【乃木坂46】【映画】「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」感想・レビュー・解説

タイトルの通り、乃木坂46のドキュメンタリー映画です。

まず、何故僕が乃木坂46のドキュメンタリー映画を観に行ったのか、から始めたいと思います。

僕は正直、乃木坂46のファン、という感じではありません。「凄いファンの人と比べると自分なんて全然…」みたいな話ではなくて、本当に、乃木坂46のことをよく知りません。
僕が乃木坂46のことを知るようになったのは、日曜の深夜にやっている「乃木坂ってどこ?(今は「乃木坂工事中」という名前になっています)」という番組からでした。何故この番組を見始めたのか、正直よく覚えていないんですけど、半年ぐらい前から、基本的に毎週日曜日には、この番組を見る習慣が出来ました。
とはいえ、ずっと見ているんですけど、特別誰が好き、ということがありません。個々のメンバーも、苗字は知ってる、ぐらいのレベルで、顔では判別できますけど、名前は基本的によく分かりません(今日映画を観て、ようやく名前が判別できるようになりました)。最近出たファーストアルバムは買ってよく聞いているんですけど、どの歌を誰歌っているのかみたいなこともよく知りません。ライブや握手会に行ったこともないし、乃木坂46が出てる他のテレビ番組を見ることもありません。本当に僕が乃木坂46に触れるのは、「乃木坂工事中」と「ファーストアルバム」だけと言っていいです。
まあファンと言えなくもないかもしれないけど、でもまあそこまでは行かないレベルじゃないかな、と自分では思っています。
それでも、なんだか乃木坂46というのは、僕にとって気になる存在なわけです。動いている姿を見るのは「乃木坂工事中」という番組でしかないので、恐らくこの30分番組を見ながら、乃木坂46という存在が徐々に気になっていったのだと思うのだけど、自分ではどうしてなのかよく分かりませんでした。
そういう状態で、ドキュメンタリー映画が公開される、ということになりました。僕はたぶん、自分が何故乃木坂46が気になっているのか、その答えが見つかるんじゃないかと思って観に行ったような気がします。

答えは、見つかったような気がします。

『乃木坂って、みんな変わってますからね。ネガティブだし、目立つことが嫌いで、さみしがりや。でも、案外自分を持ってる。そんな子が多い。内気で、弱いんだけど、でも、そういうマイナスな部分を、常に「変えよう」って思ってる子がたくさんいる』

これは、乃木坂46のリーダーの桜井(リーダーが桜井だってことも知りませんでしたけど)の言葉です。
なんとなくこれ、分かる気がします。そして僕はたぶん、そういうところに惹かれているような気がします。

この映画では、様々な人物が出てくるのだけど、メインで描かれるのは五人。生駒里奈・西野七瀬・白石麻衣・橋本奈々未・生田絵梨花。乃木坂46の中心的な存在であるこの五人が、大体皆、ネガティブな過去を抱えています。

生駒里奈:
『中学の頃は、カーストの最底辺でした。三角形の、ホントこの辺、みたいな。可愛くするのが嫌いで。目立たなければいじめられることもないって思ってました』
『小学校時代には、いい思い出が1ミリもない。ずっと、いじめられていました』
『高校に行きたくないって思って、オーディション受けてみるのもいいかなって思った』

西野七瀬:
『(親に入るように言われた)女子バスを辞めたいって思いました。女子が面倒で。二学期には、もう辞めました』
『(母)乃木坂46のオーディションの募集の話をすると、七瀬は、見向きもせずに頷きました。取り返しのつかないことをしてしまった。』
『(オーディションに受かって)全然、真剣に考えてなかった』

白石麻衣:
『(母)麻衣は中二から不登校になりました。ある日突然、部屋から出なくなりました。それから麻衣は、部屋にこもり続けました。それから麻衣は、私に対して感情の壁を作るようになりました。何を考えているのか、何を感じているのか、まったく見えませんでした』
『過去の自分は、好きじゃない』
『(オーディションに受かって)落ちたかった。こんなところに、いちゃいけないって思っていた』

橋本奈々未:
『凄くお金のない家で。でもどうしても、東京に出たかったから、全部自分でやるって言って出てきました。奨学金を全部学費に充てて、バイトを掛け持ちしてたんですけど、ホント生活が苦しくて。ある時、コンビニで買ったおにぎりを、バーンって投げちゃったことがあって。』
『東京で生きてくためにどうしたらいいか。そこでふと思ったんです。芸能人になれたら、ロケ弁がもらえるって。』
『(オーディションに受かって)「終わった」と思いました。私には、出来ないって。怖かった』

生田絵梨花:
『ピアノの練習は、義務感しかなかったです。周りの子達はみんな遊んでるのに、どうして私だけ、おんなじ箇所を、ずっと練習してなきゃいけないんだろうって』
『(母)絵梨花は、中学受験に失敗しました。まだ小学生でしたけど、「こんな紙切れで一生を決められるのは嫌」と、はっきり言っていました』
『(母 オーディションに受かって)心の底から喜んでいる感じではありませんでした』

程度の差こそあれ、皆、何かしらネガティブな感情を抱えている。もちろんそんなに、誰に聞いたって一つや二つ、当然あるものなのかもしれない。だから、「ネガティブさを抱えていること」そのものに惹かれたというだけではきっとない。たぶん彼女たちは、そんな自分の弱さを、基本的に隠そうとしていない感じがして、たぶんそこがいいのだと思う。
週に一回の、たった30分の番組を見ているだけで分かることなんてほとんどないだろうけど、でも僕はきっと、彼女たちの「そのままの弱さを肯定している姿」を見続けていたのだと思う。キャラクターとして弱さを武器にするわけでもなく、弱い部分を無理に隠すでもなく、あるいは弱さを個性と開き直るわけでもなく、「弱さ」をそのまま出している。人前に出る仕事をしながら、「弱さをさらけ出すこと」は、怖いことなんじゃないかと思う。どうしても隠したくなったり、無理をしたり、諦めたり、そういう部分が出てしまうような気がする。しかし、なんとなく、乃木坂46のメンバーは、そういう感じがしない。「弱い」ことが、当然の一つの性質であるように、自然と、無理なく表に出ているような、そんな感じがする。


乃木坂46というグループが、僕が感じる通り「弱さが自然に表向きになってるグループ」だとして、どうしてそうなったのか、僕なりに考えたことが二つある。
一つは、メンバーにそういう人間が多かった、という理由だ。これは、元々そういうグループを作ろうとして集めたのか、たまたまそうなったのかわからないけど、結果的には彼女たちにとって、とても良かったのではないかと思う。「弱さ」を出せる場がある、というのは、一つの救いではないかと思う。初めから、そういうメンバーが多かったので、自然と全体的にそういう雰囲気になっていったのではないか。
そしてもう一つ。これは、このドキュメンタリー映画を見ながらずっと考えていたことなのだけど、「AKB48の公式ライバル」という立ち位置だ。

生駒里奈:
『(AKB48との合同ライブで)私達には、超えなければならない目標があります。それは、AKB48”さん”です』

誰のセリフか忘れた:
『”ライバル”なんて、自分たちの口からはとても言えない』

白石麻衣:
『AKB48の公式ライバルという肩書きを取りたい』

僕は、アイドル全般に詳しくないのだけど、「妹分」みたいな立ち位置はこれまでもあったかもしれないけど、アイドル同士で「公式ライバル」なんていう関係になることは、なかなかないのではないかと思う。
「妹分」みたいな立ち位置であれば、そこまで気負うことも多くはないだろう。しかし、「公式ライバル」というのは、重い。乃木坂46が結成された時点で(恐らく)AKB48はもうかなりの人気を博していただろう。一方で、乃木坂46は、結成されたばかりの、本人たちの言葉を借りれば『素人の』集団だ。それなのに、結成した当初から、AKB48という、果てしのない(ように見える)存在を突きつけられる。
これは、乃木坂46というグループ全体のアイデンティティに、かなり大きな影響を与えたはずだと思う。それは、「強烈な劣等感からスタートする」ということだ。普通のアイドルであれば、結成してすぐ「AKB48」をライバルだと思う必要はない。しかし、乃木坂46は、結成した瞬間から「AKB48」という巨大な存在を意識させられる。乃木坂46として活動し、アイドルというものがどういうものなのか分かれば分かるほど、AKB48という存在の大きさも益々分かるようになっていく。しかも、グループのアイデンティティとして、無視できない存在なのだ。僕自身、物凄くネガティブなので分かるのだけど、そういう巨大な存在に直面すると、猛烈な劣等感に囚われる。恐らく、乃木坂46のメンバーもそうだったのではないかと思う。

この2点が、乃木坂46というグループ全体や、あるいは個々のメンバーのアイデンティティに大きな影響を与えたのではないか。映画を見ながら、僕はそんなことを考えていた。そして、AKB48という存在がいる限り、一生拭えないかもしれない強烈な劣等感にさらされながら、自分のネガティブな感情が焼き千切れそうになりながら、それでもどうにか踏ん張って前に進んでいこうとするその気持ちのありようを、僕は勝手に「乃木坂工事中」という番組から感じたのかもしれない。

生駒里奈:
『(あるメンバーに向かって)何もできることがなかったら、ここにはいないでしょ』
『センターに選ばれなかった時、初めて「悔しい」って思いました』
『真のプロになるか、終わるか、どっちかだと思うんです』

西野七瀬:
『それまでは、気付かなかったんですよ。でも、帰って来たばかりの真夏と交代させられて、初めて自分が負けず嫌いなんだって気づきました』
『今までは、失敗するのが怖いっていうか、挑戦を諦めちゃってたけど、今は、挑戦した結果、良い時も悪い時もあるけど、結果が出るのがいいなって思えるようになった』
『私は、人見知りだし、よく泣くけど、そんな私のことを応援してくれる家族とか友達のために、精一杯頑張ります』

橋本奈々未:
『ずっと、一般人に戻りたいって思ってました。ひと目を気にしないで友達と遊ぶとか、結婚とか子供とか。でも、こういう仕事をしてると、自分に投資することが多いんです。もっと綺麗になりたいとか、もっと上手くなりたいとか。ずっと上を見てる。そういうお仕事をさせてもらってて、これ以上楽しい仕事ってちょっとないんじゃないかって、そんな風に思っちゃったんです』

アイドルというのは、身も蓋もない言い方をすれば”ビジネス”である。お金を払う価値のあるものを提供し、お金を払ってもらう。そんな風にして成り立っている。アイドルを「お金を払う価値のあるもの」にまとめ上げるのも大人なら、お金を払うのも大人だ(まあ子供もいるかもしれないけど)。
その過程で、大人は、まだ若い少女たちに、過酷なものを背負わせる。
いつから”アイドル”というのは、こんなに窮屈なものになってしまったのだろうか、と思う。この映画を観て、彼女たちの努力には胸を打たれたし、自分もちゃんと頑張ろうという気持ちも強く感じた。しかしその一方で、本当に、こんなにしんどくなきゃいけないのか、という想いもずっとあった。ここまでやらなければ、もう僕たちは”感動”出来なくなっているのか?と。それを、”感動”という言葉で切り取るには、あまりにも彼女たちが背負わされているものが大きすぎないか、と。高校野球にどうしても感じてしまうような理不尽さが、もう”アイドル”という存在には内包されてしまって、そんな時代にアイドルであり続けることの大変さを、少し感じられたような気がした。
勝者には光が当たる。光が当たれば、それまでの苦労も、オセロのように一瞬に明るく輝く。しかし当然、敗者もいる。普通の努力さえしなかった敗者もいるだろうが、どれだけ努力を重ねても、様々な要因で敗者に留まるしかなかった者もいることだろう。当然ではあるが、そういうメンバーのことまでは映画の中で取り上げられることはない。この映画は、とても良かったのだけど、僕ら大人が無意識の内に貸してしまっている枷や重荷みたいなものまで見えてしまったようで、そこはまだうまく消化しきれていない。


映画は、2011年の乃木坂46のオーディションから現在までの様々な場面を繋ぎながら進んでいく。それまでの記録だけではなく、主要メンバーが地元に帰ったり、インタビューを受けたりする映像も挟み込まれる。オーディションやレッスン、コンサートの様子などアイドルらしい部分から、舞台裏での喧嘩や、メンバーのスキャンダルまで描き出していく。記憶に新しい、松村のスキャンダルもかなり時間を割いて描かれ、メンバーが素直に『怒ってない人なんていなかったと思いますよ』と言っていたりする。僕は本当に、乃木坂46というグループの来歴みたいなことを全然知らなかったんだけど、この映画を見ると、その基本的な情報も分かります(まあ僕みたいに、乃木坂46をよく知らないで映画を観に行く人間はほとんどいないでしょうけど)

映画全体の構成で、一つ印象的だったことがある。それは、ナレーションを務めるのが、各メンバーの母親である、ということだ(訂正:言葉は各母親が考えたものですが、ナレーションはプロの方がやっているようです)。これは、前例があるやり方なのかもしれないけど、非常に印象的だったし、面白いと思った。ある程度の修正はあるのかもしれないけど、恐らくどれも、母親自身の言葉で語られているのだろうと感じさせるものだった。西野七瀬の母親が、『私は娘を、私がいなければ何も出来ない子に育ててきたつもりだ』『子離れはまだ出来ていない』と語れば、白石麻衣の母親が、『弱みや本音を見せない麻衣が何を考えているのか、まるで分からない』と語る。ナレーションなど経験がないだろうに、どの母親のナレーションも違和感を感じさせないもので、映画全体の質を落としてしまうようなものでもなかった。母親が、「アイドルの母親」としてではなく、「娘の母親」として素直に言葉を紡いでいるような感触を凄く感じて、この演出も、このドキュメンタリーのリアルさをより強めていると僕には感じられました。


映画を観て、僕が強く惹かれたのが、生駒里奈と西野七瀬です。特に生駒里奈は、このドキュメンタリーの主役と言ってもいいくらい、全編に関わっていて、その有り様に強く惹かれました。

まず、西野七瀬の方から書きましょう。西野七瀬については、母が語った、非常に印象的な言葉があります。

『(母が「楽しいの?」と聞くと)仕事が出来たら、それでいい。休みで家にいても不安が募るばかりだし、大阪に帰っても居場所はない。私には、ここしかない』

東京に友達はいない。人見知りで、臆病だ。それでも、母親の反対を押し切って、それまで大阪から東京まで通っていたのを寮暮らしに変え、さらに東京で一人暮らしを始めた。母曰く、一度も辞めたいと言ったことがないのだという。

「休みで家にいても不安が募るばかり」というのは、可哀想だなと思う。でも、きっと僕も、同じ境遇に立たされれば、同じことを思うだろうと思う。あらゆる恐怖と闘いながら、それでも笑い続けなくてはいけない。いや、西野七瀬はよく泣いてるらしいが、それでも、泣き続けるわけにはいかない。いや、「泣き続けるわけにはいかない」というのを押し付けているのは、大人だ。「笑わなくてはいけない場」ではなく、「自然と笑える場」が日常の中にきちんとあってほしいな、と思う。

生駒里奈は、凄い。凄いと思う。正直、アイドルとしては、スタイルが良いわけでも、顔が可愛いわけでもないと思う。それでも生駒は、ファーストシングルから6回連続(訂正:5回だそうです)でセンターに選ばれた。この映画を見ると、その理由が分かるような気がする。
生駒里奈の描写のハイライトは、恐らく、松村とのやり取りのシーンだろう。長回しでずっと続く、松村との喧嘩のようなやり取りは、生駒里奈という一人の少女が内に秘めるものの熱さを感じさせるのに十分だと思う。

『自分で頑張ったから、ここにいるんだよ』

当時生駒は、全開の自信を持って自己肯定できるような状態ではなかった。自身もまた、圧倒的な劣等感にさらされながら、それでもどうにか踏ん張って立っていた。自分には、何もできることがない。ネガティブなメンバーが多い乃木坂46の中でも、生駒の中のその劣等感は相当強かったことだろう。それは、ずっとセンターを務めてきたということとも関係してくる。
だから、劣等感に負けてほしくなかったのだろうと思う。劣等感は、はねのけなければならない。劣等感に潰されてはいけない。生駒はたぶん、毎日毎日そんな風に思っていたのではないか。だから、ここまで一緒に頑張ってきた仲間が、劣等感に潰されてしまうのが嫌だった。アイドルとしえ恵まれたものを持っていない生駒だからこそ、その小さな体から放たれた慟哭が、ぐさりと突き刺さる。
しかし、そのシーン以上に僕にとって印象的だったシーンがある。

『私は、乃木坂46のオーディションから今日までずっと、”運”だけでここまで来てしまいました。だから、自分をアピールできるようなことは、何もありません』

このシーンは、本当に大好きだ。
もちろん、生駒が努力をしなかったなんてことはないだろう。でも、生駒はきっと、「努力では決して埋められないもの」を知ってしまったのではないかと思う。世の中には、どうやったって努力で乗り越えることが出来ないものがある。それは、気合とかテクニックの問題じゃなくて、無理なのだ。その先に行くには、才能しかないというような、圧倒的な断絶が、世の中にはある。恐らく生駒は、その断絶に気づいてしまったのだろう。
生駒が”運”と言ったのは、そういう意味だと思う。過去の自分の努力を否定する言葉ではもちろんなくて、自分は何も持っていないんだと気づいたのだと思う。それは生駒にとって、スタートラインとなった。それまで、どこがスタートなのかも分からないままウロウロしていた生駒は、自分に何もないと気づくことで、やっとスタートラインに立った。だからこそ、運だけでここまで来てしまったと、まるで自分の努力を否定するようなことも言えるのだ。自分の欠落を認めたからこそ、そう言えるのだ。

僕も、生駒と同じことをずっと考えている。運だけでここまできてしまった、と。生駒と比べるのはおこがましいほどレベルは違うのだけど、僕も、自分の実力とは程遠い世界に新しく足を踏み入れることになった。今は恐怖心しかないし、自分に何もなくて、運だけでここまで来てしまった自分のことを強く自覚しているので、不安でしかない。でも、映画で生駒の姿を観て、勇気づけられた。何もない自分を肯定した生駒が、スタートラインに着いたその姿を見て、内側から湧き上がるものがあった。これは、僕自身がまさに環境が変わるタイミングであったということも大きく影響しているだろう。生駒に限らないのだけど、特に生駒は、アイドルとして与えられた何かがあるわけではないからこそ、その圧倒的な努力が胸を打つ。本当に努力し続けた人間だからこその言葉が、僕のような劣等感にまみれた人間の心に響くのだ。しゃべる時のあの、純朴そうな田舎娘な感じも、努力を表に出さないような雰囲気でなんだか愛着がある。生駒里奈、凄い存在だと感じました。

誰もがみな、自分の言葉を持っている。もちろん、”アイドル”としての立ち位置を完全に忘れることはないだろうが、しかしそれでも”一人の少女”としての素直な言葉が紡ぎだされているように思う。様々な失敗や努力の過程で積み上げてきた、借り物ではない言葉が、僕は好きだ。自分を隠すためではなく、自分を出すための言葉が好きだ。なんとなく乃木坂46という存在が気になりだして、特になんということもなく映画を観に行ったのだけど、見て良かった。陳腐な言葉だけど、これから頑張れるような気がした。自分も、もっと頑張らないとと思った。映画のDVDが出たら、買うかもしれない。辛くなった時に、また見て、自分の心の支えになるかもしれない。

「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を観に行きました

サポートいただけると励みになります!