【映画】「東京オリンピック2017 都営霞ケ丘アパート」感想・レビュー・解説

思っている以上に面白い映画だった。しかしこの面白さは、ジワジワとしか理解できなかった。そういう意味で、人に勧めにくい作品でもある。

しかし本当に、世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあるなと感じたし、東京オリンピックの裏側に、ある意味で非常にドラマティックな出来事があったのかと思わされた。


この記事で僕は矛盾したことを書く、と先に宣言しておこう。そして、そういう「矛盾」こそが、ある意味で映画の背景を支えるテーマであるのだと思う。


この映画には、ナレーションは一切存在せず、説明的な字幕も映画の最後に少しあるだけだ。つまり、状況は断片的にしか理解できない、ということだ。この記事では、HPの記述なども適宜参考にしながら書いていく。


まず、作品全体が何を捉えているのかに触れよう。映画では、「都営霞ケ丘アパート」という都営アパートに住む高齢者たちの生活が切り取られていく。

この「都営霞ケ丘アパート」は、1964年の東京オリンピック開発の一環として建てられた建物だ。そして、東京オリンピック2020を理由に、立ち退きが迫られた。

2012年7月に東京都から「移転のお願い」が届き、住民たちは都に要望書を提出するなどして、住み続けたい旨を伝える。そんな「都営霞ケ丘アパート」の、2014年から2017年までの記録である。


僕の基本的なスタンスとしては、それが「公共の利益」に適うものであるなら、少数の個人が保障可能な範囲で犠牲を強いられることは仕方ないことだと思っている。社会というのは、すべての個人の希望は叶えられないのだし、どうしたって犠牲になる人は出てくる。命を奪われるとか、回復不能な健康被害を被るというような犠牲であれば話は別だが、本人が満足するかどうかはともかく何らかの形で代替の保障が用意できる状況であれば、「公共の利益」のために個人の犠牲は仕方ない、と考える。

だからここで考えるべきは、「東京オリンピックは公共の利益なのか」ということだ。

この問いに答えるのは、結構難しい。この文章を書いている、2021年8月14日は、東京オリンピック2020が閉幕した直後だ。日本は過去最高のメダルを獲得し、国民は大いに沸き立っていたと思うが(私自身はスポーツ全般に興味がない)、同時期にコロナウイルスの感染も大いに拡大した。東京オリンピックとの因果関係についてはなんとも言えないが、感情的な判断では、「オリンピックのせいで感染が拡大した」という気分になるだろう。

つまり、2021年現在のオリンピック終了後の現在の視点からすれば、東京オリンピック2020が公共の利益と言えるのかどうか、なんとも言えないところではある。

しかし、この映画が撮影されていた2014年から2017年に掛けてはどうだっただろうか。コロナウイルスの影など微塵も感じていなかったこの時期であれば、東京オリンピック2020を「公共の利益」と考える人は多かったのではないかと思う(もちろん、反対する人はいたと思うが、全体の雰囲気としては賛成が多かったのではないか、という意味だ)。

だから、この都営アパートからの立ち退きが迫られていた頃であれば、僕は、このアパートからの立ち退きは仕方ないかなぁ、と判断しただろう。

しかし、ここからが矛盾する話なのだが、ここまでの話は、自分が部外者だった場合だ。もし僕が、この「都営霞ケ丘アパート」に住んでいれば、判断はまったく変わってくる。

恐らく僕は、徹底的に抵抗しただろう。都の都合で追い出されるなんてとんでもない、絶対に許さない、意地でも動かないぞ、と考えたはずだ。

しかも、この都営アパートに住んでいたのは、ほとんどが単身の高齢者だ。しかも、寒い冬の時期に出ていけ、という。自分が同じ立場だったら、キレるだろうなぁ。

もし自分が当事者なら、「公共の利益」がどうのこうのなど考えられないだろう。オリンピック?国立競技場の建て替え?そんなことは知らん。

みたいに、きっと僕は感じただろうなぁ。

映画を観ながら僕は、この相反する気持ちをずっと抱えていた。一方で、社会の成員として観る時には、「公共の利益」から考えてこの取り壊しは仕方ない、と思う。しかしもう一方で、もし自分が当事者であれば、絶対に許せないだろうな、と。

印象的だったのが、障害を抱えながら一人で暮らす高齢の男性の言葉だ。障害の等級は、右手が2級(右手は切断されていて無い)、左手が7級(腕を上げることが難しいらしい)であり、一人で暮らしていくのがなかなか大変そうな人だ。

そんな男性が、都営アパートを追い出される現状に対して不満を吐き出している場面で、こんなことを言う。

【都の人も、下の人は可哀相だと思うよ。上からの命令だからさ】

僕は「部外者」として、この映画を観て同じことを感じたが、「当事者」も同じことを感じているのだ、と思った。確かにその通りだ。

この都営アパートの解体については、時期ごとにその理由が変わっていったようだ。最初はラグビーの大会、次にオリンピック/パラリンピック。しかし2015年に、新国立競技場の整備計画を白紙に戻すと安倍前首相が決断。都営アパートの解体にも待ったが掛かるかと期待されたが、その後「都市計画で決まったことだから」と、結局解体が覆ることはなかった。

都は、理由はなんであれ、「都営霞ケ丘アパート」を解体したかったのだろう。映画の冒頭で話していた女性が、「石原都知事から、『こんな汚いアパート』って2回も言われたからね」みたいなことを言っていた(ちゃんと聞き取れたわけではないので、全体の趣旨も含め、聞き間違いがあるかもしれないが)。基本的に、解体することありきで、理由は後付だったのだろう。

そんな上からの号令があるのだから、下は諾々と従うしかない。その大変さについて、東条英機の話を持ち出しながら説明していた。

しかしいくら上の号令があって大変だと言っても、都の職員の対応はいただけない。同じく障害を持つ男性が、「福祉協議会の話など全然してくれなかった」と嘆いていた。男性は障害ゆえ、一人で引っ越し作業をするのが困難だ。それを訴えると、都の職員は、「私たちは知らないから、自分でなんとかしてください。身一つで引っ越して、100円ショップでなんでも買えばいいでしょ」みたいな対応をしたという。

実際には、障害者への支援を行う福祉協議会の支援を得られたようだが、そんな提案すら都の職員はしてくれなかった、と嘆いていた。

また、住民のサポートをする人物(弁護士だと思ったが違うかもしれない)が、記者会見で凄い話をしていた。都の職員が、「都営霞ケ丘アパート」の住人にアンケートを取り、「8割の住民が移転を希望している」と発表したそうだが、実はそのアンケートには「移転を希望しない」という項目がなかったそうだ。そんなアンケートを、軽いノリのものだと思わせて書かせ、実態とはかけ離れた「8割移転希望」という情報を捏造する、というのも、凄い話だと思う。

この映画が良いのは、住民を取り巻く問題について、賛成とも反対とも表明しないことだ。映画には、住民が都庁に出向いて訴える場面も挿入される。そこでのやり取りでやっと、この都営アパートに何が起こっているのか理解できるのだが、この描写はとても少ない。恐らく、この問題に対する制作側の立場を明確にしないためではないかと思う。そして映画全体は、アパートに住む住民の普段の生活をひたすら映し続けることで成立する。

そして、それが「成立している」ということが凄い。というのも、普通なら成立しないと思うからだ。

僕の勝手なイメージだが、この映画の制作側は、「0か100か」の勝負に出たのだと思っている。僕はこの映画を面白いと感じたが、たぶん人によってはまったくつまらない映画だと感じるだろう。そして、そういう映画にしようと考えたはずだ。

もっと一般受けする映画に仕上げることは、全然できたはずだ。ドキュメンタリー映画をある程度観るという人であれば、大体面白いと感じてもらえるような構成には。しかし敢えてそういう作品にはしなかったんじゃないかと思う。

ナレーションが一切なく、音楽もほとんどない理由が、そこにあると思っている。

冒頭でも書いたが、この映画には、説明的な描写がほぼないので、何が起こっているのか理解するのが大変だ。僕は映画を観る時に、その映画に関して出来るだけ調べずに行くので、「都営霞ケ丘アパートが解体されようとしている」ということも、なんとなく理解していった感じだ。

映画の焦点を、「個人の権利を侵害する国家権力の横暴」という風にして、対立姿勢が如実に現れる場面を切り取り、ナレーションや音楽をたくさん入れる感じにすれば、全然違う映画になったはずだし、その方が万人受けはするだろうと思う。

しかしこの映画は、そうはしなかった。映画では、個人VS国家というような構造はほぼ無く、崩壊に至るまでの淡々とした日常が切り取られていく。

普通に観ればこの映画は、「お年寄りの一人暮らしを延々と撮影しているだけの映画」ということになる。普通に考えて、面白いはずがない。しかしそこに、「建物から退去を迫られている」というメタ情報が加わることで、見え方が一気に変わってくる。映像そのものは、高齢者の一人暮らしの映像でしかないのだが、数十年以上も当たり前にそこに存在した光景が無くなってしまうことが確定している、という事実と併せて捉えることで、「単なるお年寄りの生活」ではなくなる。

そして、「それを面白いと感じる人もいるはずだ」という期待に賭けたのだと思う。そうでなければ、なかなかこんな構成には出来ないだろう。

はっきり言って、ほとんどの場面で、特別なことは起こらない。食事をし、テレビを見、他の住人と話し、かつてこのアパートで撮られた写真を見て思い出話を咲かせる。時折、引っ越しのための片づけをしたり、引っ越しの苦労を嘆く場面が出てくる。しかし、それも量としては多いわけではない。やはり、住民のありきたりの特別ではない日常が映し出されていく。

このアパートの一階には、どうやら八百屋があったようだ。その八百屋でのやり取りも映しだされる。もちろんこれも、特になんということはない映像だ。

しかしこの八百屋の主人は、二度の東京オリンピックで大変な思いをしたようだ。都庁で記者を前に語っていた。

1964年のオリンピックでは、元々商売をしていた場所からオリンピック絡みで移動してくれと言われた。困ったので都の人に相談すると、西新宿の土地を紹介してもらった。前の住民がまだいたが、出ていくのだという。

八百屋の主人は、契約を済ませ、引っ越しのトラックを手配し、さて引っ越しだとなったのだが、なんと前の住民が出ていかなかった。2年間裁判をしたそうだ。その後結局主人は、同じく都の人の紹介で「都営霞ケ丘アパート」へと店を構えることになったのだそうだ。

しかし東京オリンピック2020があるからまた移動しろ、と言われている。オリンピックには悪い印象しかない、みたいなことを言っていた。

こんな風に、住民の思いは、映画の端々で少しずつ明かされる。普段の何気ない生活がメインの映画だから、余計にそれらが印象に残る。当たり前の生活をただ当たり前に続けてきただけの人たちが、大きな流れの中で流されざるを得なかった悲哀みたいなものが、ジワジワと浮き彫りになるのが良い。

映画の後半はやはり、引っ越しや退去の準備の場面が増えてくる。諦めを背負って淡々と作業に勤しむ姿から、それまで映画で丁寧に映し出してきた「当たり前の日常」が本当に消えてしまうんだ、という感覚が伝わってきて、感情を盛り上げるような音楽など特にないのに(ないからこそ?)、グッと来るものがあった。

非常に静かで、人によっては退屈にしか感じられない映画だと思う。しかし人によっては、何故か抉られるような気持ちに襲われるだろう。なかなか見たことがない、不思議な映画だと思う。

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