【映画】「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」感想・レビュー・解説

これはメチャクチャ良い映画だった。正直、最初の1時間ぐらいは、「ここからどう話が展開するんだ?」と思ってたんだけど、「まさかそんな話になっていくとは」と感じた。友人から聞くまで、映画の存在すら知らなかったが、これはマジで観て良かった。

ちょうど昨日の夜、僕が寝ようとしていた直前に、女友達からLINEが来た。「生きづらくてしんどい」という内容だ。さらに、「こんなマイナスな話は、周りの人を不快にするだけだからすいません」「休みの前の日なのにこんなことを言ってごめんなさい」みたいなことも書いてあった。僕は、「そういうのは出せそうな時に出しといた方がいいよ」みたいに言っている。

僕は割と、人からそういう話を聞く機会が多い。自分で言うのも何だが、話しやすいのだろう。というか僕は、意識的に「話しやすい雰囲気」を醸し出しているつもりだ。完全に、意識的にやっている。まあ、それが上手くいっているのだと思う。

ただ、僕にそういう話をしてくれる人に話を聞いてみると、なかなか話せる相手はいないようだ。まあそうだろう。誰かの「しんどい話」を、フラットに聞くのは案外難しい。

だから「ぬいぐるみに話しかける」というのは、ベストでとは言えないが、ベターな解決策だと感じた。ぬいサー(ぬいぐるみサークル)の面々は、「辛い話を誰かに聞いてもらうと、相手の気持ちを辛くしてしまう。だからぬいぐるみに聞いてもらうんだ」と言っている。

ホント、絶妙な設定だと思う。

とにかくこの映画に対しては、随所で「絶妙」と感じた。何もかもが「絶妙」だ。中でも、会話の「絶妙さ」には驚かされる。「沈黙」や「間」も含めて、ホントに見事なまでの「絶妙な会話」なのだ。僕にとっては実に心地よいこの会話の雰囲気を感じるだけでも、この映画に触れる価値があるなと思う。

映画を観ながら、僕が普段から考えていることを改めて実感させられる気がした。それは、「『マイノリティ』という言葉の『狭さ』」である。

一般的に「マイノリティ」という言葉は、恐らく、「『分かりやすい何か』を有している人」という意味で使われることが多いはずだ。「分かりやすい何か」というのは、「障害を持っている」「LGBTQである」などだ。語弊のないように書いておくが、別に「障害」「LGBTQ」のことを「分かりやすい」と評しているのではない。あくまでも、いわゆる「マジョリティ」が「『マイノリティ』という言葉」を使う際に、「障害」「LGBTQ」を「分かりやすい何か」と捉えているのではないか、というイメージでそう呼んでいる。

もちろん、そういう「分かりやすい何か」を有している人は「マイノリティ」に含めて良いだろう(ただ僕は、「マイノリティであるか否か」を決めるのは、最終的には「本人の気分」だと思っているので、そういう「分かりやすい何か」を有している人でも、気分がマイノリティじゃなければ、マイノリティではないと思っている)。

さて、一方、「マイノリティ」と呼ばれるべきは、決してそういう「分かりやすい何か」を持っている人だけではない。そしてまさにこの映画は、そういう人たちを描き出していると言っていい。

映画には、ぬいサーのメンバーとして7人の人物が登場するが、その中で、「分かりやすい何か」を持っていると言えるのは1人だけだと思う(少なくとも、観客視点からはそうだ)。それ以外の人たちは、「分かりやすい何か」を持たない。しかし、彼らは間違いなく「マイノリティ」と呼んでいい人たちだと思う。

しかし、いわゆる「マジョリティ」の人たちが「マイノリティ」を思い浮かべる時、彼らの存在は思い浮かびもしないと思う。シンプルに、認識できない。「障害」や「LGBTQ」は、概念が言語化されているからまだ捉えられるが、映画の中のぬいサーメンバーの「マイノリティさ」は、広く知られる形では言語化されていないので、「マジョリティ」の人たちには理解できないのだ。

この映画では、ぬいサーという「マジョリティ」から意識的に距離を置いているサークルを舞台に展開するにも拘わらず、きちんと「マジョリティ」視点が入り込む。そのキーパーソンが白城ゆいである。

正直この物語は、彼女の存在で成立していると言っていいだろうと感じた。

白城は、ぬいサーに所属しながら、学内唯一のイベントサークルにも所属している。白城はそのイベサーについて、「セクハラまがいのことも多い」と表現していた。「大学生のマジョリティ」をステレオタイプに想像する時に思い浮かぶような人・集団だと考えていいだろう。

白城については、正直映画の中でそこまで深掘りされない(客観的な立ち位置でいることが重要な役割だったため)ので、彼女がどのようなマインドの人なのかを掴むのは難しい。ただ、事実として彼女は、「ザ・マジョリティであるイベサーと、ザ・マイノリティであるぬいサーのどちらにも馴染むことができる」。両者の視点を持ちうる存在だというわけだ。

そんな彼女が、主人公・七森に聞かれる形で、「どうしてセクハラまがいのイベサーに所属しているのか」に答える場面がある。彼女の返答は要するに、「世の中は安心できる場所の方が少ないんだから、ぬいサーみたいな場所だけにいたら弱くなってしまう」という内容だった。

この視点は、映画全体のテーマを捉える上で、非常に重要なものと言える。いつものことながら、映画の内容についてまったく調べないまま観に行ったこともあって、「そういう話になっていくのか」と驚いたし、そしてこの要素が、男女問わず、観客全員がこの映画世界の「関係者」として引きずり込まれることを意味することになる。

映画後半の話についてあまり触れないようにするのだが(印象的なセリフはとても多いのだが、あまり書きすぎないように注意しようと思う)、「あー、それはメチャクチャ分かる」と感じた場面がある。

【でも結局のところ、傷つきたくて傷ついてるだけなんじゃないかって思うんだ。傷ついている自分は、加害者じゃないって思い込みたいだけなんじゃないかって】

この「ズルさ」は、僕の中にもちゃんとあるなぁ、と思った。僕は割と早い段階でその「ズルさ」に気づいていたので、この映画を観て「痛いところを突かれた」みたいには思わなかったが、その「ズルさ」に気づいていない人は「うっ」と感じてしまうかもしれない。そしてこのセリフの後に続く、「それに僕は○○だから…」という話は、僕も割と普段から気をつけているつもりだ。「○○として生きている」というだけで、避けようがない「メタ的な意味」が自分に付随してしまっていることに、気づいていない人がとても多い。そのことが、社会のあちこちで齟齬として浮き彫りになっている状況が山ほどあって、そういう現実にうんざりすることが多い。しかし、「どうせ僕も○○だしな」という感覚は、ずっと頭の片隅のどこかにはある。

色んなことをぼやかして書くので意味が通じないと思うが、ある場面でこんなセリフが出てくる。

【みんな笑いながらそういう話をするんだよ。真剣に話せない空気があるっていうか】

最近、このことを実感する機会があった。僕自身の話ではないので具体的には書かないが、やはりその人も「その時にはヘラへラしてしまった」と言っていたし、後から振り返ってそんな自分に嫌気が差しているようだった。「それに僕は○○だから…」という言葉は、「そういう社会になってしまっている遠因としての自分」を責めるものだ。そしてやはり僕は、良い悪いという話ではなく、「そのことで自分のことを責められる方が、そのことにまったく気づいていない人よりも遥かに真っ当だ」と感じる。

恐らく、世の中的には、このぬいサーの面々は「奇妙な人」に映るだろう。しかし僕の目には、ぬいサーの面々の方が、社会の大多数の人よりも「真っ当な人」に見える。

こんな場面も印象的だった。ぬいサーの中で、唯一「分かりやすい何か」を持つ人物が、その「何か」をサラッと口にした時のことについて、こんな風に語る場面があった。

【その場の言葉遣いが制約されたような感じがあった。「私は尊重してますよ」みたいな空気を出すの。なんか「自分自身」として見られていないような感じだった】

この感覚も凄くよく分かる。僕は別に「分かりやすい何か」を持つ人ではないのだけど、「マジョリティ側ではないこと」をさりげなく示すためのエピソードストックはそれなりに持っている。そして、そういう話をしてみた時に、「言葉遣いが制約されたような感じ」を感じることは確かにある。もっと明け透けに言えば、「地雷を踏むわけにはいかない」という緊張感みたいな感じだろうか。そういう雰囲気が出てしまっている時点で、既に地雷は踏まれているのだけど、マジョリティは地雷を踏んだという事実に気づいていない。そういう雰囲気は、やはり強い違和感として残る。

その違和感は、こんなセリフがよく言い表しているだろう。

【ヤなこと言うヤツは、もっとヤなヤツであってくれ】

これもホント絶妙なセリフだなぁ、と感じた。「今地雷を踏んだ」という事実に気づかないような「鈍感さ」が、「ごく当たり前に生きる普通の人々」に内蔵されているから、普段の振る舞いからその「鈍感さ」を見抜けない、という話だ。そういう人たちが「マジョリティ」であるという事実こそが、「マイノリティ」にとっての「生きづらさ」の根源だったりもするのだ。

こんな風に僕は、この映画が全体的に描こうとしている「何か」にメチャクチャ共感できてしまう。「原作者とか監督・脚本家とめっちゃ喋りてー」と感じるぐらいだ。

映画の中では、「優しさ」について様々な言及がなされるが、僕にとって「優しさ」というのは、「『僕には優しく振る舞わなくていい』と相手が感じられるように振る舞うこと」みたいな感覚がある。まさにそれは、「ぬいサーにおけるぬいぐるみの性質」と同じようなものだと言っていいかもしれない。

どうやったら「僕には優しく振る舞わなくていい」と相手が感じてくれるかは、人それぞれ違う。だから、「優しさの発露の仕方」もまったく違うものになっていると思う。ただ世の中には、「優しさ」という「形の定まった何か」が存在して、それを相手に示したり投げつけたりすることが「優しさ」である、みたいな感覚を持っている人がいるように思う。

確かにそれは、とても分かりやすい。「これこれの振る舞いをしてくれたら『優しい』、してくれなかったら『優しくない』」と簡単に判定できるからだ。しかし僕は、そんな解像度の低い捉え方が許せない。同じ行為が、ある人には「優しさ」として受け取られ、別の人にはそうは受け取られないなって、当たり前に起こることだ。

そして、そういうことが分かりすぎること分かっているからこそ、ぬいサーの面々は、イヤホンを付け、ぬいぐるみに話しかける。やはりそれは、「真っ当さ」であるように僕には感じられるのである。

実に良い映画だった。

映画全体の話を少しすると、とにかく「違和感を覚えるぐらい、ストーリーがスパスパ飛んでいく」という形式が印象的だった。重要なシーンが編集でごっそり抜けちゃってるんじゃないかと思うぐらい、いきなり唐突に状況が変わっている、みたいなことが、特に前半は結構多かった。その欠落が、後々説明されるわけだが、個人的には、そういう「違和感」も、映画全体の雰囲気に合っていて良かったと思う。

あと個人的には、「双子みたい」と評される七森と麦戸の関係がとても良かった。僕は別に、アセクシャルみたいな感じではないのだけど、それでも、七森と麦戸の関係が、異性との最上級の理想的な関係だなと思う。

いやー、これはとても良い映画だった。

この記事が参加している募集

映画感想文

サポートいただけると励みになります!