【映画】「ドライビング・バニー」感想・レビュー・解説

なかなか凄い映画だったな。

その凄さは、こんな風に短く表現できる。僕は、主人公バニーがメチャクチャ嫌いなのだけど、映画としては良かった。

僕は、バニーの存在を許容できない。「自分の身近にいたら嫌だな」というレベルではなく、「こういうタイプの人が世の中に存在すること」そのものに結構嫌悪感を抱いてしまう、そんなレベルの存在だ。バニーが抱える背景はともかくとして、彼女は、自分の都合のために平気で嘘をつき、実現不可能だろう空約束を「絶対」と断言し、「私は母親なんだ」という言葉を錦の御旗としてあらゆる状況を突き進もうとする。

すべて嫌いだ。

この映画を観た人が、バニーをどんなふうに捉えるのか僕には分からないが、確かに、「母親の愛に溢れた、慈愛そのもののような人物」と、プラスの評価を与えることも可能だ。可能ではある。

でも僕は、バニーをそう評価する社会も許容したくない。そうじゃないだろ、と思う。

映画を観ながら、別の映画のある場面を思い出した。ラストの展開に関わる、かなりネタバレになる話なので作品名は伏せるが、シングルマザーでありながら宇宙飛行士としてチャレンジする女性の物語である。彼女は実際に宇宙へ旅立つことが決まり、離陸前の隔離期間に入る。詳しく説明はされないが、恐らく、「地球上の細菌やウイルスなどを宇宙ステーションに持ち込んで感染させたらマズい」という理由から、登場直前は完全な隔離状態に置かれるのだと思う。

しかし主人公の女性は、その隔離されている最中に抜け出し、子どもに会いにいく。彼女には、どうしても子どもに会わなければならない理由があったのだ。これが、物語のラスト付近に置かれている。恐らく制作側の意図としては、「ルールを破ってでも子どもに会いに行く母の愛」という感動物語にしたいのだと感じた。映画は、そういう作りになっていると思う。しかし僕はそのシーンを見て、「『母の愛』なんかで破られていいルールのはずがないだろう」と感じた。別に「母の愛」を重視するのは自由だが、それは、他の自由を侵害しない限りにおいてであるはずだろう。彼女は、ルールを破って子どもと会ったことで、宇宙空間に滞在する宇宙飛行士全員の命を危険に晒しているのだ。そんなこと、許されていいはずがないだろう。

僕はこういう、「『母の愛』はすべてに勝る」みたいな風潮が大嫌いだ。

そしてこの映画でも、同じように感じた。バニーは確かに、「母の愛」に満ち溢れた人物だ。それは認める。しかし、だからなんだ? と僕は思う。「母の愛」のためならすべてが許容されるのか? そんなはずがない。

というような感じで、僕は、映画を観ながら割とイライラしていた。

が、映画のラスト(公式HPでも触れられており、書いても問題無さそうだが、とりあえず書かないことにする)で、映画全体の捉え方が一気に変わった。バニーが嫌いであることは変わりない。ラストの展開で、さらに嫌い度が増したぐらいだ。しかし、映画全体としては、このラストの展開はとても良かった。「狂気を煮詰めて凝縮した」ようなぶっ飛んだラストなのだが、「映画に適切なピリオドを打つ」という役割は完璧に果たしていたと思う。

どうしてこのラストの展開を良いと感じるのか、イマイチ理解できない。しかし、バニーと一緒にいた2人も、やはりバニーの行動を否定しきれないのだ。2人の内の1人は、元々バニーと関わりのある人物なので理解はできる。しかしもう1人は、その時その場で初めて会った人物なのだ。それなのに、バニーのウルトラハイパー狂気の果てに、彼女に「共感」を示す行動を取る。その行動は、その人物の職務において明らかに「違反」と受け取られる行為だったが、そういう決断をした。確かに、分からないでもないと思う。

ラストの展開を良いと感じた1つの側面として、「ステレオタイプにしか物事を捉えない人間への嫌悪」が挙げられるかもしれない。僕の内側にあるその「嫌悪感」が、バニーの狂気の行動と相まって、何か化学反応を起こした可能性はある。

物語はバニーの視点で描かれており、観客はバニーが置かれているなかなかに厳しい状況を理解している。だからこそ、バニーの言動に「共感」する余地が生まれるのだ(僕はバニーには共感できないが)。

しかし一方で、もしバニーのことを「情報」としてしか知らなかったら、バニーという女性をどう捉えるだろうか? 彼女には過去に犯罪歴がある。定職も家も金もない。妹の家に居候しながら、道路上で流しの「車の窓拭き」をして日銭を稼ぐ日々だ。ある事情から、愛する2人の子どもとは離れ離れになっており、家庭支援局で観察下に置かれた状態でないと会うことができない。

さて、バニーのことを、このような「情報」でしか知らなかった場合、私たちは彼女のことをどう判断するだろうか? やはり「ロクでなし」みたいな捉え方になってしまうだろう。

バニーは、そのような「負の見られ方」の中で生きている。もちろんそれは、大部分がバニーが悪いのだと思う。バニーの過去についてはほとんど詳しく描かれないので具体的には分からないが、状況がどうだったにせよ、バニーは「許されざること」をしてしまったわけで、そのような過去を払拭するような生き方をしなければ「負の見られ方」を払拭することは難しい。しかし彼女は、なかなかそれに値する行動を取れていない。もちろんこれは、「卵が先か鶏が先か」という話ではある。「負の見られ方」が解消されれば自分だってもっと良い振る舞いができる、とバニーが考えている可能性はある。しかしやはり、客観的には、バニーはもっと自制心を働かせ、努力しなければならないと僕は思ってしまう。

さて話を戻そう。とにかくバニーは、「負の見られ方」の中で生きている。そして、その最たる状況がラストの展開だと言えるだろう。バニーの「情報」は、さらに悪い形で更新されることになったのだ。

しかし、「情報」ではなく「バニー」という人物を見れば、「情報」だけの時と比べて印象は変わるだろう。僕は共感できないが、共感の余地が存在することは理解できる。しかし、これも仕方ないことではあるのだが、バニーはあらゆる場面でやはり「情報」だけで捉えられてしまう。

前に映画『流浪の月』を観た時に、「見て分かることにしか反応できない世の中にイライラする」というような感想を書いた。ここでいう「見てわかること」は、この記事で言う「情報」だと思ってもらえればいい。ステレオタイプ的にしか物事を捉えられない人には嫌悪感を抱いてしまうし、そういう「ステレオタイプ」からこぼれ落ちてしまう部分にこそ、人間的な魅力も存在しているはずだと僕は思っている。

『ドライビング・バニー』には、バニーを支援すると言いながら、「情報」でしか物事を判断しない人たちがたくさん登場する。もちろん、彼らを非難したいわけではない。それが公的支援であれば「情報」や「手続き」は重要だし、職員が個人の感情で物事を決するのは正しくない。決して職員に非があるといいたいわけではないが、とはいえ、あまりにも「情報」でしか物事を判断しない世界には嫌気が指してしまう。

そして映画のラストシーンは、そんな「『情報』でしか物事を判断しない世界」に対して、バニーが捨て身の方法で対抗しようとしているように感じられたのだ。そして、そのことに「痛快さ」を感じさせられたのではないかと思う。

同じ捉え方を、ラストシーンに深く関わるもう1人の主役に対しても当てはめることができる。ラストシーンに誰が絡んでくるのかぼかすために名前を伏せるが、彼女もまたどうにもしようがない状況に対する絶望を感じている。現状から抜け出したいが、それは簡単には叶わない。

そんな彼女は、バニーの「『情報』でしか物事を判断しない世界への抵抗」を見て、僅かばかりの「希望」を感じ取ったのではないかと思う。彼女の中には選択肢としてそもそも存在しなかった可能性が、バニーの行動によって浮かび上がったのではないかと。もちろん彼女は、バニーのように振る舞いはしないだろう。しかし、自分の内側に可能性があるかどうかは、かなり大きな違いだと僕は思う。「そういう可能性もある」と信じられることが、クソみたいな現実に立ち向かうための力になってくれることもあるのだ。

客観的には、最低最悪としか言いようがないラストではあるのだが、映画全体は適切に閉じたと思うし、もう1人の主役もあらたな選択肢を得て翌日の世界を迎えることができるようになった。バニーは最後まで「狂気」として終わり、僕は彼女のことを最後まで好きになれなかったが、しかし、良い映画だった。

という、とても不思議な作品である。

最後に。そのもう1人の主役を演じた女優、どこかで見た記憶があると思ったら、『ジョジョ・ラビット』に出てた人のようだ。

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