【本】宮下奈都「神さまたちの遊ぶ庭」

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僕は世間の人が、窮屈な生き方をしているなぁ、と感じることがある。
そしてまったく同じ目線は、過去の自分にも向けることが出来る。
昔の自分は、窮屈な生き方をしていたなぁ、と。

昔の僕は、自分がどうだったら幸せだと思えるのか、イマイチ理解していなかった。だから、そこらにある、目につきやすい、大多数がそうであると認めるような「分かりやすい幸せ」を無意識の内に幸せなのだと思い込んでいたのだと思う。

生きていると段々、そういう「分かりやすい幸せ」は僕には無理だ、ということに気づくようになっていく。幸せ、というものがどういうものであるのか、そもそも知らないから、『「分かりやすい幸せ」は僕には無理だ』ということに気づくのにもとても時間が掛かったように思うが、ようやくそこから僕は自分の内側に、「自分はどうだったら幸せだと感じられるのか」という問いを持つようになった。

そうやって、色んなことに手を出したり出さなかったり、敢えて脱線してみたり流れに乗ってみたり、色々試した挙句、ようやく今は自分の中で、自分が幸せだと思える「こういう感じ」をそれとなく掴むことが出来たように思う。

そうしてそういう視点で世の中を見てみると、かつての僕が囚われていたような「分かりやすい幸せ」に苦しんでいる人が多いように思えてくる。人それぞれ、どんな状態を幸せだと感じるかはバラバラだ。でも、それに気づかず、平均値としての幸せみたいなものをみんなが目指そうとして、でも結局目指せなくて、自分は不幸だと感じている人が多いように思えてくる。

なんでこんなことを書いたのか。
それは、僕にとって宮下奈都という人は、そういう葛藤がない、あるいは遠い昔に抜け出た人だ、と感じるからだ。

『しあわせって、たぶんいくつも形があるんだろう。大きかったり、丸かったり、ぴかぴか光っていたり。いびつだったり、変わった色をしていたりするかもしれない。そういうのをそのまんまで楽しめるといいとつくづく思った』

幸せ、というものに対して基準を持たない生き方。宮下奈都はそういう生き方を意識的に選び取っているように思える。もちろん、自身の中で絶対に譲れない、前提となるような基準はあるだろう。宮下奈都にとって恐らくそれは「家族」に関わる何かだ。「家族と過ごす時間」なのか「家族と関わる場」なのか「家族であるということそのもの」なのか、そういうことは何でもいいのだが、とにかく家族との関係性みたいなものは譲れない基準として持っているだろうと思う。

しかしそこに、個別的な、あるいは具体的な基準は存在しないように思える。宮下奈都は、目の前の現実を常に受け入れながら、それらの現実が「正しい」と思えるものになるよう、自身の行動や思考や価値観を変えている、という印象を受ける。立川談志は、「現実は正解なんだ」と言ったらしいが、宮下奈都も同じ風に捉えているのではないか。目の前の現実に介入し改変するのではなく、目の前の現実を正解だと受け入れるために必要なことは何かを常に考え行動しているように思える。

その視点が、宮下奈都のエッセイを面白くする。僕にはそう感じられる。

宮下奈都のエッセイには三人の兄弟が頻繁に登場するが、彼らの言動は実に面白い。しかしそれは、単なる生まれつきの個性、というだけではないはずだ。宮下奈都は母親として、三兄弟の言動に介入したり改変させたりといったことをしなかったはずだ。もちろん程度はあるだろうが、どうしたらマズイのか、ということが自然と共有される中で、残りの範囲内で自由に行動してよい、という自由を与えられた三兄弟だからこそ、傍目に面白く映る言動を日常的にしでかすのではないか。僕にはそう思える。

親の背中を見て子は育つ、というが、宮下奈都のこの有り様こそ「教育」と呼ぶべきものかもしれないと思う。勉強や技術や知識は教えることが出来る。しかし、生き方を教えることは、とても難しい。三兄弟は、宮下奈都の(もちろん、父親も、だろうが)の言動から、「自由に生きる、とはどういうことか」を学んでいるように思う。自由とは、与えられるものではない。見つけるものでもない。作り出すものだ。三兄弟は、自由を作り出す力を、生活の中で身につけている。それは、学校でも社会でも学ぶことがなかなか難しい力だ。

僕も、こんな風に親の背中を見て育ったら、もっと違う人間になれたんじゃないかなぁ、とそんな風に思ってしまった。

内容に入ろうと思います。
本書は、宮下家の五人が一年間限定で、北海道のトムラウシの集落に生活の拠点を移した、その記録である。

『なにしろ山の中である。いちばん近いスーパーまで、山道を下って三十七キロだという。ありえない。誰が晩のおかずの買い物をするのかしら。
小中学校は併置校で、現在の生徒は小中あわせて十人。小学生が九人、中学生はたったひとりだ。数少ない僻地五級の学校だそうで、校区はおよそ八〇〇〇〇㎢。山村留学制度があって、外からの児童生徒を受け入れているという。携帯は三社とも圏外。テレビは難視聴地域(特別豪雪地帯で、雪が降ると映らない)。』

なかなかの環境である。
何故そんな場所に引っ越すことになったのか。それは、夫が希望したからだ。元々は帯広に住む予定だった。でも、大自然の中で暮らしたくなったのだという。宮下奈都は、ありえないと思った。魅力的な場所だとは分かるが、住む場所ではない、と。しかし、夫は諦めない。無口な夫が二年分ぐらい喋って、トムラウシへの移住を希望する。
決め手は子どもだった。三兄弟があっさりと「行きたい」と表明したのだ。
決まってしまった。本当に住むのか。本当にこととは思えない。が、移り住むのだ。
カムイミンタラ(神さまの遊ぶ庭)と呼ばれるくらい素晴らしい景色に恵まれた土地での濃密な一年間を、宮下奈都が実に面白く、そして時にしっとりと描き出す。
というような話です。

物凄く面白かった。ただの読み物としても、三兄弟の言動を始め、『曲者ぞろい』と評された学校の先生や、様々な理由でこの地に引っ越してきたご近所さんたちとの関わりなどに爆笑させられるのだが、冒頭でも書いたように、それらの関わりの中から、宮下奈都という人の生き方、そしてそれが子どもにどのような影響を与えているのかが垣間見ることが出来て、そういう点でも非常に面白かった。

普通こういうエッセイでは、慣れない土地に引っ越したことであたふたする日常や、日々襲いかかるトラブルなんかが描かれるはずだが、このエッセイではそうはならない。生活環境が唐突に一変したにも関わらず、宮下家の面々は特に動じることもなく(動じた部分はただ描かれていないだけかもしれないが)すんなりと適応している。宮下家は、福井にいる頃とさほど変わらないまま、トムラウシでも宮下家として存在したのではないか。そんな風に思わせるエッセイである。


環境の変化にすぐさま馴染み、のびのびと変わった言動をする子どもたち(と夫)と違って、宮下奈都は些細な場面で、この地に引っ越してきた自分自身や、この家族を受け入れてくれた地域のことに思いを馳せる。

『むすめに直接話しかけてこない子は、生まれたときからここで暮らしている牧場の子だった。友達になってもどうせ帰っちゃうんでしょう。そう思わないわけがないと思った。両手を広げて「友達になろう!」なんて、言えないに決まっている。申し訳ないことをしているのではないか、という気持ちが、私の中にはっきりと芽生えた瞬間だった。私たち家族は、勝手にやってきて、いつか勝手に去っていく。ずっとここにいる人たちの好意で受け入れてもらっているだけなのだ』

こんな風にしんみりする場面は、このエッセイには少ない。しかし少ないからこそ、時々あるこういう場面にはっとさせられる。宮下奈都は、とても気持ちが優しい人だ。人の気持ちに敏感で、余計な(と思えるような)ことにまで気を回してしまう。それは良い風に働くこともあれば、悪い風に働くこともある。

それは子どもにもきちんと受け継がれている。

『もう言わないで。帰るって考えないで暮らしたい。学校にも言わないで。帰るって思われたくない』

住んでみて、離れがたくなってしまったこの地から、無理矢理にでも引っ越すことを決めた宮下家。それにたいしてむすめが言った言葉だ。宮下奈都も、引っ越す旨学校に伝えた後で、『ただ、帰る子としてではなく、ここの子として、できるだけ長く暮らしたいと願う気持ちは伝わったと思う』と書いている。人の気持ちを思いやり、その中で自分の気持ちに素直になれるのは、時に生きづらさに繋がることもあるだろうが、得難い美徳だろうと思う。

具体的なエピソードを挙げて、三兄弟の面白話を紹介するつもりはないが、三者三様、それぞれのキャラクターが見事に描かれている。三兄弟のことを勝手に想像してみると、一番気が合いそうなのは長男だ。長男の、物事を捉える感覚がとてもいい。一番似ているのは次男な気がする。僕も、コツコツ真面目にやっていくタイプだ。そして、むすめのような奔放さは自分にも欲しかったな、と思う。なかなか奔放になれないので、むすめはとても羨ましいタイプだ。

一つだけ、長男のエピソードを挙げよう。長男は、特に勉強をするわけでもないのに超優秀らしいが(僕の高校時代にも一人そういう奴がいた。超羨ましい!)、そんな長男が数学のテストの臨み方について語っている場面がある。

『「でも安心して。いざとなったら汚い手口を使ってでも解くよ」
き、汚いって何。どういう手口。
「ここではこういう解き方をさせたいんだなって、問題見ればわかるじゃない。でもそういう空気を読みたくないんだ。完全に理解して美しく解きたい。公式もできるだけ使いたくない。だけど受験のときは、汚くても点数を取りに行くからだいじょうぶ」』

天才かよ!「こういう解き方をさせたいんだなって、問題見ればわかるじゃない」って、わかんねーよ!くそー、これが凡人と天才の差か、と改めて思い知らされたのであった。

大げさに聞こえるかもしれないが、決して大げさではなく、「生きていくとはどういうことか」を考えさせる作品だ。身構えて読む必要はない。中身は、面白おかしいエッセイだ。しかしそんな面白いエッセイを読み切って、ふと思うだろう。自分の人生は、これでいいのか、と。別に、トムラウシに住まなくたっていい。大きな変化を望まなくたっていい。それでも、この作品は、あなたの生き方のどこか一部を、丸ごと入れ替えるようにして変えてしまうのではないかと思う。


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