なところで起こっているのだろうし、珍しくはないのかもしれないが、この映画で描かれるのは単なる「権力闘争」ではない”大事件”だ。

どうしてこの”大事件”のことを知らなかったのだろうと考えてみると、1つには、この事件が起こった時、僕が中学生ぐらいだったということを挙げられるだろうと思う。日本で報道されていたが、中学生だったので見ていないか覚えていないかどちらかったのではないか、と。

しかし、それだけではないような気もする。

映画の中で、GUCCIではないブランドのファッションショーの場面が描かれ、マウリツィオはそこで店舗デザイナーみたいな職業の人と話をする。話の流れで店舗デザイナーが名刺を渡し、恐らく社交辞令のつもりだっただろう、マウリツィオが「いつかあなたにデザインを頼むよ」みたいなことを言うと、その店舗デザイナーが、「GUCCIとの仕事は誰も望まない」みたいなことを言ったのだ。

この描写から考えると、GUCCIというブランドは一時期、業界内外でその評価が下がっていたのではないかという気がする。もちろんそうだとしても、世界的に知られたハイブランドという認識は変わらないだろうからニュースバリューは常にあったと思うが、もしかしたら、評価が下がっていたことによりニュースとしてちょっと報じられ方が弱まったのかな、という気もした。

映画の話で言えば、まずやっぱり、アダム・ドライバーは良い感じの演技をするなぁ、と思う。同じくリドリー・スコット監督に『最後の決闘裁判』も観ていて、そこにもアダム・ドライバーが出ていたが、どちらでもその存在感を強く感じさせられた。

しかもこの映画では、30年間に渡る物語を描くので、最初は大学生として登場することになる。彼の年齢を調べてみると、38歳だそうだ(関係ないが、僕と同い年だった)。大学生役で通用していたのかは人それぞれ感じ方はあると思うけど、僕は「こういう大学生はいてもおかしくないよなぁ」なんて思ったりした。まあ外国人だからそんな風に感じるのかもだけど。

レディー・ガガも良かった。これも先ほどのリドリー・スコット監督のインタビュー記事に書かれていたが、レディー・ガガはこれが映画2作目だそうだ。彼女が初めて主演した『アリー/スター誕生』は、個人的にちょっと微妙だと感じたが(レディー・ガガの演技がではなく、映画全体が)、今回はとても良く感じた。

運送業で働いている場面での違和感は拭えないが、GUCCIに深く関わるようになってからの「ラグジュアリー感」みたいなものは、出そうと思ってもなかなか普通には出せないだろうし、腹に一物抱えているような、何を考えているのか分からない振る舞いで周囲を翻弄する感じも似合っていたと思う。

個人的に結構好きなのは、「バカで無能」と言われたアルドの息子パオロ。実際身近にいたらあんまり関わりたくない人物ではあるが、遠目に見ている分には面白い。

特に最高だったのは、彼が「凡庸の頂点を極めたな」と、かなり辛辣なことを言われる場面。正直この場面は、「パオロの無能さ」を描こうとしたのか、それとも「ロドルフォの古さ」を描こうとしたのかよく分からないのでなんとも言えないが、少なくとも「パオロがグッチ家の人間から低く扱われていた」ということは伝わるし、彼もまた、生まれる環境が違えば違う幸せを手にできたのではないかと感じさせる人物だった。

さて最後に、「ブランドってなんなんだ?」という僕の疑問を書いて終わろう。

先ほど同族経営の例として「TOYOTA」を挙げたが、「TOYOTA」の場合の「ブランド価値」はたぶん分かりやすい。実際にどう定義されているかは分からないが、基本的には「安全かつ機能性の高い製品を安く提供する」ということに価値があるはずだ。

そしてこれは、「機能」が優先される様々な状況で同じことが言えると思う。もちろん、デザインや伝統も重要だろうが、それ以上に機能や安全が重視される、というわけだ。Apple製品だって、「Apple製品だから使う」という気持ちの人はたくさんいると思うが、それにしたって機能がヘボければ使われないだろう。

でも、バッグや服などは「機能」が優先されるわけではない。時には、「それはバッグや服としての機能を正しく果たしていないだろう」と思われるものさえ存在する。

この場合、「ブランド価値」はどのように存在しうるのだろう、と思ってしまう。

そういう意味では、「同族経営だったGUCCI」は分かりやすい。「創業者が創り上げたものこそGUCCI」と言えるからだ。時代に合わせて変化させなければならないが、その中でも、「創業者がどんな理想を抱いていたか」がブランドの根本になるだろうと思う。

ただ、創業者やその一族が経営から排斥された場合、その「ブランド価値」はどう定義されるのだろうか、と映画を観ながら考えていた。「これこそGUCCIである」と、誰がどういう理由で宣言するのだろう。

映画の中でアルドが、「私が定義したものがGUCCIだ」と口にする場面がある。これはなかなか暴言ではあるが、彼が創業者一族であるからこそ成立しうる言葉でもあると思う。しかし、創業者と関わりがなくなった場合、いかにして「これこそGUCCIだ」と定義できるのだろう。

この映画とはまったく関係ないことだが、なんとなく気になったので書いてみた。

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