【映画】「主戦場」感想・レビュー・解説

なるほど、こんな映画があったのか。今回、3年ぶりの上映とのことだ。

この映画は、「『慰安婦問題』とは何なのか?」の一端を理解するために観ておいた方がいい映画だろう。

面白い、面白くないではなかなか括れない映画だが、個人的には、知らなかった事柄を様々に知れ、今まで考えたことのなかったことを考えることができたので、観て良かったと感じる。

さて、この映画を全部観た上で、僕が「慰安婦問題」に対してどう考えたのか、その思考を書いていこう。ちなみにだが、この映画で示された事柄以外には、テレビのニュースなどで流れるごく一般的な報道ぐらいしか知識がない。関連する書籍やドキュメンタリーも観たことがない。あくまで、「この『主戦場』という映画を観た上で、『慰安婦問題』をどう捉えたか」である。

ちなみに、一応書いておくと、この映画を作ったミキ・デザキという人物は、なんとなく「巻き込まれ事故」みたいな理由からこの映画の制作に至ったようだ。映画の冒頭で、彼がどうして「慰安婦問題」に関わることになったのかが触れられていたが、元から関心があったとかではなく、「事故に遭った」みたいな感じで「慰安婦問題」の方が向こうから突っ込んできたので、調べてみることにした、というスタンスのようだった。また、映画の最後で、彼自身「アメリカ人」だと言っていた。つまりこの映画は、「日本でも韓国でもない視点から、そもそも関心を抱いていなかった『慰安婦問題』について取材した作品」であり、そういう意味では、かなり客観的な視点から状況を捉えていると言っていいのではないかと感じる。

さて、まず大前提として、「慰安婦問題」に限らず、ありとあらゆる問題に対して僕が当てはめる原則について書いていこう。

この映画では、「韓国の女性を慰安婦とした行為」について、「良い/悪い」の議論がなされる。しかしそもそもどんな問題であれ、「良い/悪い」を議論するためには、それを判定する「基準」が必要だ。また、状況によって判断は異なるが、基本的には「それが起こった時点での『基準』に照らして『良い/悪い』を判断すべきだ」とも考えている。「2022年現在の基準」ではなく、「その行為が行われた時点での基準」である。これは、一般的にも認めてもらえる主張だろう。

また、これもあくまで原則の話だが、その「良い/悪い」の基準となるものが「法律」なのだとして、「法的責任を追求するには、証拠が必要だ」とも考えている。あくまでも、「法的責任を追求する場合」に「証拠」が必要だ、という主張である。「法的責任」以外にも「倫理的責任」など様々な「責任」が存在し得ると思うし、それらについては「証拠」の有無に限らず、関係者の間のやり取りや合意などによって決定が下されればいいと思うが、「法的責任」についてはやはり「証拠」を基に判断されるべきだろう。

もちろん、「慰安婦問題」を考える場合には若干条件を緩める必要はある。映画の中でも、「戦時中の日本軍の資料の70%が焼却されたと考えられている」みたいな説明があった。戦時中という特殊な環境であり、適切な証拠保全も不可能だ。だから、通常の裁判で求められるような「客観的で厳格な証拠」を求めるのは無理があるだろう。「間接的に、そのようなことがあったことを強く推定させるような証拠」でも「法的責任」が認められて然るべき、と考えるのは妥当だと思う。ただ、証拠の強弱はともかくとして、やはり「証拠」は必要だと思う。

そして、被害者の方には厳しい意見になってしまうが、やはり「証言」だけではなかなか「証拠」と認めるのは厳しい、と僕は考えてしまう。繰り返すが、あくまでこれは「法的責任」を追求する場合の話だ。「法的責任」以外の責任であれば、被害者の「証言」に一定以上の信憑性があると認められれば、やはりそれを踏まえたアクションがあって然るべきだろう。しかしやはり、「法的責任」を認めさせる場合、「過去にこんなことがあった」という「証言」だけで判断するのは厳しい、というのが僕の考えだ。

さてこれが、僕が一般的に何らかの「問題」を考える際の前提だ。この段階で、僕のこの「前提」に納得がいかないという方は、恐らく以下の議論もすべて納得できないと思うので、ここで読むのを止めてもらうのがいいと思う。僕自身は、そこまで奇妙な主張をしていると思っていないが、法律の専門知識がある人からすれば何か不備があるかもしれない。「このような不備がある」という指摘があれば教えてほしい。

さて次に、「慰安婦問題」とはそもそも何を指しているのかを考えていこう。とにかく映画の中では、そもそも「問題がなんなのか」が共有されていないために、まったく議論が噛み合っていないという状況が散見されたように思う。

映画を観ながら僕が理解したポイントは、

① 兵士の性の相手をさせる施設を、日本軍が”公式”に用意したのか?
② ①のようなことがあったとして、そもそもそれは当時の「法律」に照らして合法だったのか?
③ ①のようなことがあったとして、そこに女性を”強制的に”送り込んだのか?

の3つである。

この3点について、「慰安婦問題」を肯定派も否定派も、基本的に同じスタンスを取っていると感じる。「①については、両派ともに認めている」「②については、両派ともさして注目していない」「③については、両派で意見が食い違っている」という風に僕は理解した。

つまり、一般的に議論されてる「慰安婦問題」というのは、③の「女性を”強制的に”送り込んだのか?」だと考えていいのだろうと僕は思う。

では、順番に見ていこう。

①については、基本的に両派とも認めていると思う。否定派は、「慰安婦の人たちは、お金をもらって仕事をしていた売春婦だった」という主張をしており、「そのような場を日本軍が公式に用意していた」という点は別に争っていない。

では②についてはどうだろうか? 正直僕は、②こそ明確に「法的責任」を追求できると感じた。

まず、1921年に国連で「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、いわゆる「人身売買を禁じる条約」を採択し、日本も批准している。これは、21歳以下の女性・児童を売春などに従事させることを禁じている。

一方、当時新聞に掲載されていた、売春などを斡旋する業者向けの広告が残っているのだが(たぶん韓国国内の新聞に掲載されたのだと思う)、そこには「17歳~23歳を募集している」と書かれていた。この広告だけをもって「21歳以下に売春させていた」と確定できるわけではないが、かなり強い状況証拠と言っていいだろう。

また、元慰安婦と初めて名乗り出たキム・ハクスンは、「一番上が22歳、それから18歳・19歳がいて、17歳の自分が一番年下だった」と証言している。少なくともこの年齢に関する証言は、彼女の実年齢などから間違いないものとして認められているだろうし、「証言」ではあるが信憑性が高いと言っていいはずだ。

となると、「日本軍がつくった慰安所で21歳以下の女性が働かされていた」ことは間違いないだろう。そしてそれは明らかに、先の条約違反である。

もちろん、この点について責任を負うべきは誰なのかはまた別で考える必要はある。まあ恐らく、その新聞広告は日本軍が、あるいは日本軍の意向を強く受けて出されたものだろうし、この点においては日本に責任があるのだろうと思う。

このように、先程書いた僕の「前提」に照らして、②については割とすんなり「法的責任」を問える。日本政府は、「日本はその条約に批准したが、植民地には適用されない」みたいな主張をしているようだが、さすがにそれはなかなか無理があるだろう。

また、同じく当時「ILO条約」と呼ばれる国際条約が存在し、日本も批准していた。これは、国際的な労働条件を定めたものであり、この条約に照らしても日本軍の慰安所は問題があったとされるようだ。またもう1つ、正確な名前は忘れてしまったが、奴隷に関する条約が存在しており、日本は未批准だったが、慣習法として定着はしていたという。国際法の専門家からは、その条約にも抵触するだろうという見解が得られているそうだ。

このように、「日本軍が用意した『慰安所』には、全員ではないだろうが、当時存在していた法律に違反する形で働かされていた人もいた」ということは事実として明白であるように思う。しかし、理由はよく分からなかったが、先程僕が②として挙げたこれらの問題は、いわゆる「慰安婦問題」には含まれていないように感じるし、あまり議論もされていないようだった。この点についても、日本政府は様々な理由をつけて「当時の法律に照らしてもセーフ」と主張しているようだが、僕にはその理屈は無理があると感じた。しかし、「慰安婦問題」を取り上げている人の焦点が、この②に当たることはあまり多くないようだ。どうしてなのかは、よく分からない。

というわけで、ここまでの僕の主張をまとめると、

《少なくとも慰安婦に関する問題については、「② ①のようなことがあったとして、そもそもそれは当時の『法律』に照らして合法だったのか?」という点について、日本には「法的責任」がある》

となる。僕はこの②においては、明らかに「日本に問題がある」と主張できるのではないかと考えている。

さてそれでは問題の③である。映画の中ではとにかく様々な主張・議論が存在するが、そのほとんどがこの③に関するものだったと感じる。あらためておさらいしておくと、

③ ①のようなことがあったとして、そこに女性を”強制的に”送り込んだのか?
(① 兵士の性の相手をさせる施設を、日本軍が”公式”に用意したのか?)

というのが、一般的に「慰安婦問題」と認識されているものだ。

そして、結論から書くと、僕の「前提」に照らして、この③については日本の「法的責任」を追求するのはちょっと難しいのではないか、と思う。

というのも、ここで問題になるのが「強制的」という言葉の「捉え方」だからだ。

安倍晋三は、たぶん総理大臣在任中のことだと思うが、「慰安婦が強制的に連れてこられたという証拠は存在しない」という答弁をしている。しかし、安倍晋三が言う「強制的」というのは、いわゆる「ロープで縛って連れ去る」ようなイメージの行為だ。「抵抗する相手を無理やり縛り付けて連行する」という意味での「強制」は存在しなかった、と安倍晋三は主張している。

まあ、そりゃあそうだろう、と思う。誰もそんな「強制」が行われたなどと思っていないだろう。

しかし難しいのは、では何を以って「強制的」と判断するのか、ということだ。

「慰安婦問題」の否定派は、「慰安婦の人たちは、いわゆる売春婦であり、たくさんお金をもらっていたし、自由もあった」と主張することで「強制的ではなかった」と言いたがっている。「慰安婦問題」が取り沙汰される際、外国では「性奴隷」という強い言葉が使われることが多いそうだが、彼らは「足に鎖をつけて閉じ込めていたわけじゃない」「奴隷が報酬をもらえますか?」みたいな言い方で、「強制的ではなかった」と主張しようとする。

しかしさすがにこの主張は通らないだろう。例えばまさに今、映画業界で監督らによるわいせつ問題が取り沙汰されているが、客観的に見て「強制的」と捉えられるような具体的な言動が存在しなかったとしても、「監督」と「俳優」という力関係がそこにある以上、「強制的ではなかった」という主張に説得力はない。慰安婦の場合も、外から見て「強制的」と判断されるような言動が存在しなかったとしても、力関係的に「強制的」と判断され得る状況にあった可能性は十分にある。

そして、何の証拠もないが、ごく一般的に考えて「力関係を誇示した強制はあった」と考えるのが自然だと僕は思う。それさえも無かった、と主張するのはちょっと非現実的すぎる。

韓国の事例ではないが、アメリカ軍が聞き取り調査をした記録の中に、「日本が女性を『フィリピンに良い働き口がある』と具体的な仕事内容を伝えずに連れて行った」という証言が存在するそうだ。これも形を変えた「強制」だと言っていいだろう。恐らくそのような、「本人の自由意志に基づかないという意味での『強制』」は様々な場面であったのだと思う。

ただ、僕が提示した「前提」を踏まえた場合、それを客観的な証拠を基に証明することはかなり困難だとも感じる。イメージでは「あった」と思うが、何らかの証拠からそれを強く推定させるような状況ではない。日本は明らかに誤ったことをしていると判断され得るが、しかし「法的責任」を問うのは困難だと感じるのだ。

またこの「強制」にはもう1つ、複雑な背景が存在する。それが「韓国の家父長制・男性優位の社会」である。

日本も大差なかったと思うが、第二次世界大戦中の韓国は、家長である父親の権限が強く、また女性は低く見られていた。映画の中ではあまり具体的に触れられなかったが、恐らく「家族によって『慰安所』に”売られた”女性もいたのだろう」と意見も存在するというわけだ。そう主張した大学教授のパク・ユハ氏は、出版した本の記述を問題視されて懲役3年の有罪判決を受けたと紹介されていた。韓国では、「慰安婦は強制連行されたのだ」という主張以外の意見を口にしにくい雰囲気があるそうだが、それにしても逮捕・起訴するとは驚きだ。

さて、家族に“売られた”場合も、当然だが「自由意志に反した『強制』」と言っていいだろう。しかし、この場合、日本に責任があると考えるのは無理があると僕は思う。映画の中で、「韓国の家父長制を利用した日本に問題がある」と主張する人物が出てきたが、言いすぎではないかと僕は感じた。日本政府が韓国の家父長制を利用したのだとして、確かに倫理的・道義的には「良くない」と思う。しかしこのケースまでも「慰安婦の“強制連行”の事例」に含まれるのはちょっと違うのではないかと思うのだ。

また映画の中で、「慰安婦として働かなければ生きていけない人たちもたくさんいた」という主張が出てくる。それは「それも日本に責任がある」という主旨の主張なわけだが、それもどうなのだろうと僕は感じる。もちろん、そのような理由から慰安婦になった女性も、「自由意思に反した『強制』」の枠組みには入ると思う。しかしじゃあ、「慰安婦として働かなければ生きていけない状況」のすべてが日本の責任なのかというと、それはどうだろうか。もちろん、日本が侵略戦争を仕掛けている側なのだから、日本に責任がないとは言わないが、この「慰安婦として働かなければ生きていけない人」が慰安婦として働く状況さえも「強制連行」の事例に含めてしまうのはちょっと問題の本質が違うように感じるのだ。

さて、ちょっと話が色んな方向に進んだのでちょっとまとめよう。

普通に考えて、「慰安婦として働いていた女性には、慰安所にやってくる様々な理由が存在した」と考えるのが妥当だろう。映画で触れられていたことを踏まえると、以下のようなケースが考えられる。

A:日本軍が何らかの形で「自由意志」を奪い連れてきた
B:日本軍が仕事内容を伝えず「騙して」連れてきた
C:家族に慰安所に「売られて」やってきた
D:様々な理由から困窮しており、慰安婦として働くことで生計を立てようとやってきた

他にもあるだろうが、とにかく、様々な事情を持つ人たちが入り混じっていたと考えるのが自然だろう。そして上に挙げたA~Dについて言えば、僕はA・Bは日本の責任だが、C・Dはそうではないはずだ、と考えている。

A・Bの事例も多数あっただろうし、そういう意味で日本に責任が皆無のはずがない。しかしC・Dのケースもあったはずだし、慰安婦全員に対して日本が責任を負うとも考えにくい。そして、A・Bがどの程度で、C・Dがどの程度なのか、今となっては分かるはずもない。だから、この問題を明快に責任問題として追及するのは不可能だ、と僕は思う。

しかし映画の中では、もう本当に意味不明なのだが、あたかも「慰安婦すべてがA・Bのケースだった」と主張しているように聞こえたり、あるいは「慰安婦のすべてがC・Dであり日本に責任はない」という言い方をしたりしている。そんなアホなことがあるはずがない。割合は不明だが、A~Dまですべてのケースが存在したと考えるのが妥当のはずだ。

しかし、そういう議論には一切ならない。とにかく「0」か「100」かでなければ決着がつけられないみたいな感じだ。

だから、映画で展開されるすべての議論が僕には不毛に思われる。そりゃあ、解決するはずがない。

日本人である僕がこういうことを書くと「責任逃れだ」みたいに言われるだろうが、しかし、「慰安婦問題」は今見てきた通り、「まともには解決が不可能」な問題になってしまっていると思う。だから、「慰安婦問題」に対して何か建設的なアクションを起こすとするのであれば、「慰安婦問題のような事柄が未来に起こらないようにする」ことぐらいだろう。もちろん、被害を受けた方に何もしなくていいというわけではないが、「慰安婦問題」がもはや既に「被害者」の存在を完全に置き去りにしたところで展開されているので、僕は「どうしようもない」と感じてしまった。また、それで十分なのかどうかはともかくとして、日本はこれまでにも元慰安婦の方に対して「支援・賠償」(適切な表現が何かは分からないけど)をしている。まったく何もしていないというわけではないので、「問題があまりにもややこしくなっている」ことも併せ、僕はもう、「過去に何が起こったのか」に関する明確な結論は見いだせないだろうと諦める気持ちがより強くなってしまった。

やはりそれよりは、「未来に同じことが起こらないようにどう責任を果たしていくのか」に目を向けなければならないと感じる。ロシアのウクライナ侵攻においても、市民が虐殺されたり、女性がレイプされたりしているというニュースを目にする。現代でもやはり、人間は同じ過ちを冒しているのだ。それをどのようにして回避できるのか、人類は考えなければならないのだと思う。

さて、映画では、「歴史修正主義者」あるいは「否定論者」と呼ばれる人たちが、「慰安婦は強制連行されていない」「南京虐殺は起こらなかった」という主張を「正史」とするために、憲法改正に積極的に動いたり、教科書の記述に介入したりしている現実にも触れられている。「過去に汚点など存在しない素晴らしい日本」を信じたい勢力みたいなのが権力の中枢にたくさんいて、そういう人たちが「戦前の日本」「明治憲法の時代」に時代を”逆行”させようとしている、という危機感が指摘されていた。

ホントに怖い。

っていうか、「歴史修正主義者・否定論者」の主張は結構ヤバかった。中でもイカれてると感じたのは、

【フェミニズムってのは、ブサイクな女が始めたんですよ。で、心の中も汚い】

【(アメリカでキング牧師による人種差別撤廃の運動が始まったのも)日本が戦争に勝ったから起こったんでしょう?】

みたいな発言だ。特に後者の発言は、最初聞き間違いかと思った。映画でも強調するためだろう、同じ発言が続けざまに2度流れた。彼は「日本が戦争に勝った世界」に生きているんだろうか???

とにかく映画に登場する人の中には、「『慰安婦問題』に関する主張がどうとか以前に、人間として発言がヤバすぎる」と感じさせる人がいる。つまり彼らは、「『こういう発言をしたらマズい』と実感できるような環境にいない」ということであり、それは僕ら一般市民が生きている世界と基本的にまったく接続しない世界なのだと思う。

だから、全然聞く気になれない。仮に「慰安婦問題」に関しての彼らの主張が真っ当なのだとしても、「セルフブランディング」に問題がありすぎて、その主張に大いにバイアスが掛かる。そのことが理解できているのかどうなのか、僕にはなんとも分からないが、ホントに「ヤバい世界だなぁ」と感じた。

もし彼らの主張が、「こういうヤバい発言をしまくることで、『まともに議論しよう』という気力を削ぎ落とそうとする作戦」だとしたら、僕はまんまとその術中にハマっているのだろう。もしそうだとするなら、その作戦は実に上手くいっていると評価せざるを得ない。

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