【映画】「フォードvsフェラーリ」感想・レビュー・解説

個人では成し遂げられない偉業だ、ということは十分に理解している。
多額の資金を投じる人がいて、大勢の人間のサポートがあって、初めて成立する偉業だ。
だから、その環境を整える組織が、投資に見合ったリターンを得ようとするのは当然だろう。

しかし、だからといって、そのために、最も貢献した個人を貶めてよいことには、絶対にならない。

僕は、青臭い考えだということは分かっているけれども、努力した人間が報われる世の中であってほしいと思う。
上に媚びへつらったり、何もしていないのに自分を大きく見せようとしたり、声だけ大きかったり、弱い者を搾取するだけだったり。
それだけではないだろうが、やはり、そういう人間が組織の上に行きがちだ。
そういう形でしか「組織」からの評価を得られない、というのであれば、僕はそんなものは要らないな、といつも思ってしまう。
どうでもいい。
それよりも、努力した人間にスポットライトが当たってほしい。
誰よりも力を振り絞ろうとしている人間のサポートが出来る人間でありたい。

【10歳の頃、父に言われた。やりたいことが分かっている人間は、幸せだと。仕事が苦にならない】

その後で、【しかし、そんな人間は1%もいない】と続ける。

「才能」が「価値」に変換できるかどうかは、時代の趨勢も大きい。例えば、今Youtuberとして成功している人たちが、江戸時代に生きていたとして、果たして同じ程度に成功できただろうか?あるいは、戦国時代に日本刀の名工と言われた人物が現代に生きていたとして、その才能がどれだけ活かせただろうか?

どれだけ圧倒的な「才能」があっても、その「才能」がなんらかの形で多くの人にプラスを与えないと、それは「価値」にならない。「才能」のあるなしだけでは、結果を残せるかどうかは分からないのだ。しかし、この映画で描かれる者たちは、まさに今しかないというタイミングで、まさに自分がやるしかないというビッグプロジェクトに携わることになった。

他人のことを羨んでいても仕方ないが、それは、奇跡のような幸運だと感じる。その幸運を、彼が実感できていたとしたら、他のあらゆる事柄は些末な問題に過ぎなかったかもしれない。

けれど。

やはり僕は、最大の努力をした個人を貶めるような振る舞いは、許したくない、と思う。

内容に入ろうと思います。
1959年のル・マン24時間レースで、米国人として唯一優勝したキャロル・シェルビーは、心臓の状態が思わしくなく引退。それからは、自動車販売の仕事をしていた。シェルビーの友人であるケン・マイルズは、自動車修理工場を営みながらカーレースの世界で生きた男だが、腕は確かなのに厄介な性格が災いし、スポンサーもつかず、45歳になった今も、レースの世界で食べていくことは困難な状況だ。
一方、アメリカの自動車会社であるフォードの社長は、上向かない業績に苛立ち、「アイデアがある者以外は会社に残らなくていい」と全従業員に発破をかけていた。リーは、フォードの自動車販売の不振の中心となる部署にいたが、一発逆転のアイデアとして、レースカーを作りル・マンに挑戦してフェラーリを倒す、というプランを提案した。当時フェラーリは、過去5回のル・マンで4度の優勝を飾る圧倒的勝者だった。フェラーリのマークは「勝利」の象徴だ。フォードがそのフェラーリに勝てば、イメージを変えられる。
馬鹿げたアイデアだ、と一蹴されたものの、紆余曲折あって、社長判断でル・マンへの挑戦がきまった。そこで、リーが目をつけたのがシェルビーだ。シェルビーの自動車販売会社を訪れたリーは、「仮定の話だが、どうしたらル・マンでフェラーリに勝てる?」と聞いた。すると、「金で買える勝利ではない」「フェラーリが勝つ」と言いながらも、「勝利をもたらす男なら買えるかもな」と言う。
そう、ケンのことだ。
彼らはタッグを組んで、フェラーリに勝てる車の開発に挑むが…。
というような話です。

2時間半という、長めの作品でしたけど、最後までまったく飽きさせずに見れました。メチャクチャ面白かった!冒頭は、状況設定や人物紹介などがなかなかすんなり頭に入ってこなくて、しかも僕の目には、ケン役の役者とリー役の役者の顔が結構似てる気がして、最初は二人が同じ人物なのか?と思って混乱してました。でも、シェルビーとケンがフォードで車の開発を始める辺りからは大分設定や人物が理解できるようになって、そこからは惹き込まれました。

とにかく、レースのシーンが圧巻。物語の展開上、このレースではきっとこういう結果になるんだろうな、と予想はつくんだけど、それでも、レース展開にハラハラさせられる。それにやはり、最高速度300キロを超える自動車レースのスピード感は本当に凄い。どこまで実際の速度通りに撮影しているのか分からないけど、レース中の車内からの映像もふんだんにあって、それがもう迫力満点。競馬なども含め、レース的なものにまったく興味がない僕でも、「うわ、すげぇ」って思ってしまうような、臨場感溢れる映像でした。このレースシーンは本当に、大画面で体感する方がいいと思う。

また、僕は車はまったく興味ないですけど、車に興味がある人にとってはまた別の見どころがあるでしょう。僕としては意外だったのが、ル・マンなどのレースで走っていたのが、いわゆるF1で見るような車じゃなかったこと。どちらかというと、普通の乗用車にフォルムとかは近いなと思って、こういう車で走ってたんだ、と思いました。今でいう「クラシックカー」がレースで走ってるようなものでしょう。公式HPを見ると、とにかく映画に出てくる車やレース会場や工場などはすべて、実際のものを徹底的に調べて作り上げたらしいので、レースカーも当時の感じを正確に再現しているのだろう。50年以上前のレースを完全カラーで再現した、ということだろうし、カーレースファンとしてはそういう部分も見どころだろう。

明確には描かれていなかったが、フォードとフェラーリの違いは、組織だろう。フォードはガチガチの組織で、社長の元に決裁が届くまでに数多くの社員のハンコが必要だ。一方、この映画を見る限りでは、少なくともレースという点においては、フェラーリは現場の自由度が高いのかな?と思う。シェルビーは「委員会ではル・マンは勝てない」とハッキリ告げるが、しかしそれからも彼は、組織と現場との板挟みに苦しむことになる。

シェルビーも、冒頭で僕が書いたように、個人で出来ることじゃないと理解していた。だから、資金を出してくれるフォードの言っていることはやはり無視できない。しかし一方で彼は、ケン・マイルズという類まれな才能を持つ人物に自由にやらせたい、とも考えている。どう考えても、ケンに制約を与えないことが、ル・マンに勝つための最善の方法なのだ。しかし、「信頼」を標榜するフォード社は、フォードにとってケンはふさわしくない、と判断する。そのせめぎあいの中で、シェルビーは常に難しい決断を迫られることになる。

ケンは、ホントに扱いづらい人物として描かれている。僕自身、自分の周りにいたら厄介だろうなぁ、と感じるタイプだ。でも、嫌いじゃない。自分のやってきたことに誇りを持ち、個人としての決断に筋を通そうとするスタイルは、社会の中でやっていくのは大変だが、どこか惹かれる。公式HPによると、ケン役の俳優であるクリスチャン・ベイルは、「不遜な人物を演じてキャリアを築いてきた」そうだ。ホントに、「不遜な感じ」が実に板についていた。ちょっとした表情でも、自分が今不快に感じているということや、本当は納得してるわけじゃないんだぞということなど、言葉にしない苛立ちみたいなものを絶妙に表現すると思った。

ケンは実に厄介な存在だったが、そんなケンの存在を和らげるのが妻のモリーだ。このモリーも、実によかった。モリーは決して、物語の主役的な立ち位置ではないのだけど、映画を観終えた今、振り返ってみた時に、パッと思い出せる印象的なシーンには、モリーがいることが多い。喧嘩を眺めるために椅子を出してきた場面とか、誰もいない工場でケンと二人でシャンパンもどきを飲んでいるシーンとか。

でもやっぱり一番印象的なのは、モリーが車を運転してるシーンだなぁ。あれは痛快だった!モリーがどんな性格の人物かはっきり伝わるし、モリーがいるからこそケンが社会の中で存在できるんだということも分かって、非常に良かった。

僕は、社会の中をすいすいと自由に泳いでいく器用な人間に憧れることもあるけど、やはりケンのような、不器用だけどある一つのことには脇目も振らず全力で突っ走ってしまうような、ある意味で「厄介」な人間の方がいいなと思ってしまう。ケンのような人間がナチュラルに評価されるような世の中であってほしいと、いつも思う。

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