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【本】飲茶「史上最強の哲学入門」感想・レビュー・解説

本書は、主に西洋哲学について、古代から近代に至るまでの様々な思想を、「真理・国家・神・存在」の4つに分け、それぞれについて、誰がどんなことを主張したのか、そう主張するに至った対立的な概念は何か、その思想が受け入れられる歴史的な背景はどんなものだったのか、などについて恐ろしく分かりやすく、かつ恐ろしく面白く綴った作品です。

いやー、驚きました。もう、ハチャメチャに面白かったです!僕はこれまでも、哲学の本ってそれなりに読んできましたけど、その中でももうダントツに面白いです。とにかく、4つの分類の中で流れがしっかりしてるから、「どうしてそういう考え方が生まれたのか」という点が本当に分かりやすいし、それに、難しい哲学用語は使っていないか、使っていても、用語を簡単に説明するだけという感じで、概念の説明のために難しい言葉を使うことがないので、そういう点でも非常に分かりやすい。それぞれの哲学者の有名な著書は、おそらく普通に読めばまったく歯がたたないほど難解なんだと思うんだけど、著者の手に掛かれば、ものすごく分かったような気になれます。

もちろん、どんな学問でもそうですが、とくに哲学というのは、「知識そのもの」が大事なわけではありません。誰がどんなことを言ったのか、どうしてそう考えたのか、ということを知識として持っていても、それは哲学にはなりません。哲学というのは、思考するプロセスそのもののことを指しているのだと僕は考えているし、哲学というものにきちんと触れようとすれば、自分自身で考えて徹底的に追究することが必要なんだと思います。

とはいえ、まったくの徒手空拳ではなかなか難しいものがあります。先人が積み上げてきた歴史は、存分に利用するべきです。本書で描かれる多くの哲学者たちも、それよりも前に受け入れられたある考え方に対抗する形で自分の論を進めていきます。そういう意味でまた、知識が不必要ということにもなりません。本書は、「哲学する」という入口に入るための基礎的な知識を与えてくれると言っていいでしょう。

でも、そんな難しいことを考えなくても構いません。本書は、ただの読み物としてもべらぼうに面白いです。別に今後「哲学する予定」なんてのが全然ない人でも大丈夫。娯楽として読むだけでも、本書は十分に面白いのです。

なんでこんなに面白いのか考えてみると、それは「言っていることを理解できるから」だと僕は思うんです。

例えば、どんなに面白い話でも、それが英語で話されていたら、英語を理解できない人間にはその面白さがまるで分かりません。そういう時に、同時通訳してくれる人がいれば、その面白さに触れることが出来るでしょう。

本書の著者は、まさにその同時通訳者の役割を果たしていると言っていいと思います。

哲学者という、メチャクチャ難解で、凡人には何を言っているんだかわからないようなことを考えている人がいる。それは、英語の出来ない人が英語の講義を聞いているようなものでしょう。しかしそこに、その難解さをほぐして分かりやすくしてくれる同時通訳者がいると、一気に相手の話が理解できて面白さを感じられる。どんな学問でもそうだけど、それに対して面白さを感じられるようになるまでが一番難しい。一旦「面白い!」とさえ思ってしまえば、どんな学問でもすいすい吸収出来るものだけど、「難しい」とか「退屈」という感覚が邪魔をして「面白い!」は遠ざけられてしまう。本書は、「哲学って難しいんでしょ…」という先入観を容易く打ち破り、僕らが理解できる言葉で、理解できる価値観で、先人たちの思想に触れることが出来るのだ。人類が長い時間を掛けて考えて議論して練り上げてきたものなのだ。正直、面白くないはずがない。ただ、それを理解するには「難解さ」というハードルがあった、というだけのことだ。本書の著者は、その「難解さ」を楽に超えさせる魔法を掛けた。だからこんなにも面白いのである。

「哲学本」というのは、大きく分けて二種類ある。一つは、読者と一緒になって、「死とはなにか?」「存在するとはどういうことか?」というようなことを考えさせるような本だ。そしてもう一冊が、本書のような、先人の哲学者たちはこんなことを言っていますよ、ということを紹介する本である。

正直、後者のような哲学紹介本は、面白くない本になる確率が高い。まあそれはそうだろう。誰がいつどんなことを言いました、みたいなことを羅列するだけの本が面白くなるはずもない。
そこに本書の凄まじさがある。本書は、後者に分類されるような、いわゆる哲学紹介本だ。それなのに、滅法面白い。哲学紹介本なのに、時々クスっと笑ってしまうことさえあった。そんな哲学紹介本、本当にありえない。著者は、哲学や科学など敷居の高いジャンルの知識を分かりやすく解説するブログで人気になった、まあ要は一般人らしいのだけど、凄い才能だなぁ、と思うのだ。

さて、そんな風に、内容をこれっぽっちも紹介しないで絶賛の言葉ばかり並べてても仕方ないので、内容にちゃんと触れよう。でも、書き始めると内容全部書いちゃいたくなるぐらい素晴らしいので、ここではとりあえず、第一章の「真理」について、どんな風に書かれているのかがわかるような文章を書いてみようと思う。

古代の人は、多くのことを“神話”によって理解・納得していた。「よくわからないけど、神様がやったんだ」という捉え方である。しかし、農耕が発達することによって次第に都市が生まれ、やがて都市間の交流というものが生まれていく。
すると人々は驚くことになる。違う都市では、違う“神話”が信じられているのだ。「神様がやったんだ」っていうのが“神話”のはずなのに、都市間で違うなら“神話”って全部嘘なんじゃ…。そんな風にして人類は、「真理は人や時代によって変わる、相対的なものだ」という、相対主義という考えを持つようになる。

そんな相対主義の代表者がプロタゴラスである。彼は、「人間は万物の尺度である」と唱え、あらゆるものは、人間がおのおのの尺度で判断するものであり、絶対的なものはない、ということだ。

プロタゴラスを中心とした相対主義は、“最強の議論テクニック”として重宝される。何故なら、どんな主張であっても、相対的な価値観を持ち出すことで、黒を白に、白を黒に変えることが出来たからだ。当時の政治家たちにとって、相対主義を学ぶことは重要なことだった。

相対主義を学んだ政治家によって運営される国家は、民衆に聞こえのいいことばかり言い、真面目に政治をしない衆愚政治に陥ってしまう。それはそうだ。真面目に政治のことを語っても民衆の人気は得られないのだし、美辞麗句を繰り出すことで選ばれるなら、誰も真面目に政治なんてやろうとしない。

そんな時代に現れたのが、最強の論客・ソクラテスである。ソクラテスは、「○○ってなんですか?」と質問し続け、相手がボロを出したら反論しまくるという方法で、あらゆる政治家をバッタバッタとなぎ倒していくのである。
ソクラテスは、相対主義をよしとせず、「絶対的な真理」を追求していくべきだという考えを持っていた。そんな彼の考え方で有名なのが“無知の知”である。これは、無知である人間が賢い、という意味で捉えるべきではなく、ソクラテスは、無知であることを自覚することこそ、真理への情熱を呼び起こすものだと信じていたということなのだ。

そんなソクラテスは、民衆から圧倒的な支持を得るが、こてんぱんにされた政治家は面白いはずもなく、若者を堕落させた罪で死刑に処されてしまう。しかし、ソクラテスは、死刑に処されることによって、「この世界には、命を賭けるに値する真理が存在し、人間はその真理を追究するために人生を投げ出す、強い生き方ができるのだ」ということをまさに自らの生き方(死に方)を以って示した。この行動は弟子たちを奮起させた。その中に、プラトンもいた。プラトンは、現在の大学の前身となる教育機関を作り、人生を掛けて学ぶという系譜を生み出したのである。

しかし、学問を続けても、なかなか絶対的な真理は見つからない。そうこうしている内に西洋は、キリスト教が支配する中世時代に突入し、「人間は理性だけでは真理に到達できません。到達するためには神への信仰が必要です」という方向に傾いてしまう。しかしやがて、ルネサンスや宗教改革が起こり、科学や数学が発展し、近代へと突入していく。

そんな時代に現れたのが、「我思う、ゆえに我あり」でお馴染みのデカルトだ。デカルトは、哲学というものを再構築しようとした。それまでの哲学は、いろんな人間が「俺はこう思う」と言っているだけで、統一的な学問としては成立していなかった。それをデカルトは変えようとした。
数学というのは、絶対に正しい基本的な命題から出発し、論理的な手続きで定理を導き出していく学問だ。絶対に正しい数少ない前提を置き、そこから導き出されるものだけを採用していくのだ。
デカルトも同じことをしようとした。そのためにデカルトは、絶対に正しいこと、すなわち第一原理を見つけなくてはいけなかったのだ。それが、有名な「我思う、ゆえに我あり」である。
デカルトは、あらゆるものを疑って、どうしても疑いきれないものが残ったら、それこそが真に正しいものだと考えた。デカルトは必死に考えて、ようやく、「こんな風にあらゆることを疑ったりしている自分自身の存在だけは疑えない」と気付き、これを第一原理に据えたのだ。

デカルトは、第一原理を導き出すまでは物凄かった。しかしそこからの論の進め方はどうも雑だった。他の哲学者からもその雑な部分を指摘され、結局、哲学の統一を目指したはずなのに、デカルトへの批判からさらに様々な哲学が生まれることになる。
そんな批判の一つに、イギリス経験論というものがある。これは、「人間の中に浮かぶ知識や観念は、すべて経験から来たものにすぎない」という考え方だそうだ。そして、このイギリス経験論を完成させたと言われているのが、ヒュームである。

ヒュームは、デカルトが疑えないと判断した「私という存在」は、結局のところ「経験(私という継続した感覚を生み出している痛みなどの知覚体験)」にすぎないと反論。ヒュームは、神の存在や科学でさえも疑い、世の中のあらゆるものは結局人間の経験に過ぎず、それが世界の本当の姿と関係があるかどうかは分からない、と主張した。ヒュームの考えは説得力があったが、しかしヒュームは、あらゆるものを疑った先の「疑いきれない何か」を見つけることが出来なかった。彼は、あらゆるものを疑い続け、疑い続けたまま終わってしまったのだ。

そのヒュームが成し得なかったことを真正面から受け止めて、乗り越える真理を見つけ出したのがカントである。カントは、ヒュームが主張するように、人間が経験から知識を得ていると認める。しかし、その知識の受け取り方には、“人間固有の形式”があって、その形式は、人間の経験に依らない先天的なものだ、と主張した。
同時にカントは、その真理は人間固有のものだ、とも主張した。人間には、人間固有の受け取り方の形式があり、だから人間には共通すると言える真理が存在する。しかしそれは、イソギンチャクの真理とはまた別のものだ、と。カントが提唱したこの考え方によって、人間は、人智を超えた真理を追い求めることから、人間にとっての真理を追い求める形へと変わっていった。

しかしカントは、人間にとっての真理があることは明らかにしたが、どうやってそこにたどり着けるのかを示しはしなかった。それを示したのがヘーゲルである。ヘーゲルは、弁証法という、「対立する考えをぶつけ合わせ、闘争させることによって、物事を発展させていくやり方」を提唱した。これを繰り返していけば、いつか人間にとっての真理に到達出来るだろう。フランス革命直後の民衆にこの考え方はすぐに受け入れられたのだった。


しかし、そんなヘーゲルに待ったを掛けたのがキルケゴールである。キルケゴールはヘーゲルの哲学を、「今、ここに生きている私という個人を無視した人間味のない哲学だ」と一刀両断にする。ヘーゲルの弁証法を続ければ、確かに“いつか”人間にとっての真理に到達できるかもしれないけど、しかし、そんな“いつか”手に入る真理なんて、今を生きる俺たちにはまるで関係ないじゃねぇか、というのである。キルケゴールは、「今日真理が得られるなら明日はいらない」という、ヘーゲルとは真逆な人間だったのだ。

そんなヘーゲルとキルケゴールの対立を解消する考え方を持ちだした男がいる。サルトルである。サルトルは、「だったらいっそ、究極の真理を求める歴史の進展を、僕達自身の手で進めてみようじゃないか!そのために、人生を賭けてみようじゃないか!」と若者たちに呼びかけたのだ。この言葉は、資本主義が成功して豊かになったが、何をして人生を過ごせば良いかわからなかった若者の心にズバズバ刺さった。サルトルの時代は、資本主義が成功していた。しかし、資本主義が永遠に続くとは限らない。じゃあ、よりよい社会システムってなんだろう?当時それはマルクスの共産主義だと考えられていて、人々は反社会的な活動に身を投じていくようになる。

しかし、そんなサルトルの哲学に待ったを掛けた人物がいた。元々サルトルとは旧知の仲だったレヴィ=ストロースである。
レヴィ=ストロースは、元々哲学者だったわけではない。彼は、異国に自ら赴き、現地の人と生活しながら文化を調べる人類学者だった。

この当時、西洋人は、こんな風に考えていた。人類の歴史には、たった一つのゴールがある。西洋人はその最先端を走っていて、ジャングルの奥地にいる野蛮人は超遅れている。でもやつらだって、時間を重ねれば、いつかは俺たちみたいに機械を作ったりする文明に追いつくだろう。西洋人はなかなか傲慢なことを考えていた。
しかしレヴィ=ストロースは、そんな西洋人の考え方を思い込みに過ぎないと断じる。自らのフィールドワークの経験から、西洋人の文化が特別優れているわけでも、西洋人が未開人と読んだ人たちの文化が特別劣っているわけでもないのだ。レヴィ=ストロースは、サルトルのいう「人類が目指すべき歴史」の存在に疑問符を投げかけたのだった。

そんな風に近代哲学は進んでいったが、しかしこの「理性によって真実に到達しようとする近代哲学」は、徐々に支持を失っていく。何故なら、醜い戦争や核兵器の保有など、人類にはまともな理性が存在しないことを証明するかのような様々な出来事が起こったからだ。そうやって、実用性に重きを置いた現代哲学が生まれて来る。

そんな中、プラグマティズム(実用主義)という哲学が生まれる。これは、「その効果は何か?」という実用的なことだけ問いかけよう、という身も蓋もない考え方だ。その代表者がデューイであり、彼は自らの思想を道具主義と読んだ。それが実用的であれば真理だと考えても良い、というのは、「真理」を熱く求めるところから始まった哲学の旅の流れとしては奇妙でもある。

また、デリダは、ポスト構造主義と呼ばれる哲学を展開する。これは、「答えの出ないことはいくら考えたってわかんないんだから、受け取り手が自由に解釈すればいいし、それを真理ってことにすればいいじゃない」という考え方だ。これも、「真理」を求める哲学の旅のとりあえずの執着としては、なんだかなぁ、という感じである。

また現代哲学には、他者論と呼ばれるものもある。レヴィナスがその代表だ。「他者」とは、「私とは無関係にそこに存在し、かつ決して理解できない不愉快な何か」全般を指す言葉で、現代の学問のありとあらゆる場面にこの「他者」が現れる。現代哲学にとっての唯一の真理は、「どんな真理を持ちだしても、それを否定する他者が現れること」だと言える。しかし、「他者」の存在があるからこそ、僕達は「どうして?」「なんで?」と問いかけることが出来るのである。

さて、長々と第一章の流れを書いてみたけど、どうでしょうか?思想の細かな部分には当然触れられてないけど、思想が展開される流れみたいなものはざっくり見て取れるんじゃないかと思います。第二章以降も、こんな感じで、どうしてその思想が生み出されたのか、そしてどうしてそれが受け入れられたのかということを踏まえつつ、個々の思想について分かりやすくかつ面白く解説していて、本当に読ませる。凄い作品だと思う。

一回読めば分かった気になれる。そして、十回読めば超理解出来る作品だと思います。また本書で描かれる哲学的思想は、世界史の変遷を理解する上でも重要になってくるように思います。歴史上、民衆がどんな考えを受け入れた結果、どんな出来事が起こったのか。その背景を知るのにも役立つ一冊だと思います。


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