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【本】花田菜々子「シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと」感想・レビュー・解説

僕がこの本に共感するのは、まあ当然と言えば当然ではあるのだけど、やはり、「分かるなぁ」と思うことばかり書いてある。


昔から、何かある度に、自分の感覚の”ズレ”と直面させられてきた。

【大人になって、社会性を少しは身につけ、生きづらさは薄まった。自分と違う意見を持つ人との出会いはむしろ発見の連続で面白い。でも、自分にとって当たり前の感覚について話すたびに、驚かれたりして、何度も詳しく説明しなきゃならない挙句、でもどうして?どうしてそんなふうに思うの?と少し否定的なニュアンスで聞かれ続けることは時に疲れる。議論も少しなら楽しいけど、受け入れる気がない人に答えるのは疲弊する】

僕もよく、「どうして?」「どうしてそんなふうに思うの?」と聞く。しかしそれは、純粋にその理由に関心があるからだ。自分の頭では導けない結論や、そこに至る理屈を面白いと感じることは多々あるし、そういうことはいつだって知りたいと思う。たぶん、僕の「どうして?」には、否定的なニュアンスはないはずだ。

「どうして?」と否定的に、つまり、「どうして世間一般とは違うそんな考えを持っているの?」というニュアンスで聞く人は、もちろん僕の人生にもいたけど、そういう人に僕はずっと疑問を抱いていた。あなたの意見が多数派だと仮定したとして、多数派であることにどうして安心できるのですか?と。極端な例を出せば、戦争中は、「国のために死ぬ」という考えが多数派だったはずだ。だから、多数派だからと言って正しいわけじゃない。けど、誰もが、自分が多数派であることに安心したがるように思えてしまう。

昔の僕もそうだったから、その気持ちは分かる。自分が、周りの人と違う考えを持っていることに気づいた時、僕はそれを悟られてはいけないと思っていた。自分が少数派側であるとバレてはいけないと思っていた。多数派の方が正しいと思っていたのか、そこまでは覚えていない。でも、多数派ではない自分のことは、「まちがいさがしのまちがいの方」みたいに感じていたんじゃないかと思う。多数派ではない、というだけで、自分のことを認めてあげられないという感覚は、子どもの頃の僕を支配していた感覚だった。

【子どもの頃から、社会や世間から「~でなければならない」「~であるべき」と無意味な習慣や前時代的な考えを押し付けられることが苦手だった。その耐性が著しく低いせいで、普通に学校に行くこともかなりしんどかったし、普通の親が子どもに言うような命令や指示も受け入れることができなくて、ただそこにいるだけで大変だった】

そう、本当に、ただそこにいるだけで大変だった。恵まれた環境にいようが、仲間に囲まれていようが、打ち込める何かがあろうが、この「ただそこにいるだけで大変」という感覚から逃れることは本当に大変だし、時に逃避や死をも誘発する。こういう感覚は、伝わらない人には本当に伝わらないから、ただ怠けている、甘えているように捉えられてしまったりして、益々自分を肯定するのが難しくなっていく。

【若い頃そんなふうに、あなたは変じゃないよ、と助けてくれたのは、人の場合もあったけど本のことも多かった。ぐらぐらの自分を本に支えてもらった経験はあまりにも多すぎて数えきれない】

自分の価値観を、身近にいる人が理解してくれない場合、あるいは、分かり合えないと感じられてしまう場合、心の距離はどんどんと遠くなっていく。だから僕も、本が僕の背骨を作ってくれたみたいな感覚はある。大人になってから読んだ本の中に、「子どもの頃、この本に書いてあるようなことを大人が言ってくれてたら、あんなに悩まなくても良かったのに」と思えることは多々あった。まあ現代なら、ネットの世界で、自分と感覚の近い人を見つけられるかもしれないけども。

周囲と感覚が合わない、という経験を繰り返すことが多かったからだろう。誰かに価値観を押し付けるようなことも、不得手になっていく。

【差別主義者や性加害者になってほしくない。そう思うけど、それは私のいる社会での最重要事項であり、価値観の違う社会は無数にある。もしかしたらミナトはゴリゴリの差別主義者のネトウヨになりたい人生だとしたら、それを制限していい根拠はどこにあるのだ?と思う。教えることはミナトの幸せのためなのだ、と私は100%信じている。しかし、いい大学に入ることこそが幸せなのだ、と100%信じて私に押し付けていた両親と、どこが違うというのだろう。】

極端だ、と感じる人も当然いるだろう。僕も、脳みその1/3ぐらいではそう感じる。この考えは極端だし、たぶん、どこかが間違っている。けど、僕の脳みその2/3は、同感だと思っている。僕の脳みその2/3は、「もしかしたらミナトはゴリゴリの差別主義者のネトウヨになりたい人生だとしたら、それを制限していい根拠はどこにあるのだ?」と思っている。何か違うと思いながら、僕もこういう考えを手放せない。

【親という保護者の立場だとしたら、11歳を大人として扱いすぎなのだろうか。個を尊重するような私の考え方は子育てには向いてないのかもしれない】

誰かと価値観が対立する時、僕はその価値観から遠ざかりたいとは思う。しかし、その価値観の居場所を奪いたいとは思わない。法を犯したり、誰かを不可逆的に傷つけたりするのでなければ、どんな価値観も居場所があるべきだ、と思っている。僕の視界に入ってほしくないというだけで、その価値観が存在することは認めたい。

でも、そんなことを考えていたら、子育ては出来ないかもしれない。

【私は挨拶やお礼は言うことができたほうが「この子たちのために、いい」んじゃないかと考える。「取ってもらったら、その人にお礼を言わなきゃだめだよ」って言うのは簡単なんだけど、そんなの教育すべきかなあって悩んでしまう。言いたくないなら言わなくてもいいんじゃないかなあと思ってしまうのだ】

同感だ。確かに、社会の中で程よくスマートにお行儀よくやっていくために、挨拶やお礼は大事だ。しかし、「社会の中で程よくスマートにお行儀よくやっていく」ことがベストかと聞かれると、悩む。僕自身は、そうではない人生の方に強く憧れてしまう部分もあるし、誰もがお行儀の良い社会なんて気持ち悪い。だから、正確に伝えるなら、「お行儀よくやっていきたいなら挨拶やお礼はした方がいいよ。でも別にそういうわけでもないならしなくてもいいよ」ということになるだろうが、果たしてこれは教育として正しいだろうか?

みたいなことを、きっと、僕も考えてしまう。

【誰かを自分の思い通りにしようとすると支配欲で心が汚れて、神経が摩耗するからなるべくそう思いたくない。誰がどんなふうに生きてもかまわないよ、と思っていれば無責任で気が楽だ】

取り戻せない時間、というのは確かにある。例えば、競技人生がそう長くないスポーツであれば、オリンピックに出るなど高い目標に挑むためには、本人の意志とは無関係に小学校入学前ぐらいからスパルタの練習を重ねる必要があるだろう。ピアノや将棋なども、若い内に出会い、莫大な時間を注がなければ高みにはたどり着けない。そういう世界に飛び込んでいくのであれば、親がある程度以上の強制力を発揮する必要もあるだろう。しかし、挨拶やお礼、あるいは勉強、人付き合いなんかは、知識がなかったり経験が少なかったりすることで、自分や誰かを傷つけることはあるが、やり直せない程ではない。それらに対して、まるで正解が一つしかないかのような押し付けをすることが、果たして本当に「教育」と呼べるのだろうか。

【自分で自分に問いかける。おまえの目的はなんだ?子どもと、「仲良くなる」ことか?子どもに好かれている「素敵な私になる」ことか?子どもたちを自分の思いどおりに動かすことか?
ちがう。純粋に子どもたちにとっての幸せを追求したい。そうじゃなきゃいけない。だからその芯からブレて自己満足が優先されているときの自分は振り返ったときに気持ち悪い。けれど心をクリアにして、子どもの幸せを追求するためにベストな行動とは、と客観的に見つめ直すと、自分がいることなのか、いなくなることなのか、接し方を変えることなのかがわからない】

タイトルには、「家族とは何なのか問題」とあるが、僕は、本書はより狭義に、「子どもとは何なのか問題」が描かれているのだと思う。「家族」については正直、著者なりに答えは出ている。

【何かに執着したくない。執着したら醜くなるから。どこまでも自由でいたい。いつも予想外のことが起きてほしい。旅みたいなのがいい。そう思って生きるようになった】

【「約束」のある関係性にも興味がなかったし、将来の保証のために今を我慢すること、相手を思いやって、たった一人のパートナーとして死ぬまで一緒にいるために、関係を維持・。強化していく努力などを1ミリもしなかった】

【私はずっと昔から「血のつながり」というものにまったく興味がなかった】

著者は既に、「家族という外枠」は不要だ、と気づいている。だから問題は、「『家族という外枠』が存在しない状態における『子ども』との関係性」に絞られるのだ。その関係性が、外から「家族」に見えるのかどうか、そんなことに著者は拘泥していない。

【相変わらず自分の中では「母」になる覚悟もなければ、ならないという決断もない】

あくまでこれは、「家族という外枠」無くして「子ども」と関わることが出来るのか、という、壮大な”実験”なのだ。まったく、まさに「あえて危険なほう、怖いと思うほう」だということだろう。面白いことをしているものだ。

内容に入ろうと思います。
著者は、「職場の常連さん」として知り合った人と飲みに行く中で、彼がシングルファーザーであることを知る。本書の中で<トン>と呼ばれるその人は、<マル 8歳>と<ミナト 11歳>という二人の男の子と三人で暮らしている。話は弾み、ちょくちょく飲みに行くようになり、やがて<トン>から付き合おうと言われる著者だが、恋愛やセックスと一定の距離を置く生き方の方が楽なのではないかと思うようになっていたこともあって、どうしたものかと思った。しかし、「付き合う」というのが、それほど制約の大きなものとして認識されていないことを理解して、<トン>と付き合うことになる。
著者は、「パン屋の本屋」という小さな書店の店長をしていて、その温かで穏やかな空間への居心地の良さを感じていたが、ある日<トン>に強引に連れられて家に泊まった翌朝、二人の子どもと強制的に顔合わせさせられることになる。
ここから著者の”実験”が始まる。
【なんだかよくわからない状況の圧倒的な面白さ】にも突き動かされ、子どもたちと仲良くなりたいと考える著者だったが、子どもと関わる人生を想定していなかった著者には悩みの連続だった。子持ちのシングルファーザーとどう関わっていくべきかという本もあまり見つからず、手探りで一歩ずつ前に進んでいくしかなかった。
あくまでも「<トン>の彼女」という立ち位置であるという認識を手放さないまま、二人の子どもたちとの距離感を探っていく。「母」ではない、しかし「他人」という程でもないという「名前の付けがたい関係性」の中で、【とにかく彼らをおびやかしたくはない】という一点だけを手放さずにそろそろと進む著者の冒険譚。

本書で最も印象的だったのは、「さち子」という、<トン>一家の面々が普段あまり関わることのない「外部の人間」が加わった食事のシーンだ。著者の家で行われた焼き肉パーティーに、<マル>と<ミナト>は、普段<トン>や著者と一緒にいる時には見せない異様なハイテンションで登場し、そのテンションのまま喋り続けた。その光景に対して<トン>は、「なんかあいつら今日はやたらテンションが高いなあ」と首をかしげるのだ。

この光景を著者は、こんな文章で切り取る。

【私たちはまるで絵に描いたような「明るい家族」だった。それは普段の姿ではなかった。何かを少し水増ししていた。
その2人のありあまるパワフルさに唖然としながら目を丸くして、
「すごい仲良し家族って感じですねえ」
と、さち子が<私たちの>狙い通りの感想を述べる。まるで共犯関係の片棒を担いでいるような気分になって2人の横顔を盗み見ると、2人ともなんとなく得意そうにしている。なぜ2人はそう言ってほしかったのだろう?】

この後著者はさらに、著者なりの解釈を書いていくのだが、この場面は本書の、そして著者の著作の象徴的な部分だなぁ、と感じる。

それは、客観的で繊細で敏感である、ということだ。

恐らくこの状況を、<トン>は最後まで正しく理解しなかったのではないかと思う。著者が書いているような解釈に、少なくとも<トン>自身はたどり着けていないだろう。別の場面での描写だが、著者が<トン>についてこんな風に書く場面がある。

【私がいちいち自分の言動や子どもたちの反応を気にして「これでいいのだろうか」と思い悩んでいる現場も、トンには「なんだか仲良くなったようでよかった」レベルの解像度でしか見えていないのだ】

<トン>は恐らく、「なんか分からんけどこいつらいつもよりテンション高いな」というところで思考が止まってしまうのではないかと思う(それについて本書では触れられていないので分からないが)。しかし著者は、「外部の人間がいる場面で二人の子どものテンションが高い」という現象に対して、【記念日になった。ような気がした】と書いている。確かに、著者の推測が確かなら、それは「記念日」と呼んでいい状況だろう。しかし、この状況を「記念日」と呼べるためには、客観的な繊細な敏感な感覚が必要だと思う。

そしてそういう感覚が、全編で貫かれている。その姿勢は、子育てを経験している先輩女子から【もっと力抜いていいんだと思うよ】と言われてしまう程だが、考えすぎてしまうからこそ見えるもの、感じられるものがある。「母」ではないが「他人」でもないという形で子どもと関わる困難さにおいて大きく踏み外さないために、この感覚は強力な武器だと言えるだろう。

とはいえ著者は、実際的には、自身の認識不足や偏見を様々な場面で自覚させられる。子どもたちに何をどう教えるべきか、という部分への葛藤については既に触れたが、偏見についてはこんな場面があった。

【そんなことを気にしているのは私だけなのか。そうなのかもしれない。私にとっては「父+息子」という組み合わせこそが新鮮だけど、彼らはもう何年もこの設定を生きてきていて、CMで親の揃った家庭の図を見ることなんて、日常茶飯事なのかも。勝手に私が期待してしまっていたのだ。「自分たちには母親がいない」と気に病んでいる子どもたちの姿を。嫌になってしまう。こんなに自由でいたいと自分で言いながら、自分こそが偏見に囚われている】

最近見たテレビ番組で、乙武洋匡氏が、「私も障害者ですけど、同じ障害を持っている人でも考え方は違うし、障害が違えばそもそも分からないことだらけです」という発言をしていた。その通りだろう。自分で子どもを育てた経験も、ましてシングルファーザーと関わる経験もなかった中で、様々な思い違いに直面する度に、著者は自分の考えを改める。著者は、本当に大事な部分を手放さないままで、他人に感覚を合わせていくことが上手い。子どもたちと感覚をチューニングする日々の中で、ある種、著者自身も生まれ変わっていくような過程は、面白い。

一方、詳述はしないが、著者が受け入れられなかった意見も本書には登場する。「もう会わないほうがよさそうだ」とまで考えるに至るその相手の価値観は、僕にも受け入れがたく感じられる。どんな価値観も許容されるべきだ、と考えてはいるが、親の価値観の狭さが、子どもにはどうか影響が少なくあってほしい、と願ってしまう。

本書には、<トン>一家との話のみながらず、著者自身の環境の変化も綴られる。「パン屋の本屋」という居心地の良い空間から出て、「あえて危険なほう、怖いと思うほう」への進んでいく、著者の仕事における闘いもまた面白い。「家族」や「仕事」など、字義的には多様な価値観が含まれそうなのに、現実的には狭苦しい意味に落ち着いてしまっている言葉の解釈を押し広げるような奮闘は、生きることに窮屈さを感じるすべての人の心に、少しだけ余裕を作ってくれるのではないかと思う。

【実験しない人生より実験する人生のほうが面白いよ】

いや、ホントに、そうなのだよ。



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