【映画】「東京クルド」感想・レビュー・解説

衝撃的な映画だった。

以前、「娘は戦場で生まれた」という映画の感想で、「これ以上に衝撃的な映画など存在しうるのか」と書いたが、この映画はそれに匹敵する衝撃を与えられた。

何に衝撃を受けたのか。

一番は、「この映画で描かれている事実を、僕がまったくと言っていいほど知らなかったこと」だ。映画を観ながら僕は、ずっとこの衝撃に打ちのめされていた。

そしてさらに、「自分はこんな”恥ずかしい国”に住んでいるのだ」ということも痛感させられた。

映画の後、監督のトークショーがあった。そこで配給会社の方が、「この映画の完成は2021年の4月。通常そこから半年から1年を掛けて公開まで準備するが、今回は可能な限り早くしたいと思った。2021年に入管法の改正が審議されたこと(実際には先送りされたそうだが)、スリランカ人女性のウィシュマさんが治療を受けられずに死亡した事件などがあり、一刻も早く観てもらいたかった」というようなことを語っていた。

僕としては、どんなタイミングでも良いと思う。是非この映画を観てほしい。衝撃に打ちのめされるだろう。

まず、僕のスタンスについて書いておく。これを書かないと誤解を与えると思うからだ。

まず、この映画に描かれている現実のすべては、「日本の法律」が悪い。「入管で働く人」でも「難民申請をしている人」でもなく、すべて「日本の法律」の問題だ。この点は、僕の中に揺るがずにある。

そして、「日本の法律が悪い」ということは、「それを変えようとしていない我々日本国民も悪い」ということだ。この点も揺るがない。映画を観ながら僕は、「自分に何ができるかは分からないが、もし目の前に何かできる機会が巡ってくることがあれば飛び込もう」と思った。この現実に対して、自分が何もしていないということが、とても恥ずかしく感じられた。

そして、上述のことを大前提とした上で、こうも考える。

人間を人間扱いしない法律は法律じゃない

映画を観ながら、ずっとこんな風に感じていた。

トークショーの中で監督が、「日本の入管法では、『難民には早期退去してもらう』という方針があり、入管の人たちはその方針に基づいて働いている」と言っていた。同じく監督が、「入管で働く人を悪く描きたいわけでは決してない」と言っていたことも、賛同できる。

入管で働く人たちは、法律や方針に照らせば、正しい職務をこなしていると言えるし、生きていかなければならない以上、自分が就いた「入管」という仕事を簡単に辞めるわけにはいかないことも理解できる。

しかし、彼らが従う法律や方針は、実際のところ「難民を人間扱いしない」ものだ。

なぜか。

とその前に、この映画を観る前に、僕が知っていた知識を書こう。それは、「日本の難民認定率が、諸外国と比べて圧倒的に低い」ということだ。今調べると、ドイツが25.9%、アメリカが29.6%に対して、日本は0.4%だという(2019年の数字)。ちょっとこれは異常だろう。

さて、僕はこのことしか知らなかった。だから、以下で書くことはすべて、映画を観る前には知らなかったことだと思ってもらっていい。

さて、「難民を人間扱いしない」の話だった。

難民申請中の外国人は、日本においては「仮放免」という状態にある。この「仮に放免されている」という言葉の意味が最初よく分からなかったが、映画を観ている内に理解できた。難民申請者は、理由も分からず(と言うくらいだから、理由を告げられもしないのだろう)入管に「収容」されることがある。2019年には、全国の収容施設に1000人を超す外国人が収容されているという。

収容期間に制限はなく、中には7年以上という者もいるそうだ。驚いた。しかも、理由はないのだ。特別な理由もなく、家族と離れ離れにされ、自由を奪われてしまう。これも、法律に則った行為なのだろうが、難民申請者からすれば納得いかないだろう。

映画の主人公として描かれるラマザンとオザンという2人の青年も、様々な場面で「捕まらないことを祈るよ」みたいなことを言う。これも最初は意味が分からなかったが、「理由もなく入管に収容される」ことを指しているようだ。

さて、「仮放免」の話だ。彼らは、入管に収容される状態を仮に放免されている、という立場である。そしてその仮放免中の者は、1~2ヶ月に1度入管まで足を運び、面談しなければならない。

その面談中の音声が記録されているのだが、その中で「仮放免中は働いてはいけない」という話が出る。

この音声は、映画のかなり冒頭で登場するので、初め僕には意味が分からなかった。「仮放免」の意味も「働いてはいけない」の意味も分からなかった。働かなかったら、どうやって生きていけばいいのだろう?

音声を録音したのはオザンだが、彼は入管の担当者に、「仕事しないでどうやって生きていくの?」と聞く。それに対する入管職員の返答がまず衝撃的だった。

【それは私たちにはどうにもできない。それはあなたたちでどうにかしてほしい】

字面だと伝わらないかもしれないが、これを、ちょっと半笑いっぽい口調で言っている(ように僕には聞こえた)。

まあしかし、「半笑いっぽい」というのは僕の印象だし、入管の人が「自分たちにはどうにもできない」と言っているのも、まあそれはそうだろうと思う。彼らは職務を全うしているだけであり、入管の立場からすれば、難民の現実に手を差し伸べることができない、というのはまあ仕方ない。

しかし、入管の職員とのやり取りはもう一回出てくる。そしてそちらの音声がさらに衝撃的だったのだ。

どうも年々、入管が厳しくなっているようで、その時のオザンと入管のやり取りの中で職員が、「無理やり帰されることも覚悟してください」という。これも平然と、相手を人間だと思っていないように僕には聞こえたが、これも僕の印象だ。

それに対してオザンが「帰れないんだよ」と言うのだが、それを受けて職員が口にしたセリフがこの映画最大の衝撃だった。

【他の国行ってよ、他の国】

自信はないが、おそらくこの言葉は正確にメモに書き写したと思う。こちらは、字面だけでも「やっつけ感」「投げやり感」が伝わるのではないだろうか。実際に音声でも、「俺だって仕事でやってんだからさー、ンなめんどくせーこと言うんじゃねーよ」というような心の声がダダ漏れしているような口調だった。

僕は、「入管の職員が職務を全うしているだけ」だとしても、この態度は許せないと思う。仮に職務を全うしているだけだとしても、目の前にいる存在をもう少し「人間」として見るべきだ、というのは当たり前の感情だろう。

トークショーの後の質疑応答で、僕はこの点について聞いてみた。「あくまで監督の感触で構わないが、入管職員は大体このような態度なのか?」と。あと、「オザンのこの録音は、確実に入管に無許可で行っていると思うが、オザンに何かマズいことは起こらないだろうか?」とも併せて聞いてみた。

前者の問いに対して監督は、「ラマザンやオザンから聞く限り、もっと酷い対応をされることもあるという。しかし一方で、別の難民申請者(ラマザンの叔父なのだが、後で詳しく触れる)が担当の職員を『この人はいつも私に良くしてくれるんです』と紹介してくれたこともある。だから人による」というような返答をしていた。ある程度予想通りではあるが、「他の国行ってよ、他の国」よりも酷い対応があるのだと知ると、映画の中でラマザンやオザンが見せていた笑顔が、余計苦しいものに思えてくる。

後者の質問については、こんな回答だった。当然オザンには、映画の中で流す許可を取っている。また、今回の映画は初め20分程度の短編としてスタートし、WEBやテレビなど様々な媒体で流す機会があった。そして、その放送後に、オザンに対して好意的な反応が寄せられる機会も多かったという。

オザンは映画の中で、外国人のモデル・タレント事務所に所属しようとするが、結局「仮放免中は働けない」という点でダメになった。テレビ出演が決まりそうだったところなので、落胆しただろう。もちろんオザンも、働けないことは分かっていたし(しかし実際には、映画の中で解体業の仕事をしているし、入管職員もそのことを知っている)、自分がタレントとして可能性があるのか試したかった、みたいな部分も大きかったのだろう。それにしても、残酷な場面だったなと思う。

そんなわけでオザンは、人前に出たりするような仕事をしたいと考えているし、だからこそ、入管での隠し録りの音声によって何かマズいことが起こったとしても、オザンにとってプラスになる部分もかなりあるのではないかと監督自身も感じられるようになったのだという。

とにかく、この映画によってオザンに何か起こらないといいな、と思う。

さて、ここまで書いてこなかったが、ラマザンもオザンも、日本の小中高校を出ている。日本語はペラペラだ。オザンについて描写はなかったと思うが、ラマザンは小学3年生の時に日本にやってきて、それからずっと日本にいる。

はっきり言って、そこらにいる日本人の若者より、ちゃんと日本語を使えている気がする。当たり前のように「手が及ばない」とか「おかげさまで」みたいなことを口にする。ラマザンは、通訳の専門学校に入学することを目指し独自に日本語の勉強をしており、漢字の練習もしていた(漢字の練習をしている場面が出てきた時点では、彼が日本の小中高校を卒業していることは情報として出てなかったので、メチャクチャ驚いた)。

正直僕は、映画を観ながら、ラマザンもオザンも「ちょっと顔の濃い日本人」にしか見えなかった。もちろん、日本人と比べてやっぱり若干言葉の流暢さは落ちるのだが、言葉だけではなく、振る舞いや考え方なども、なんか日本人っぽいなと感じる場面が多かった。というか、「日本人っぽいと感じる」というのではなく、「あぁそうか、彼らは日本人ではないのかと感じる」という方が正しいかもしれない。うっかりすると、彼らがクルド人であることを忘れてしまう瞬間があるのだ。

正直なところ、僕よりもラマザンの方が、働き手として日本の利益をもたらすと思う。オザンがダメなわけでは決してないが、ラマザンはメチャクチャ優秀だ。その気持ちの強さや行動力には驚かされる。「仮放免中の難民を受け入れる想定がない」というような理由で語学の専門学校を落ちまくったり、日本で難民認定されたクルド人が一人もいないという現実の中で、日本で通訳として働くことを夢見て必死に勉強を続ける姿には打たれるものがある。

たまたま日本に日本人として生まれ、ある意味ではのうのうとフラフラと生きてきた僕よりも、ラマザンの方が圧倒的に優秀だし、働き手として求められる人材だと思う。彼のような人が、日本に日本人として生まれていればしなくて済んだ苦労をしなければならない、というのは理不尽に感じられる。

しかし彼は、クルド人として生まれたことを後悔していない、とはっきり断言していた。せっかくお母さんが産んでくれたんだし、クルド人として生きることは別に恥なわけではない、と。素晴らしい人格だ。

しかしそんな強いラマザンも、時折心の弱さが垣間見える。

【働く資格をもらえないかもしれないのに、勉強してる意味なんかあるのか、って思っちゃうことはあります。たまんないですよ。時々、(勉強の)手が止まりますもん】

ちなみに、トークショーの最後で、ラマザンとオザンの近況に触れられていた。オザンは映画の時と状況は変わっていないそうだが、ラマザンには大きな変化があった。在留特別許可が下りたのだ。実は今日(7/10)の毎日新聞の朝刊の記事に載ったという。URLを見つけたので貼っておく。

https://mainichi.jp/articles/20210709/ddm/013/040/009000c

「難民認定」と「在留特別許可」は違うのだろうし、まだまだ一番望む形には届いていないのだろうが、少なくともラマザンは「日本で働く許可」を得られたようで、現在就職活動中だそうだ。良かった。

オザンにも良い変化があってほしい。映画の中で彼は、

【ダニ以下ですよ。虫より低い。価値がないんですかね、あんまり。必要とされてもいないし】

と心境を語っていた。とても苦しい。彼にそう思わせてしまっているのは日本の法律のせいであり、だからこそ僕にも責任がある。僕が何かできるわけではないが、とにかく、オザンやオザンのような難民申請者に良いことがあってほしい。

しかし現実は厳しい。2021年4月に審議された入管法の改正案は、「難民申請は原則2回まで、3回以上は認めず、本国に送還される」という内容だそうだ(もし違ったら指摘してください)。僕はこのニュースを、ミャンマーのクーデーターのニュースで知った。この改正案が通ってしまえば、日本にいるミャンマーの難民が、危険な情勢にあるミャンマーに強制送還されてしまうかもしれない、という指摘だ。日本の難民認定率は0.4%なのだから、ほとんどの難民申請者が強制送還される、ということになるだろう。強制送還されれば、命を落とす危険性が圧倒的に高い。それでも、「法律だから」という理由で彼らを本国に送り返すことになるのだろう。

恐ろしい話だ。

日本では2007年以降、収容中に死亡した難民申請者が17名、その内5名が自殺だそうだ(2021年5月現在)。そしてこの点についても映画で描かれる。

2019年3月12日、東京入国管理局に収容されていたクルド人男性の容態が悪化し、家族が救急車を呼んだ。しかし入管が救急車を追いかえす、という事態が発生した。これはニュースでも大きく取り上げられた、ようだが、僕はこんなことがあったことを忘れていた。

そして、メメットというこのクルド人男性が、ラマザンの叔父なのである。

救急車は2度呼ばれたが、2度とも何もせずに帰り(救急隊がメメットに会えたのかどうか、映画を観ている限りではよく分からなかった)、結局メメットは最初に救急車を呼んでから30時間後に病院に搬送された。脱水症状だったという。

ウィシュマさんの話もそうだが、正直僕には、ここまでする意味が分からない。人命を軽視してまで、「収容」が優先されるのだろうか? 「法律」という正当性があれば、何をしてもいいのだろうか? そんな「思考停止」の状態で、果たしていいのだろうか?

映画を観ながら、怒りしかなかった。自分への怒り、国への怒り、入管への怒り……。久々に「やるせない」、というか、なんと名付けていいのか分からない感情に襲われた。

ダメだろう、これは。

もちろん、日本が難民を受け入れていないことにも何らかの理屈はあるのだろうし、法律や国の方針を批判するのであれば、その理屈も理解すべきだと思う。しかしそれでも、やはり、大前提として「人間を人間として扱うこと」は必須だと思う。どんな理屈があれ、どんな法律や方針があれ、「人間が人間として扱われない」のであれば、僕はその理屈も法律も方針も無効だと判断したい。

困っているすべての人を救うことなどできないことは分かっているし、どういう法律・方針であろうが、そこからあぶれてしまう人が出てくることも理解している。しかしそれは、難民認定率をもう少し上げてから言え、とも思う。0.4%しかない国が言っていいことではない。

全然知らなかったが、僕たちは「常軌を逸した国」に住んでいるようだ。本当に恥ずかしい国だと思うし、多いに失望した。

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