【映画】「彼女が好きなものは」感想・レビュー・解説

最近、涙腺がぶっ壊れてるのかもしれない。
まあ号泣させられましたわ。

この映画を観ようと考えた自分の判断を褒めてあげたい。
普通なら、観ていない映画だと思う。
なんとなく「よくある学園モノ」のような感じがするからだ。
しかも、結果的には僕の勘違いだったが、主演の神尾楓珠をジャニーズの人だと思っていた。
別にジャニーズが悪いわけではないが、自分の傾向として、「ジャニーズが好きだと感じる人に観てもらいたいと思って作られる映画」はあまりハマらないことが多い。

それでも自分の中で観ようと思ったのは、山田杏奈が出ていたからだと思う。
別に彼女のファンというわけではないが、少し前に、彼女が主演した「ひらいて」という映画を観て、「『山田杏奈という役者』をひっくるめて良かった」と感じたのだ。
だからもし、「ひらいて」を観ていなければこの映画も観なかったかもしれないし、そういう意味で、僕の中でかなり僥倖と言えるような出会いだった。


【この世の中は、「ただし摩擦はゼロとする」に満ちあふれている】

映画の冒頭、主人公の安藤純がこんな風に世界を捉えるところから物語は始まっていく。「ただし摩擦はゼロとする」というのは、学生時代物理の授業で聞き覚えがあるだろうと思う。僕らが生きている世界には「摩擦」が存在し、そのお陰で、例えば下り坂でも滑らずに降りることができる。しかし、物理の問題を解く際は、「摩擦(係数)」のことを考えると複雑になってしまう。だからまずは、「摩擦が存在しないものとして問題を解いてみましょう」という風に授業が進むというわけだ。

さて、冒頭の言葉を、安藤はもう少し噛み砕いて説明する。

【あいつはああだから、と言って世界を簡単にしようとする】

「男だから」「女だから」「学生だから」「老人だから」「障害者だから」「シングルマザーだから」「美人だから」……世の中にはこんな風に、「あいつは○○だから」という言説がはびこる。そして、「○○だってことは、自動的に△△だ」というような簡略化した見方で世界を捉えてしまう。

これが、「『ただし摩擦はゼロとする』に満ちあふれている」が意味するところだ。

安藤は、そんな世界に耐えられないでいる。

【複雑なことを無視して、世界を簡単にしたくないんだ】

安藤は、もう1人の主人公である三浦紗枝にそう伝える。彼は、「分かった風にしたくないんだ」とも言っていた。

あぁ、分かる、と思う。

僕は、自分の感覚が通じそうな相手にはよく「解像度」という単語を使う。「言葉の解像度」「物事を捉える解像度」などだ。

例えば、自分の目で夜空を見上げても、なかなか月のクレーターを捉えることは難しい。しかし望遠鏡を使えば、1つ1つのクレーターをはっきりと見ることができる。

このように、「物事をどのレベルまで捉えることができるか」を、僕は「解像度」という言葉で表現している。

「ただし摩擦はゼロとする」の世界に生きている者は、解像度が低い。世界のどこを歩いていたって、そこに摩擦を見つけられないほど、粗い画像しか捉えられていない。実際に、摩擦は存在する。そして、意識しなくてもそんな摩擦を捉えられる人もいる。そういう人を、僕は解像度が高い人だと感じる。

安藤は、とても解像度が高い人だ。そして、自分が捉えた世界を、解像度の高い言葉で言語化することができる。

僕はこういう人がとても好きだ。

ここで僕は、「解像度高く物事を捉えること」と「解像度高く言語化すること」の2つを挙げたが、僕がより重視するのは前者、「解像度を高く物事を捉えること」だ。言語化は、別に出来なくてもいい。大事なことは、世界をどう捉えるかだ。そして、低い解像度でしか世界を捉えられない人に、僕は興味が持てない。

「解像度が高い」ということは、どうしても、「見たくないものも見えてしまう」ことになる。そしてだからこそ苦しくなる。

相手の些細な言動から、相手の気持ちが分かってしまう。それは勘違いかもしれないけれど、分かったような気になってしまう。そしてだからこそ、なかなか他人に踏み込めない。「見たくないものも見えてしまう」自分の性質のことを理解しているから、近づけば近づくほど相手のことが嫌になる。

そして、そんな風に思っている自分のことが、一番嫌いになっていく。

自分で自分のことを嫌いになっていくことは、とても辛い。安藤も、ずっとずっと、その辛い暗闇の中に自分を封じ込めていた。

安藤は、誰にも言えない悩みを抱えていた。”同志”であれば分かり合えるが、そもそも”同志”を見つけることがとても難しい。そして”同志”を見つけることが難しい世界の中で、「ただし摩擦はゼロとする」の世界に生きる者たちと話を合わせながら、苦しくて苦しくて苦しい人生を歩んできた。

彼が持つ悩みを同形である必要はない。誰だって、打ち明けるのが困難だと感じる悩みを抱えてしまう可能性があるものだし、いつも自分の目の前で楽しそうに笑っている人がそうである可能性だってある。

「ただし摩擦はゼロとする」の世界に生きる人と歩調を合わせるためには、「摩擦そのもの」である(と本人が思っている)「自分の存在」を打ち消す以外にはない。安藤が感じている苦悩は、そのような種類のものだ。つまりそれは、「どうして自分のような存在がこの世界に生まれてきたのだろうか」というより大きな悩みに繋がるものだと言える。

安藤も、そんな思考を繰り返すほどに追い詰められてしまう。

そんな安藤を、こんな風に評する女性が登場する。

【彼は、自分のことが大嫌いで、私たちのことが大好きなんです】

誤読しないでほしいが「私」ではなく「私たち」だ。

凄く良い言葉だと思った。彼女は、「彼が築いた壁は、大好きな私たちを守るためのものなんです」とも言っていた。とても良い言葉だ。

三浦が、表彰式で賞状を受け取って以降の展開には、一番泣かされた。そうか、そんな”解決策”があったのか、と思った。

以前観た『ドリーム』という映画に、こんなやり取りがあったことを思い出す。

【「私は、偏見は持っていないのよ」
「ええ、分かっています。そう思い込んでいることは」】

たったこれだけのやり取りで、「偏見」というものが持つ複雑さ・難しさを的確に表現できていると感心させられた。

表彰式での彼女の行動には、「他人事」という伏線がある。その言葉が出てきた時にはもちろん気づかなかったが、なるほど、この場面に着地するための言葉だったのかと感じた。

「偏見を持っていない状態」が何を指すのかは、人それぞれイメージが違うだろうと思う。人によっては「偏見の気持ちを持っていても、言動にして表に出さなければいい」と考えるかもしれないし、「気を遣って仲間に入れてあげること」を指すと考える人もいるだろう。

なかなか統一的な見解を出すことは難しいと思うが、この映画出てきた「他人事」というキーワードは1つの取っ掛かりになるかもしれない、と感じた。つまり、「それは私の問題でもあると考えること」こそが「偏見を持っていない状態」なのかもしれない、ということだ。

どうしても「偏見を持っていない」と言われると、「それを問題視しない」という発想に向かってしまう。しかしそうではなく、「それは私の問題だと考える」と発想することは、違った捉え方を導くだろう。「全然問題なんかじゃないと思うよ、私には関係ないけど」よりも、「問題は問題だと思うよ、私の問題でもあるけど」と言ってもらえる方が、「偏見」から遠ざかる気がするのだが、どうだろうか?

そして彼女は、「問題は問題だと思うよ、私の問題でもあるけど」と主張するために立ち上がる。とても勇敢だ。自分の身を削ってでも目の前の状況に風穴を開けようとする行動に感動させられるし、泣かずにはいられない。

【そういう幸せが欲しいってどうしても思ってしまうんだ】

望んだ幸せが叶うはずがないという絶望だけではなく、「望んだ幸せを実現するために、誰かを傷つけてしまい得る」という絶望が、安藤を襲う。そんな絶望の淵に長いこと取り残されていた安藤の世界を「自分ごと」にするために手繰り寄せた三浦。

2人の世界は、歪で異常なのかもしれないが、しかし、とんでもなく美しい。

内容に入ろうと思います。

高校2年生の安藤は、5歳からの幼馴染である亮平とは仲がいいが、基本的に友だちが少なく、いつも1人で本を読んでいるような少年だ。亮平が、クラス内ヒエラルキートップの小野と仲がいいこともあって、小野のグループに混じって話をすることもあるが、「ただし摩擦はゼロとする」の世界に合わせるために人知れず苦労している。

ある日安藤は、ほとんど話したことのないクラスメート・三浦紗枝の秘密を知ってしまう。彼女は中学時代、その秘密のせいで友だちがゼロになったトラウマがあり、高校になってからはひた隠しにしていた。そんな秘密をクラスメートに知られてしまい、三浦は気が気でない。

しかし、「秘密を握られた」ことで、それまでほとんど話したことがなかった2人の距離は縮まり、やがて2人は付き合うことになるのだが……。

というような話です。

本当に、もの凄く良い映画だった。正直、温泉施設にダブルデートに行くまでは、よくある「学園モノ」という感じだったが、そこから物語は急転、そして全然違う雰囲気をまとって進んでいくことになる。

とにかく、神尾楓珠がとても良い演技をすると感じた。役者の演技をあれこれ指摘できるほど経験も知識もないが、とにかく神尾楓珠がとても良かった。

神尾楓珠演じる安藤純は、なかなか感情を表に出さない人物だ。三浦も安藤のことを最初は、「何考えてるか分かんない系。真顔で人刺しそうな感じ」と捉えている。分かりやすい表情で感情を伝えることはほぼなく、まさに「何考えてるか分かんない」という感じだ。

だが、些細な表情の変化や佇まいなどから、安藤の繊細な感情が非常によく伝わってくる。さらに、普段「何考えてるか分かんない系」だからこそ、ある場面で感情を爆発させて号泣しているシーンは胸に刺さる。それまで自分を押し殺し続けてきたことが伝わる爆発的な感情の発露には心動かされた。

表情などに出るわけではないのだが、様々な場面で安藤が苦悩していることが、少なくとも観客には伝わるし、安藤がひた隠しにしているから仕方ないとはいえ、「安藤が『ただし摩擦はゼロとする』の世界に馴染もうと奮闘している様」に苛立ちと応援の気持ちが入り交じることになる。

「ひらいて」という映画は山田杏奈の存在が成立させたと僕は思っているが、「彼女が好きなものは」という映画は神尾楓珠が成立させたと思う。

前田旺志郎演じる亮平もとても良い存在感を出している。主人公ではないが、亮平もまたこの物語を成立させる重要な存在だったと言えるだろう。思い返してみれば、物語の重要な場面のほとんどに亮平が絡んでいる。2人が付き合うことになったのも、絶望を感じて逃げ出した安藤が学校に戻ってこられたのも、表彰式の”演説”が成立したのも、すべて亮平のお陰だ。ある意味でこの映画の「狂言回し」的な存在だと言っていいだろうし、欠かせない存在だった。

そして、当初はそこまで重要な存在だと思っていなかったのだが、小野も非常に良かった。小野がどう良かったのかを説明することはなかなか難しいのだが、三浦とはまた少し違った形で「他人事」を抜け出している点が良かった。

クラスメートの多くは「全然問題なんかじゃないと思うよ、私には関係ないけど」という立場を取り、三浦は真逆の「問題は問題だと思うよ、私の問題でもあるけど」というスタンスを貫くのだが、小野は「問題は問題だと思うよ、俺には関係ないけど」というまた違った捉え方をしている。

字面だけ見るとなんて酷いんだ、と感じるかもしれないし、確かに小野は酷いやつという印象で描かれるのだが、最後まで見るとイメージが大きく変わる。彼は、それを「他人事」にしないために「問題は問題だ」と言うのだが、一方で「自分には関係ない」というスタンスも取る。しかしこの「関係ない」は、多くのクラスメートが無意識に感じている「無関心」という意味ではないのだ。小野にとっては、「問題はそこじゃない」という意味であり、このスタンスは1つの形として立派だと思う。

見事な映画だった。

さて、この映画について知識がある人は、ここまでの文章を読んで意外に感じたかもしれない。この映画の”表面上”のポイントに、まったく触れていないからだ。

一応書いておくが、これは決して「偏見」ではない。この映画で描かれる本質は普遍的なものであると感じるからこそ、どうしても「偏見」と無縁ではいられない要素を廃して文章を書くことにしたのだ。

また、そう決めた理由は、この映画のタイトルにもある。この映画には原作があり、「彼女が好きなものは」に続く言葉がある。続く言葉を敢えて切り落とし、「彼女が好きなものは」だけにした意図はあるはずだし、僕の勝手な予想だが、その意図は、僕が考えたの同じ「普遍的なものを描こうとしたから」だと思う。

まだこの映画を観ていない人が、もしこの文章を読んで気になったら、余計なことを調べずに映画を観ても面白いだろう。今の時代、調べれば何でも分かってしまうからこそ、「まっさらな状態で作品と向き合うこと」がなかなか難しくなってしまっている。

僕は敢えてこの感想で、それが実現できる可能性を提示してみた。面白いじゃないか、と思った方は、これ以上の知識を入れずに映画を観てみよう。

最後にエンドロールを見て衝撃を受けたことを書いて終わろう。

まさか誠が今井翼だとは。エンドロールを見るまで、マジで気づかなかった。ビビったー。

あと、磯村勇斗にも気づかなかった。ってか、磯村勇斗の使い方、贅沢過ぎるだろ。

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